第四章
第一話 あの頃を思い出せば
「しーちゃんと俺は、違う。合わないんだよ、考え方も何もかも」
十数年前に自分が海に言った言葉を、朔太郎はフッと思い出した。本当に無意識のことで、温かいシャワーを浴びているはずなのに身震いしている。あれ。あの後どうなったのだっけ。結局は別れる事になった、ような気がしているのだが、本当はどうだっただろう。確か受験シーズンで、少し苛々していたのは覚えている。
あの頃。彼女はキラキラした目で、朔太郎のデッサンを眺めていることが多かった。魔法みたい、と、いつも楽しそうに。勿論朔太郎も、凄いね、と微笑んでくれる彼女が好きだった。あぁ、そうだ。それが次第に重荷になったのは、海が推薦で受験を終えた後のこと。いつも通り接してくれた彼女に対して、苛立ったのだ。ナーバスになっていた、と言えば聞こえがいいが、ただの焦り。計画的に受験を終えた彼女の、どことなく見え隠れする余裕が苛ついて仕方なかったのだ。
確か、そうしていたある日のことだ。彼女が「デッサン以外は勉強しなくて良いのか」と問うたのだ。今思えば、心配してくれたのだろうと思える。自分の余った時間を、朔太郎へ費やしてくれようとしたとも考えられる。ただそれが、当時の朔太郎には煩わしくて仕方なかった。親ですら言って来ないような小言を、先生のように言って来たのである。そう、そして溢れたのだ。海と自分は考え方も何もかも合わない、と。
「自分勝手だな」
風呂に潜りながら、ボソボソと独り言つ。あの当時、自分は間違っていない、そう思っていた。彼女もまた、同じように思っていたのだろう。
考え方など、得て来た環境が違うのだから、異なって当然である。それをそう受け止める余裕がなかったのは、若かったせいではない。自分のことばかりで、相手を思いやる気持ちがなかったのだ。誰かを批判するのは簡単なこと。そんなことに今更気が付くとは。
「情けねぇな……」
過去の自分の嘆かわしさに、大人になった朔太郎は肩を落とした。余裕がなかったにせよ、気に掛けてくれたことへの感謝は伝えられたろうか。何とか思い出を引っ張り出してみたが、そこはどうにも思い出せない。断片的に覚えているのは、海が涙を流した姿だけ。それすら、何時のことだったのか分からないのである。
気付けば、こうして海を思い出すことが増えていた。仕事で顔を合わせる事もあるからだろうか。ミノリの案件だけを毎日やっているわけではないのに。
本当ならば、ベリータのことを考えなくてはいけない。いつでもいい、と言ってくれた言葉に甘え、月日はどんどん過ぎている。あの日、『この仕事が終わったら、きちんと考える』とメッセージを送ったのが最後。仕事が忙しい、と言う言葉が言い訳になる程、忙しくはない。ただ考えることから逃げているのだ。ベリータのことだけを考えるならば、あの時彼女が居たことに安堵したのは確かだ。ただ、海に再会してしまった。それが全てを悩ませている。
「おはようございます」
朝一で現場に着くと、早速図面を広げて職人と作業の確認をし出す。今日はミノリからの確認も入ることになっているのだが、それのせいで多少ソワソワしているのだ。来る予定だった野村から、来られなくなった、と連絡が入ったのは一時間ほど前のこと。代打で木下を向かわせたから、とさらりと言われたのである。
その時、朔太郎の中に何とも言えないふわりとした風が通った。海に会える、とほんの少し喜んでいたのだ。それに気付いてハッとした時には、気持ちの悪い違和感が渦巻いていた。
「おはようございます」
確認作業が進められる中、海が跳ねるように入って来た。ボブの髪をサラサラと揺らしている。
挨拶もそこそこに、二人で現場を回ることにした。様々な点を確認しながら海は、幾度と朔太郎に質問を投げ掛ける。マメにメモを取りながら、図面にチェックを入れれる彼女。何だか、元来の生真面目さを見た気がした。実物を確認して貰いたい箇所を説明すれば、手触りや実際の色調などを小まめに見て回る。朔太郎は、そんな彼女を不思議な感覚で見ていた。昨夜また、色々と思い出したからか。
「すみません。コンセントの位置なんですけど」
「えぇと、どのコンセントでしょうか」
図面を広げると、彼女は覗き込んで指し示した。少しだけ二人の距離が縮まる。ふわりとしたシャンプーの匂いが、朔太郎の鼻腔に広がった。彼女の疑問点に対応して誤魔化したが、実は胸がドキドキしている。コンセント、照明、壁。順を追って説明をするが、まだ心は落ち着いていない。
「壁ですね。腰壁にしたことで、汚れなどには対応が出来るようになったと思います。いかがでしょうか」
それに気付かれまいと、朔太郎は必死である。恥ずかしい、だとかそんな話ではない。これは仕事なのだ。
「そうですね。確かに汚れと言う面ではカバー出来るかな、と思います。あとはこの上の部分に埃が溜まってしまうのと、ここに指を引っかけて汚れたりすることがある、ということですかね」
彼女は、こちらの変化に気が付いた様子はない。メジャーで様々な場所を測っては、座る、立つ等の動作を繰り返した。妊婦なら、母親なら、高齢なら、とシチュエーションを想像しているようである。彼女はチラチラとこちらを見ながら、車椅子の客の動線などの意見を求めた。
「凄いなぁ。僕はつい、見栄えばかり考えてました。男目線とは違うものもありますね。なるほどなって思いました。そういった細やかさは、少し欠けていたかも知れません」
これは正直な意見だ。入店時の印象や見栄えばかり気にしていたのだ。褒められても何も出ない、と笑う彼女。礼を言わなければならないのはこちらの方である。
「じゃあコーヒー奢ってもらおうかな」
そう海は、ふざけたように舌を出して笑った。例え仕事上の関係でも、時折見せる可愛らしい無邪気な笑顔。それは、あの頃を何度も思い出させた。
「すぐ戻りますか?」
「いえ、お昼を取ってから戻ろうかと。あ、もうこんな時間なんですね」
「お昼には少し早いですけど、行きませんか?」
何でだか分からない。ただ、もう少しだけ、彼女と話がしたかった。今日は、森本や野村、畑中がいない、と言うのも背を押したと思う。彼女には、昼時だからサラッと誘いを入れたように映っただろうか。朔太郎は、青春の中にいる少年のように、大きく心臓が揺れている。
「あ、そうですね。そこで少し、家具の配置のとかもご相談していいですか」
驚いた海は、キョロキョロと見渡しそう答えた。職人の目が気になったのだろう。
「いいですよ。それならばカフェにすれば、色々参考になっていいかも知れませんね」
朔太郎は必死に大人の余裕を見せる。ただし、それは見せかけ。そんな余裕など、今の朔太郎にはない。
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