第14話 月とマーライオン

「なんでシンガポール…」


 遼はシンガポールのチャンギ空港にいて、ぐるぐるまわるレーンに乗った自分のスーツケースが出てくるのを手持無沙汰で待っていた。周りは馴染みのあるアジア系の顔が多い。でも空気が全然違う。

 さっきまで冬服だったのに夏の黒いワンピースなど着てここにいる自分が不思議だ。



 ミカからの命令でシンガポール支社に初めて海外出張している。最上家の所有するマンションに2週間滞在する予定だ。


「最近サイバー攻撃が激しくなっている。丁度いい機会だから海外出張しろ。もう年末だし、あっちで年を越してきてもいい。どうせ日本にいても朱音が近くにいたら気が散るんだろ?今年はいろいろあって山田も大変だったし、海外支社の視察も兼ねてゆっくりしてこい」と彼女は言った。


 という訳で、最近のサイバー攻撃の手口について上層部に講習をする予定だ。実際、システムセキュリティー課から何度もメールで指示が入っているのだが、メール経由のウイルスやマルウエア侵入が防げていない状態が続いている。これはセキュリティ意識が低い海外からが多い。セキュリティは上層部の危機管理意識がキモなのだ。


(まさか、海外支社すべてに行かされるんじゃないだろうな…いや、あのミカさんならあり得る話だ…確か海外支社は10はあったはず…)


 遼はやっと出てきた荷物を受け取り、入国ゲートをくぐると『山田様』というプラカードを持った女性がいる。遼と同い年くらいの中華系の若い女性だ。白いくるぶしまでのパンツにヒールパンプス、ピンクの半袖シャツで可愛らしい。


「こんにちは、山田です」と拙い英語で話しかけると、


「日本語で大丈夫。雨桐ユー・トンと言います、ヨロシク」と言ってニカッと笑い、ジャラジャラと大量の手首のシルバーの輪っかを鳴らしながら手を差し出した。ただでも他人が怖いのに、彼女の爪は真っ黒で遼はビビっていた。まずは軽いカルチャーショックを受けながら握手した。




 遼はアメリカで毎年行われるハッキング大会の映像をスクリーンに映し出した。あっという間にウェブ防壁を突破する10代前半のを見、シンガポール支社のふんぞり返った上層部からどよめきが起こる。まずはリアルを知ってもらいたかった。


「インターネット上のウェブサイトが脆弱であるせいで、このような技術に明るい子どもたちがゲームのように簡単にハッキングできるのは驚くべきことではありません。私たちは、自分たちが作るシステムが脆弱であることをまずは知るべきです。例えば」


 遼は拙い英語で説明しながら、スクリーンを自分のPCに切り替え、コマンドを打ち込みwindowsの画面をGUIからCUIに切り替えた。実際に目の前で簡単にハッキングが行われることろを見せたかった。大勢の前で話すのが苦手と言うのもある。


「これは練習用ハッキングサイトですが」


 遼が高速でコンピューター言語のコマンドを打つと、ものの3分でハッキングが完了した。

 

「熟練していなくても、このように知識と技術があれば出来るので、防ぐのはとても難しいです。しかしリスクを減らすことは出来ます」


 遼は昨年サイバー攻撃を受けて情報が流出したとされる日本企業の一覧をスクリーンに映し出した。


「例えばですが、昨年はレンズ製造で有名なH社がメールに含まれたマルウエアを使ってサイバー攻撃を受けました。最初に狙われたのは日本国内ではなく、タイ工場です。セキュリティ意識の低い海外の支店や関連会社を足掛かりにすれば、するりとセキュリティを突破することができます。サプライチェーン出入りの企業や取引先をターゲットにした、サイバー攻撃も増えています。

 もっとシンプルな方法ですと、宅配業者や掃除業者になりすまし、もしくは、現場で権限の高い人物のパスワードをする、という被害も増えつつあります。お判りでしょうが、パスワードを書いてPCの近くに貼っておくなど言語道断です。

