第15話 浮月

「もうすぐクリスマスかぁ…」


 シンガポールの街はクリスマス一色だった。購買意欲を高める仕掛けがあちこちにあって活気がある。

 遼は何を見ても家族へのプレゼントを考えてしまうので、食料品だけ近所のスーパーで買って部屋に帰って来て、ソファーでジンジャーエールを飲んだ。2週間もするともう自分の家みたいだ。

 たまにシンガポール支社から連絡があってシステム上の質問に答えたり出社することはあっても、基本暇な自由民だった。


(弟たちにプレゼントもクリスマスケーキも…今年はなしか。やっぱり寂しいな…弟と朱音に会いたい)


 ソファに座るとふと携帯が振動した。なんとなく気が向いたのでメールを開けると、フィラスからだった。


『年末年始をボクの故郷のマレーシアで過ごしませんか?何もない所ですが、とても海が綺麗です。良かったら連絡下さい。フィラス』




「働き者の日本人で1か月も休みを取れる人、最上で聞いたことないよ」とフィラスが飛行機の隣の席で笑った。中国系に比べて肌が浅黒いので健康的に見える。


「ちょっと理由があって家に帰れない」と遼が答えると、彼はそれ以上突っ込まずに、マレーシアの故郷の話をした。


 彼の両親はマレーシアの東海岸にある都市、クアラトレンガヌに住んでおり、年末年始は祖父母の住むカパス島に滞在するのがフィラスの家の習慣だそうだ。

 シンガポールからクアラトレンガヌまで飛行機で5時間ほどかかるが、バスでも8時間とガイドブックにある。値段が余りに違うのでバスで帰らないのか聞くと、


「マレーシアのバスはね、8時間って書いてあったら12時間はかかると思わないとダメですよ。みんなマクラ持参で大変なんだ」と大笑いされた。


「でもなんでボクの誘いに乗ったの?たくさん電話が入ってるでしょ」


 フィラス達に何度か観光に付き合ってもらっている時、ずっと携帯が鳴っていて、とうとう電源が落ちたことを指しているのだろう。


「う…何もないって書いてあったから、ゆっくり考えるのにいいなって」


 遼が言うと、彼は優しく笑った。その表情は仏像を思わせる。


「そうだね、何もないとこでゆっくりしたらいいよ。シンガポールは賑やかで素敵だけど、ガチャガチャし過ぎ」


 そう言って、家族の写真を見せ始めた。




「まだ帰ってこないのかよ。もう年末じゃねーか」


 今日も朱音が総務課にまで来て不機嫌そうに江上に聞いた。江上は何か知っているはずなのにだんまりを決め込んでいる。

 朱音が何を言っても、遼がいないせいで元気がないので全く突っかかってこない。女性社員も遼がいなくてチャンスなのに、アイドルがしゅんとしているので声をかけづらいようだ。


「僕たちも困ってるんだよ。澤井君、仕事大変だし山田さんを早く連れ戻してきてよ。せっかくのクリスマスだから一緒にいたいだろ?ね?」


 課長は朱音に頼んだ。でも江上が思った以上に戦力になっていたので、以前ほど大変ではなかった。


(オレだって連れ戻したいっつーの…でもどこにいるのかわかんねーんだ。忠君たちもかなり心配してるから居場所は知らないようだし、一体何なんだよ…)




 クリスマスの夜、ミカにニヤニヤ笑われながら、いつものように残業を終えて会社を出た。遼のことを考えながら階段を降りきったとこで「澤井さん」と声をかけられた。


「孝君…」


 朱音を寒そうな顔で待っていたのは全身真っ黒けの服を着た孝だった。




「孝君、適当に頼んだけどいいかな?」


「はい…」


 二人は居酒屋のカウンターでビールを飲みつつ隣同士に座っていた。微妙な空気を破ったのは朱音だった。


「大丈夫だよ、オレの上司が遼の居場所を知ってる。ちょっと忠君の結婚で疲れて、ゆっくりしたいだけだ、もうすぐ帰ってくる。さ、おでん来たし食べよう、お腹すいたろ?」


「…澤井さんなら知ってると思ってました。もしかして今夜はクリスマスだし会ってるのかと…」


 元気なく俯いて孝は言った。

 朱音はちょっと傷つきながらも、


「本当に知らないんだ。知ってたらとっくに迎えに行ってる…遼はさ、自分の替わりはいくらでもいる、オレならすぐに彼女が出来るって思ってるんだ。なんでだろう、何度好きだって言っても届いてない気がする。オレは遼だけが必要なのに…」と誰にも言ったことがない愚痴を言ってしまい、しまった、という表情をした。


「ごめん、こんなこと孝君に言うなんて…忘れてくれ」


 朱音の本音を聞き、孝が泣きそうな声で告白した。


「ってことは、俺が遼を好きだって知ってますよね、散々嫌がらせしてきましたし当然か…。すいません、実は遼がいなくなったのは俺のせいなんです。俺…兄の結婚式の日に堪え切れなくなって遼に告白したんです。どうしても好きだ、澤井さんと遼がいるとこを見ると辛くて死にたくなる、って。だから遼は…」


