第一章 

第一話 新しい恋を見つけたい

「で。急に呼び出して、何があったの」


 仕事を終えた金曜の夜。大学時代の友人――理沙は、理由を聞きながらも顔は既に呆れていた。飾りっ気のない居酒屋で、こうして顔を突き合わせるのも屡々である。


 頼れる姉御肌の理沙。おっとりした佐知さち。それから、慎重過ぎる海。三人は性格こそ違えど、学生時代から色んなことを共にして来た親友である。誰かがフラれれば夜通しで飲み明かし、誰かに嬉しいことがあればホールケーキを抱え込んで、そのまま食べた。海にしてみれば、楽しくて輝いていた時代である。

 そんな関係に変化が起きたのは五年前のこと。佐知が結婚をしたことだった。大人になっても馬鹿をし続けた三人の中で、一番結婚という物に向いているのは誰が見ても明らかなこと。当然彼女が幸せを手に入れたことは嬉しかったが、寂しさが一番強かったのも事実だ。羨ましいと言うよりも何よりも、今までのように三人で馬鹿をする時間を失ったことの方が、その時の海には大きな出来事だった。


「うぅん。いつものヤツ」

「またぁ?最近多いね」

「うん。何だろ、疲れてるのかなぁ」


 特に深く掘り下げることはせず、理沙は正面を向いたままビールを流し込んだ。もう幾度と零して来た話である。すんなりと受け止められたようだった。

 それを傍目に見ながら出汁巻を頬張る海は、今日何度目かの溜息を吐く。


「あ、溜息は良くない。海さん、出会いが逃げますよ」

「出会いねぇ。そんなの何処にあるのよ。これまで見逃した?理沙はいいよなぁ。隼人くんいて。って……ごめん。今日隼人くんと会う日だった?」

「あぁ、いいの。どうせ先に帰って寝てるよ」


 自分の愚痴を言う為に、誰かのデートを邪魔しているのでは好機は訪れない。青褪めた海を余所に、理沙は澄ました顔をする。申し訳ないことをしてしまった、と海は心の中で隼人に謝っていた。

 仕事に生きる。そう高らかに宣言をし、独りで生きていける女を目指している理沙。だけれども、しっかり年下の彼氏がいる。出会いは何だったか忘れたが、平日は互いに仕事で干渉せず、週末に理沙の部屋に来るらしい。週末婚、なんて言葉が昔あったが、そんなものだろうか。理沙にとっては、そのくらいの距離感が心地良いらしい。


「隼人のことは良いんだけどさ。海。本当に順也くんと別れてから、何もない訳?あれってクリスマスだったよね」

「そうよ。一昨年のね。だからもう一年以上経つわね。大体さ、そんなときめきなんてあったら、私が隠しておけると思う?」


 ジョッキを突き出しながら海が言えば、理沙は一瞬だけ上を見上げて「それは無理ね」と笑った。


「海と順也くんも、結婚するのかなって思ってたんだけどなぁ」

「あぁ……それは、私だって思ってたよ」

「あ、だよね。もう海はさ、男運がなさすぎなんだよ。大学の時の彼氏だって、何だっけ?彼の家に行ったら、知らない女が寝てただっけ?」

「そうそう。その次は、彼氏の家から次々と、私の物じゃない女性用の物が出て来て。順也は三年付き合っても、そんなの微塵も感じた事なかったからさぁ。ショックだったなぁ」


 順也――。海だって、彼とは結婚するんじゃないか、そう思っていた。

 それまでの彼氏は女にだらしなく、いつも理沙と佐知には呆れられていたが、順也は違った。好青年だと二人が評価していたくらい、真面目な男だったのである。だからこそ、まさかあんな風に裏切られるなんて思いもしなかったのだ。

 あれは、世間がクリスマスシーズンに浮かれている頃だった。幸せそうなカップルや家族連れ、街には陽気な音楽が流れる。幸せを具現化したような空間があちこちに出来ていた――



 海は、順也へのプレゼントを探して街を歩いていた。同い年の彼も、少し大人の落ち着きのあるものを身に付けてもいいような気がしている。そんな雰囲気のネクタイとか小物がいいのではないか。そんなことを一人考えながら、色々な店を見て回っていたところだった。

 偶然、本当に偶然に、真正面から歩いて来たイチャイチャしたカップル。よくも屋外でやるものだ、と感心したのも束の間、あれは海の彼氏――順也である。隣にいるのは、海の見た事のない女。


「いや、海。違うんだ」

「は?違うって何?今日は同期と飲み会じゃなかったっけ?」


 何かを聞く前に彼は、この状態を誤魔化そうとする。海に吐いた嘘など、忘れているのかも知れない。ギュッと腕を絡めた女は、百歩譲って同期だと認めるには明らかに若過ぎる。


