第7話 ほころぶ月
朱音と久しぶりに仲良くなった次の日の朝早く、二人はレンタカーで丹沢大山国定公園にハイキングに出かけた。堀が社内旅行に推薦した場所で、遼はその際に下調べしてからずっと歩いてみたいと思っていた。
早朝で空いた高速道路で目的地近くのインターまで行き、一般道を走った。『丹沢大山国定公園』と大きく書かれた昭和の昔からありそうなゲートをくぐり、参道近くの駐車場に車を止めた。
天気予報がばっちり的中し空は真っ青だからだろう、紅葉はまだまだなのにあと数台で満車になりそうだ。
2人は先週一緒に買ったマウンテンパーカーを着て車から降りた。社員旅行で着ていくのだからと、違うメーカーの全然違う形に遼がした。朱音は気にすることはないと言ったのだが、彼女が譲らなかった。遼は紺で朱音は
「会社では内緒にしておきたいから」と言われて朱音は寂しく感じたのを思い出した。そんな朱音の気持ちをイチミリも知らず、珍しく浮かれて楽しそうな遼は彼の手を引っ張って参道に向かう。
登山でなくハイキングだが、二人とも長袖長ズボンでしっかりした登山靴をはいてきた。靴だけは朱音の希望で同じ形の色違いだ。靴を試着する時に「秋の大山は毒蛇の山かかしやヤマヒルがいる」と朱音から脅され、彼女がビビっていたのを思い出してクスクス笑ってしまう。
以前昆虫食の番組を見ながら昆虫は美味しそうだと言っていたが、どうもぬるっとしたモノは苦手のようだった。
「どうせ昨夜を思い出して笑ってるんでしょ?もう絶対着ないから」
意地悪な顔で思い出し笑いをする朱音に宣言した。
彼女が全然的外れでますます朱音が笑うと、遼は彼の手を振り払って賑やかしい参道に向かって走り出した。彼女が子供みたいに走るとこなんて初めて見た彼はなんだか目が潤んでしまう。まるで自分の子供が初めて走ったところをみる親のような気持ちだった。
そしてあまりに彼女が走るのが遅いので腹筋が痛くなるくらい笑ってしまった。
(もしかしてオレ達はこうやって子供時代を取り戻しているのかもしれねーな)
50メートルほど先ですでに息を切らして参道の端で待っている遼にすぐに追いついた朱音は、
「遼は本当に体力がないな。毒蛇がいるんだぜ、出会ったら全力で逃げないと。大丈夫かよ?」と言って、彼女のリュックをひょいと取り上げた。
まだ参道である。山にも登っていない。
周りの人は『過保護な彼氏だな』と思いながらこっそり笑って通り過ぎて行く。
「う…ごめん。ありがと」
ちょっとしゅんとした遼の耳元で、
「いえいえ、昨夜のお礼。とっても可愛くて感動した。またオレの部屋で着て欲しい」と
「…いいよ」と遼はつぶやき、大きな彼の手をきゅっと握った。そのはずみで朱音は昨夜の恥ずかしそうな遼を思い出してしまった。下半身に異変が起こりそうなので、違うことを考えようとする。
(昨夜は破壊力があったな…。どうも遼のあのたまに出る恥じらいに弱いんだよな…いい加減に慣れてくれないとオレのがいつまでも十代みたいに反応してしまうから困るんだけど)と自分を棚上げして思った。
遼を見ると、彼女は朱音を見上げて幼女のようにニコリとした。クールな時とのギャップにやられて思わず彼女の柔らかい頬に手を当て昨夜と同じ感触を確かめながら、「ほら、行こうか。日が暮れるぞ」と
2人はこま参道を通り、大山ケーブルカーを横目にまっすぐ進んだ。分岐点に標識があり、左手方向が女坂で右手方向が男坂、とある。男坂は遼にはしんどそうなので左手の女坂に進む。
最初の階段に、『女坂に七不思議あり』の看板がある。
「七不思議だって!探しながら行こうよ」と遼が看板を熱心に読んでいるのを見ていると、なんだか心が和む。
(やっぱ遼はかわえーなー)
朱音がほわほわしながら規則正しい石の階段や木の橋、落ち葉で柔らかい道を歩いていると、七不思議その一「
弘法大師が岩に杖を突いたら、その跡から清水がこんこんと湧き出たという。夏でも枯れることがなくいつでも水の量が変わらないそうだ。
2人で看板横にある鉄製のはしごを降り、エンビ管からちょろちょろ出ている弘法の水をひしゃくで口にした。「冷たいっ」と遼が満足そうに言うと朱音はキュンとなるのだった。しかしまだ頂上までまだまだだ。
(おいおい、こんなはしゃいで大丈夫かよ…)
