第二話 あの頃の二人のように
「追っては来ないと思うけど、もう少しこうしてよう」
「うん。ごめん。ありがとう」
朔太郎は優しく海の肩を抱いたまま、スマートに会計を済ませた。店を出ても暫く恋人のふりをして歩き、最寄りの駅に着いたところで肩から手が離れていく。仄かに残る朔太郎の体温に、海は無意識に手を伸ばした。
順也は追って来るほどでは、なかったのだろうと思う。別れて時間も経っていたし、何なら浮気をしたのは順也。先に冷めて行ったのは、彼なのだ。
「本当にごめんなさい。何だか面倒臭い男で。自分が浮気したくせに、ネチネチ言い続けるものだから、苛っとしちゃって」
勢いよく頭を下げると、朔太郎はクスクス笑い出した。
「なかなかない体験だったから、合ってるのか不安だったよ。あの対応で良かったんだね」
「大丈夫。本当に助かりました。しかも、さっき会計してもらっちゃって。次は私が奢りますね。お礼もしないといけないし」
『ウチの』と彼が言ったこと。『よく分かっている』と言ったこと。そのせいか、海の心は押し殺していた感情を押さえ切れそうにない。必死に閉めた蓋がボンボンと中から突き上げられ、簡単に開いてしまいそうなのだ。
「じゃあ、それって今日でもいい?飲み直さない?」
「今からですか?」
「嫌ならいいんだけど。何か変なまま別れるのもあれだし。それに今からって言うけどさ、まだ二十時半だよ。あの頃みたいに、門限があるわけでもない。今日は土曜日だし」
「門限……確かにないね」
目を合わせて笑った。彼もこれは、あの頃のような感覚なのか。それとも、時が経ったから出来る大人の笑みなのか。それはきっと多分、後者。ただ、数時間前とは違う感情も含めた、大人の笑みである。
「さっきのって、元カレ?」
「あぁ、うん」
「前に花枝さん達が言ってたクリスマス、の」
「……そう」
入り直した居酒屋で、お洒落なグラスから持ち慣れたジョッキに持ち替えた。半個室になっている席は、周りと目が合わないように配慮されている。いつもなら安心できるこんなカーテンの目隠しが、今はただ二人きりになったようで、緊張を倍増させていた。
「そっか。ちょっと酷かったね。本当に大丈夫?」
「はい。私はもう忘れてたくらいなので。さっき急に、海って呼ばれて。彼だって分かっても、挨拶くらいですり抜ければ良かったんです。付き合ってた時は優しかったんだけど、その欠片もなかったですね」
ジョッキをグイッと傾けた。胸の辺りがムカついて、モヤモヤしている。よりによって、朔太郎と一緒にいる時に会うなんて。間の悪い話だ。
「もう、忘れなよ」
え、と小さな声が漏れた。朔太郎は目線を下げたまま、タコワサを突いている。聞き間違いだろうか。彼はグッとビールを流し込むと、「よし、今日は愚痴も聞こう」と胸を張った。
「いや、いいです。田中さんにだけは、言いにくいので」
「あのさ……しーちゃん。今日はもう『田中さん』じゃなくてもいいんじゃない?仕事の人もいないし、あんなこともあったし」
少しずつ忘れよう。そう決めた防護壁を、また朔太郎は壊しにかかる。理沙に昨夜久々に愚痴ったのだが、海はやはり簡単に彼へと手を伸ばせないのである。
「いや、田中さん。ここはきちんとしておかなきゃ」
「どうして?しーちゃんはさっき、あの元カレをジュンヤって簡単に呼んでたじゃん。それと同じだよ」
順也と並べられても、違うと思う。彼は仕事上の付き合いは全くないのだ。それは恐らくこれからも。現状で取引先である朔太郎とは訳が違う。
「いや、同じじゃないよ」
「うぅん。じゃあさ。今は、仕事だと思う?」
「いや、それもちょっと逸れては来たけど」
「だよね。難しく考えなくてもいいんじゃない?だって仕事の合間に食べるランチとも違うし、ほら今は私服。完全にプライベートの時間じゃん」
「まぁ、そうだけどさ」
まだ納得できない海は、視線をキョロキョロと泳がせた。朔、そう呼んでしまったら、簡単に引き戻されてしまう。そうすることが怖いのだ。朔太郎はきっと昔懐かしいだけで、海のようにずっと思い続けてきたのとは違う。気軽に引き戻されて、また置いていかれたら、きっともう二度と立ち直れない。それなのに。
「ね、しーちゃん。今の苛々話した方が楽じゃない?」
「そうだけどさ。だからと言って、田中さんには」
「あのさ。田中さん、田中さんって言ってるけど、それ以外は崩れてるからね」