「いや……」

「わかった。今ここでなら言い訳を聞きます。どうぞ」

「この子は、その……」

「この間、合コンで口説かれちゃって」


 順也が何か話そうとするのを遮るように、女の方が身を乗り出し口を開いた。クネクネと身を捩らせたのを冷静に眺める。


「あ、そうなんだ。へぇ。合コン」

「そうなんです。この間、彼のお友達たちと一緒に」

「へぇ、なるほどね。順也」


 まるで女と知り合いであるかのように、自然に会話が進む。どうして嘘を吐くの。そんな可愛い気持ちは一つもない。コイツもか、と呆れる方が大きかったからだ。だから、涙など出ない。笑ってしまうくらい、冷静だった。合コンに行った事にすら気付けなかったのだから、自分にも落ち度があるな、とすら思っているくらいである。

 ただし、その冷静さは順也には恐ろしく見えたのだろう。口をパクパクさせる割に、何も言葉を発せていなかった。


「クリスマスプレゼント買う前で良かったわ。じゃあね」


 軽く手を挙げて、踵を返した。また明日、とでもまるで言うかように。何か後ろから聞こえて来たが、振り向く事はしなかった――



「海はさ、お人好しなのよ。彼氏の事はいつだって、絶対にいい人って決めつけてる。世の中にいい人なんて、ほぼ居ないようなもんよ。いい人だって言われてる人だって、心の中に浮ついた面やドス黒い面だってあるの。海だって、あぁコイツ馬鹿だなって思う事だってあるわけでしょ?」

「まぁ……そうだね」


 順也に呆れ返ったあの時、こいつも馬鹿だな、と確かに思った。 彼だけではない。同じように浮気をして言い訳を並べた元カレたちにも、その都度そう思っている。


「男なんて、何考えてるか分かんないんだから。うぅん、と言うかね。他人なんて何考えてるのか分からない。だから信じ過ぎるのも良くないよ」

「そう、だよね。あぁ、もう。返す言葉が見つからない」


 漏れそうになった溜息とともに、ジョッキに残ったビールを飲み干した。明日は休みだから、どれだけ二日酔いに悩まされてもいい。店内は色々な声色で溢れ、どの卓も楽しそうに盛り上がりを見せている。


「よし、飲もう。おじさーん、生二つ」


 バシバシと海の背中を叩き、理沙が勝手にした追加注文。ここはオシャレなバーではない。陽気に顔を赤らめたおじさんばかりの赤提灯である。気取る事はないのだ。


「ところで。ずっと気になってたんだけど」

「何、その言い方怖い」

「そう?いやね、その夢の彼はさ。今何してるの?いつも気になってて」

「あぁ……」


 夢の彼――田中たなか朔太郎さくたろう。海の青春の全て。そして今、苦しい夢に出て来るメインキャストである。


「何してるんだろう……クラスも違ったし、高校の友達の間でも話題に上がった事ないや。でも美大に行ったから、そういった関係の仕事してるんじゃないのかなぁ」


 彼は、何をしてるんだろう。どこにいるんだろう。

 考え始めたらいつも、頭の中が直ぐに彼でいっぱいになってしまう。だから海は、心の奥底に仕舞って、厳重に鍵をかけている。思い出してはいけない、と。


「私も会ってみたいなぁ。昔、卒業アルバム見せてくれたじゃない?あの感じからすると、落ち着いた大人になってそうだよね」

「……そうかなぁ」


 朔太郎はそんな落ち着いた人間じゃない。『自由』という肩書きがぴったり来るような男だ。いつでも好奇心が旺盛で、失敗を恐れない。保守的でウジウジ考える海とは、真反対にいるような人間だった。


「じゃあ、海はどんな人になってると思う?」

「理沙ったら、もう。彼の話はいいよ。夢に出て来るのは、本当にシンドイんだけどさ。いい加減、前に進まないと。何年経ってると思う?十二年だよ。流石に新しい恋見つけないと」


 ジョッキを力強く握り締めながらグビグビと酒を煽る海を、理沙は「いい飲みっぷり」と茶化して笑った。

 新しい恋を見つけたい。夢に出て来る彼はもう、過去の事なんだ。そう認識させる為に、わざと理沙は吹っかけてくるのだと海は思っている。本当は、半分以上がただ楽しんでいるだけかも知れないが。


 三十歳になるだなんて、そんなことなんてすっかり忘れて。大きな口を開けて笑って飲んで。昔のように過ごせば、何だかあの頃に戻れた気分になれる。理沙の部屋で待っているはずの隼人には申し訳ない気持ちもあるが、今夜は許して、と目を瞑った。

 勿論こんなことでは心も体も戻れないことも、心も晴れて行かないことも、本当は分かっている。無理をしているのかも知れない。それでも、明日を歩くために海は笑った。

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