そこはかとない不安が心配性の朱音の頭をよぎるのだった。
さらに進むと二つ目の女坂七不思議「子育て地蔵」が2人を出迎えた。
最初は普通のお地蔵様として安置されていたが、何時の頃からか顔が
この地蔵に祈ると子供がすくすくと丈夫に育つ、と書いてあるが、朱音は大人みたいな子供の表情が怖くて遠巻きに見ている。でも遼はぺたぺたと顔を触って、全然平気のようだ。
(怖くねーんだ…確かに遼が暗闇とか怖がってるとこみたことねーな)と朱音は思いながら、そのまま進むと石階段はやや急になり、七不思議その三「爪切り地蔵」が迎える。
弘法大師が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻したと伝えられている。何事も一心に集中努力すれば実現できるとの教えだとあるが、これまた朱音にはやたら怖く、太い眉を寄せた。
(つ、爪?めくれて血が出るやつじゃん…こえーよ)
ふと遼を見ても、やっぱり怖がっておらず、玉と錫杖のようなものを持ったお地蔵様のひざをなぜかすりすり触っている。
「ねー、集中力が付くんだって!朱音も触っておきなよ」といつもと違うテンションで勧められたが、とてもそんな気にはなれない。絶対ウソだろうけど、でももしかして本当に爪で石を削ったと思うだけで恐怖だ。
「おまえはそれ以上集中力が付いたらあぶねーからやめとけ」と遠巻きにして言うのが精いっぱいだった。
さらに山道を進むと七不思議その四、「逆さ菩提樹(さかさぼだいしゅ)」がある。
幹の上が太くて下が細く、逆さまに生えたように見えることから逆さ菩提樹というそうだ。
朱音は可愛げのある七不思議にほっとしたが、遼は不満そうに「なんでこれが七不思議なの?植物に詳しくないからわかんないけど、ありえないのかな?」とずっと考えている。朱音が「まあいいじゃねーか、七に足りなかったから無理やり考えて足したのかもな」と言ったら、少し納得したようだった。
そのまま進んで、大山寺本堂に続く階段の前に立つ。けっこう急で段数が多い。
「おいおい、ケーブルカーに乗らなくても大丈夫かよ?」と朱音が聞くと、遼が少し息切れしながらも頷いた。ふうふう言いながらモミジに囲まれた階段を上り、参拝した。お互い黙って手を合わせる。
(遼が何をお願いしているかって、多分家族のことなんだろうな…)
なんとなく二人は黙って手をつないで歩き出し、また女坂ルートに合流する。「
「ヤマビル退治の塩を足にまぶしておけ、だってよ。ほら」と朱音が瓶の蓋を開けて遼に取らせた。
5月~11月の雨中雨後の蒸し暑い日にヤマビルが活発となり吸着、吸血されると書いてある。
「雨の日は樹の上からも落ちてくるってネットに書いてあった」と遼を脅すと、彼女は青くなって靴と靴下に擦り込んだ。
その無明橋は女坂の七不思議その五で、話をしながら通ると、橋から下に落ちたり、忘れ物や落し物をしたり、悪いことが起きたりすると書いてある。
(橋から落ちたり…?そんなバカな)と思いつつも、二人無言で渡る。遼はただ黙っているだけだが、朱音は呪いの橋みたいでビビっていた。そう、朱音はヒルやヘビはいいけど怖い話に弱いのだ。
無明橋を過ぎると急傾斜の石の階段だらけだ。朱音が頼りなく足を進める遼をやたら気づかうので、彼女は思わず笑ってしまうのだった。
しばらく進むと女坂七不思議その六「潮音洞(ちょうおんどう)」が現れる。
祠(ほこら)に近づいて心を鎮め耳を澄ませると遠い潮騒が聞こえるという。
真っ暗の祠の中を遼が覗き込む。神秘が隠されている、というよりは、中にナニかいそうで朱音は怖くてぞくっとした。ナニかとは寝ているお化けや幽霊、妖怪などだ。
朱音がやめとけと言うのに、遼は平気で祠に耳を近づけ「何も聞こえない」と怒ったように言っていた。
ずっと石段が続き、傾斜も相変わらず強い。朱音はスズメバチがいないか気を付けながら、息を切らせている遼を心配そうに見る。もちろん朱音は全然だ。
「ちょっと休も」と朱音がさそうと、「うん」と少し笑って答えた。
2人で石段に座り込む。
(息を切らせているのも可愛いな…)
「ほら」と言って朱音がペットボトルを空けて渡すと、嬉しそうに受け取って飲んだ。
「ありがと。リュックごめん。情けないね…」