へ?と間抜けな声を出して顔を上げる。それを、しめたと言わんばかりの顔で、朔太郎は悪戯に笑った。
「どうしますか?木下さん」
「はぁ。意地悪ね、朔」
根負け、なのかも知れないが、肩の力がフッと抜けた。こうなれば、後は野となれ山となれ、である。
朔。そう呼んでしまえば、必死に貼っていた予防線など、一瞬で消えてなくなる。プライベートだと丸められ、納得したようで腑に落ちてはいないが、『田中さんと木下さん』からは距離が確実に縮まるのだ。
理沙は昨日言っていた。今日だけでいいから楽しめ、と。まだそうして良いのか悩んでいるが、その理沙の意見を取りたい自分もあった。あの頃のような、幸せなのに儚いこの時間を、今日だけ夢だと楽しめれば。それならば、仕事の邪魔になるこの想いは、明日になったらさよならしよう。
スゥッと息を吸い、「よし、朔。今日は飲もう。何かムカムカするから、今夜はスッキリするまで付き合って」と一度に言い切った。
臆病に縮こまった心を奮い立たせて。
「お、良い心構えですね。朝まででも付き合いますよ」
「いや、朝までは」
「真面目だな。良いんだよ。朝までじゃなくても、気が済むまで飲めば」
「真面目で悪かったわね」
拗ねた海を、朔太郎は口端に力を入れて笑いを堪えたように見えた。真面目だ、と彼に言われることは、やっぱり今でも苦しい。小さく、小さく、心が抉れる。
「いいんだよ、それは。しーちゃんのいいところだよ。さっきも言ったろ」
「何よ。いつだって真面目過ぎるって、喧嘩になったじゃない」
「あぁ、そうだけど。最近さ、花枝さんとか千佳ちゃんとか。あと野村さんや畑中さんも、皆。その真面目なしーちゃんのことをちゃんと見てて、好きなんだなって思って。俺の方が見えてなかったんだなって」
そう言うと朔は、ググッとジョッキを空ける。言葉尻が小さくなった彼は、恥ずかしかったのだろう。当然海も照れくさくて、釣られてジョッキを空にした。顔は赤くなっていないだろうか。
あぁ、これはきっと夢なんだ。あの夢に出て来る綺麗な顔で笑う朔太郎が、目の前でまた笑っている。でも少し、年をとったことに気付くと、一気に現実味が増す。人のことは言えないが、十代とは違う貫禄が互いに付いている。変わらないのは、あの手。魔法のように絵を描くあの手。
「朔が絵を描いてるの見るの、好きだったなぁ。私、絵は描けないから。羨ましかったし、不思議だったんだ」
「不思議?」
「そう。何でその線の次に、この線描いたの?どうして?って」
海は一本線で描くのが精一杯で、朔太郎のように立体的に描くことなんて出来ない。それをいとも簡単にやってのけるその手の動きを、いつも不思議に眺めていたのだ。
「その線の次にこの線、か。考えた事ないや。感覚なんだろうね、きっと。自分のイメージする出来上がりに向けて、夢中になってると言うか。頭で考えるよりも、手が動いたって感じなんだと思うんだけど」
「頭で考えるより、かぁ。私には出来ないんだよなぁ。頭であれこれ理屈を考えないと、何も出来ない。だから、物を使うスポーツが苦手なのよね」
漠然と走るだけのランニングは好きだ。だけれど道具を使う物となると、考え過ぎてしまう。ゴルフをやってみた時が一番酷かった。想像するだけでお腹一杯なのである。
「でもさ、そう言うけど。ほら、しーちゃんだって。感覚云々とは少し違うかも知れないけどさ。この間のソファの座面云々の時。メジャーをサッと出して、すぐ動いたじゃない?あぁ言うのは、俺は凄いなぁって思うよ。考えてるから、細かい所にまで気がつくんだろうなって」
「そう?ありがとう。あぁ、でもさ。お互いに褒めあってる私たち、少し間抜けじゃない?」
「え?あ、本当だ」
今日は何の壁も作らない。今日だけは。そう決めたら、自然と腹を抱えて笑っていた。 きっと今はこれでいい。
あんな所に、タイミング悪く順也がいるから。ここに入ってきた時は、まだ少し恨めしかったけれど。もしかすると、感謝をしなければいけないのかも知れない。そんな気さえ湧いて来る。
夢を見ては泣いた朝を、海は何度越えてきたろうか。その彼と、例えこれが最後だとしても、また二人で笑い合えているのだから。 あの頃の二人のように。
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