 朱音は最初緊張して聞いていたが、だんだん表情を和らげた。


「孝くんが……そうか、やっとオレが避けられてる理由がわかったよ。なぁ、遼の一番大切なものって、何だと思う?」


「え…遼の?」と孝はびっくりしたように繰り返した。


「俺の一番大切なものは遼ですが…遼の大切なものは…澤井さん、かな…」と苦いスパイスを奥歯でり潰したような顔で答えた。嫌な事を言わせる、と思っているのは明らかだ。


「違うよ、孝君。遼の一番は家族で、オレはその下。いつも彼女の最優先は家族なんだ。だから、遼は家族を壊す原因の自分が邪魔になって姿を消したんじゃないかな…」


「邪魔?死ぬ、ってことじゃないですよね?」とびびって孝が前のめりに聞いたので朱音が安心させるように微笑んだ。本当なら頭を撫でてやりたかったが、まだ時期が早そうだからやめておいた。


「死にはしないけど、どこか遠くにいると思うよ。自分のせいで苦しんでる孝君の前で自分が幸せになるのは許せない、ってあいつならきっと思ってる」


「…だからずっと秘密にしてきたのに…俺はどうしたらいいでしょうか?忠兄ちゃんは多分遼のことだとちゃんと判断できないだろうから、澤井さんに相談に来たんです」


 朱音は以前に遼が言っていた、『襖がバリバリになるくらいの喧嘩をする』という言葉を思い出した。これは、早く遼に戻ってきてもらわないと、山田家が大変なことになりそうだと思い、焦って言った。


「わかった、死ぬ気で探すから、何かわかったらすぐに連絡するよ。でも、孝君は遼が家に戻っても…平気なのか?もし気まずいなら遼はオレの部屋に一緒に住んでも…」


「いえ、山田の家に帰ってきて欲しい。遼がいないより辛い方がずっといいってわかったんです。あの発言は撤回して許してもらいます」


 あわよくば同棲でもしようかと思ったが、そうはいかないようだった。何より忠君も黙ってはいないだろう。


「そうか…」


(遼は弟と恋愛とか絶対なさそうだもんな…孝君もそれをわかってる…。よし、絶対に何をしてでもミカさんから聞き出すしかねーな)


 クリスマスの晩、二人は悲しい気持ちに包まれながらおでんをつまみ、ビールを飲み続けた。




 クリスマスの翌朝、朱音は気合を入れて起きた。


(今日こそは、ミカさんから…。でもミカさんが言うかなぁ、手ごわそうだ…)


 電車に乗ると、クリスマスの次の日だからか空気に倦怠感が漂う。


(せっかくのクリスマスだったのに…指輪、渡せなかったな…)


 遼が帰ってきたらクリスマスに渡そうと思って作っておいたのだが、まさかこんなに長い間会えなくなるなんて思ってもみなかった。彼女に似合う華奢で繊細なプラチナの指輪。石は2月の誕生石アメシストにした。


(ワインのような紫を選んだが、遼は気に入ってくれるだろうか?『非凡な才能を目覚めさせる守護石として知られています』と説明に書いてあったっけ…でもこれ以上非凡になられると困るな。それより、ずっと帰ってこなかったりして…いや、あいつは強情だからあり得る…そんなのだよ、オレ…。遼、どこに行ったんだよ…)


 朱音が自分の想像で泣きそうになっていると、携帯が震えた。


「お、フィラスじゃねーか…ん?」


『これだーれだ?』という文字とともに、遼の可愛すぎる無防備な寝顔が写っている。


「なんじゃこりゃあ!」と思わず大声を出してから、電車の中だということを思い出した。




「ミカさん、遼がなんでシンガポールにいるんですか?」


 会社に着いてすぐに上司に聞きに行った。


「やっとわかったのか?遅かったな」と言ってニヤリと笑った。


「ウェブセキュリティ講習の名目で派遣した。一日であっちのご老人たちを震え上がらせたそうだ。ははっ、あいつらしい。この際すべての海外支店を回ってもらおうかと思ってたとこだ」


 笑うミカを尻目に、朱音は焦って頼んだ。


「オレ今から行くんで、あとすいません」


「いいよ、どうせあと会社は2日だしな。よいお年を」


「ミカさん、来年も宜しくお願いします」


「わかったから、早く行け」と苦笑いで『しっし』といったふうに手で朱音を追い払った。


「はい、ありがとうございます!」


 朱音がバタバタ机を片付けていると、


「先輩、早退ですか?」と山本と堀が心配で駆け寄ってきた。


「悪い、遼がシンガポールにいるみたいだから、連れ戻しに行ってくる」


「え゛…家出先がシンガポールっすか…。先輩たちの喧嘩は派手ですね」と堀が大げさに後ずさった。


「ちげーよ、オレらは喧嘩なんて…」


「違うんですか?社内で噂ですよ、もうビックカップルの危機だって。もう男性陣も女性陣も浮足立ってて、尾関先輩なんて手放しで喜んでましたし。先輩も昨日、女性社員に誘われてたじゃないですか?」


 そういえば、仕事が途中だから断ったが、年下の女性社員にご飯に誘われたのを思い出した。遼の上司も二人が喧嘩したと思っているからああ言ったのだ。


「気が付かなかった…」


「…本当に山田さんしか見てないんですね。ほら、あとは任せて行ってやってください」と山本が出来の悪い生徒を優しく追い立てるように言った。


「おう、サンキュ。じゃあよいお年を」


 そう言ってさっさと朱音は会社を出た。

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