「まあ、しゃーねーだろ。おまえ全然体力ないし。オレの部屋にきて毎日一緒にランニングと筋トレするか?」とあわよくば一緒に住みたくて誘ったが、全然彼女はわかっておらず、
「うーん、それもいいね。朱音みたく体力付けないと、いざとなった時に困りそうだ」と息を整えながら答えている。
(まあ、一緒に住もう、なんて言えるわけないけど…弟たちにどやされそうだしな)
朱音も自分のペットボトルを出し、一口飲んだ。普段走り込んでいるので、この程度では全く身体の疲労を感じない。ただ、遼が心配で気疲れするくらいだ。
休憩を終えて進むと、最後の七不思議「
人の眼の形をしたこの石に、手を触れてお祈りすれば、不思議に眼の病が治ると言い伝えがあるそうだ。岩の下にはお
「眼の形ねぇ…」
よーく眺めると眼に見えないでもない。昔の人は想像力が強いな、と朱音は思う。まあ、遼が目を細めたりしてけげんな表情で石を眺めているのが面白いのでよしとした。多分、全然見えない、と思っているのは明らかだった。
眼形石の後は手すりにするチェーンがあるような大きなふぞろいの石段と急斜面が続く。せっせと二人は太ももを上げながら山道を歩く。規則正しい足音とせせらぎの音が組み合わさって心地良かった。
(これは帰りはここからケーブルカーで一気に下までだな…)
遼を見ながら朱音は判断する。結構きつい階段が続いたし、どうも山頂あたりでヤバそうだ。レインコートは持参したが、雨が降らなさそうなだけ良かった。ここは雨が多いから「あふり山(雨降り山)」と言われているのだ。
(まあ、天気良いし最悪おぶるか…)
朱音は覚悟を決め、
2200年以上歴史のある神社、
そこからも二人はもくもくと登った。山頂に近づくにつれ風が冷たく上着を持ってきてよかったと思った。地上はまだぽかぽかだったので、上着を持っていくか迷うくらい暖かい日だったのだ。
『
杉の巨樹や、見晴らしスポット、ベンチがあるたびに、「大丈夫か?安もう」と声をかけて休みながら、山頂を目指す。遼は体力がない割には我慢強く、ゆっくりだがじわじわと進んでいるので朱音は見直した。
「おい、めっちゃ綺麗に見えるな。あれ相模湾か?」
森が開けた見晴らしのいい崖で二人は休んで水分補給をする。
「うん、綺麗。自分で歩くと余計綺麗に見えるんだね…」と息を切らせながら遼が目を輝かせて嬉しそうに笑う。それだけで来て良かったと思えてしまうのが恋なのだろう。
しんどいながらも途中で富士山の絶景も見ることができ、遼たちは着々と頂上に近づいた。
『がんばれ 頂上まであと10分』と書かれている看板に元気付けられながら、二人は鳥居をくぐった。
登頂したときは、なんとも言えない圧倒的快感が遼を襲った。大山山頂(1252m)の石碑で二人の写真を撮る。いつもなら二人でなんて遼が恥ずかしがって撮らないから、よっぽど嬉しいようだ。
大山阿夫利神社本社にお参りしたあと、大山山頂茶屋で豚汁を頂く。大きめにカットされた具たくさんの優しくおいしい豚汁は、今まで食べたどんな豚汁より美味しかった。頂上で少し冷えた体が温まる。
ついでに焼きおにぎりとおでん、山菜そばも頼んで食べた。山の上で食べるとこんなに美味しいと知ってしまい、遼はハイキングがすっかり好きになってしまった。
朱音も、以外と遼が頑張って地味に歩くので安心して、また二人で来たいなと思っていた。とにかく朱音は遼がいたらいいだけなのだが。
山頂から120分かけて阿夫利神社下社まで歩いて降り、なんとかおんぶしないでケーブルカーに乗ることができた。
「ここ大山の神さまは、富士山と親子なんだって。いつか富士山にも登りたい」
遼が懲りずにそう言ったので、朱音が笑った。しんどかったけど遼が楽しかったならそれで良かった。
なんとかヤマヒルに血を吸われることなくケガをせずに二人は下山し、近くの温泉旅館に宿泊した。遼は身体が疲れ、朱音は気疲れし過ぎていた。食事とお風呂を済ませると、2人は早々にくっついて一つの布団で寝た。
念のため紺のセクシー下着を隠し持ってはいたが、遼はもう付ける気力もなかった。
昼間と同じく晴れた夜空には、彼らを微笑ましく見守る月がくっきりはっきりと輝いていた。
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