 このようにクラッカーは日々新たな策を講じています。が、最上も黙ってやられてはいられません。こちら」


 今年に最上化成がサイバー攻撃を受けたマルウエアの侵入経路一覧表だった。シンガポール支社は真ん中くらいにランクインしており、またどよめきが上がる。


「最上社長は来年度からこういった侵入に一役買ってしまった支社のペナルティを考えています。損害に応じてトップである減給等もありえるとお考え下さい。そうならないよう各自がセキュリティ意識を高め、下に徹底して頂きたい。以上です。質問がありましたら」


 静まり返った会議室からは物音一つしなかった。PCもすでにこと切れていた。

 時間にしたら15分。あっという間に遼の講習は終わり、彼女は深く頭を下げて部屋を出た。


 会議室に残され呆然とした上層部のPCには『してはいけないこと・しなければいけないこと』の一覧が簡潔に記載されている資料がPDFで配布されており、わからない時はシステムか遼に直接聞くように、と問い合わせ先とメルアドまである。

 つまりはどうしたらいいかわからない時は必ず聞く、聞かずに何かあったら自分たちに金銭的なペナルティという災厄が降りかかる、という雰囲気を作るのが遼の目論見だった。



「お疲れ様でした」


 雨桐ユートンは尊敬のまなざしで麻のグレーのパンツスーツをぴしりと着こなした遼を見ていた。今日の午前で資料を作り、短時間で効果的に古い頭の掃除をしたのだ。それも自分と同じ女性が。


「仕事が終わったので帰ります。ユートンのおかげでスムーズに仕事ができました。ありがとう、とても助かった」


「いえ…とんでもないです。あの、山田さんは今夜空いてませんか?良かったら一緒に上海ガニを食べに行きませんか?美味しいお店があるんです」


「え…上海ガニ?」


 朱音が好きなくるりの音楽でしか『上海ガニ』という名前を聞いたことがなかったし、もちろん食べたこともなかった。


「ええ、日本人の駐在員にとても評判なんです。上海ガニの一番美味しくて上物といわれるものは、まず香港とシンガポールに入るんですよ」


「嬉しいな、実は事情があってまるっと年明けまで休みなの。じゃあ、ユートンが仕事終わるころに連絡頂戴。前のカフェで待ってる」


 遼は彼女に連絡先を教えた。




「お待たせしました」とニコニコした雨桐ユートンの後ろには、2人の男女がいた。興味深そうに遼を見ている。


「お疲れ様…ユートンの同僚?」


「ハイ、ご一緒したいそうです」


 人懐っこく笑う彼女は、万が一にも遼が多人数が苦手だなんて思いつきもしないようなので、思わず笑ってしまった。遼は、


「多いほうが楽しいものね」と今まで言った事のないセリフを口にしていた。

 



 19世紀以降、倉庫街としてシンガポールの貿易を支えたクラーク・キー。その倉庫であった建物は現在、その雰囲気を残しつつ数多くの飲食店が入る人気観光スポットとなっている。シンガポール川沿いに広がり、昼間はパステルカラーの壁が印象的なショップが目を引き、かわいらしい印象だ。夜はライトアップがロマンチックで美しい。


 連れて行ってもらったのは、そのクラーク・キーにある『ジャンボシーフード』という夜景とチリクラブが有名な店だった。人がたくさんいて混み合っている。予約してあったのですぐに入れたが、かなりの人が順番待ちをしている。


 4人でチリクラブやペッパークラブ、カニチャーハン、蒸しエビ、エビの天ぷらなどを注文した。もちろんビールも。


「美味しい…」


 初めての上海ガニは文句なく美味しく、甘辛のチリソースにも感動した。朱音や家族に食べさせたくなってくる。美味しそうに頬張る遼に安心したのか、和気あいあいと話していると、シンガポール支社に2月末までいた朱音の話になった。


「澤井と同期なんですか?僕、今でも仲良くしてもらってます」と営業のフィラスという男性が言った。


 名前と見た目ではマレー系のようで、雨桐ユートンと同じく20代後半くらいだ。落ち着いた眼差しといい、優しい話し方といい、育ちの良さを感じる。朱音と年齢も近くいので仲良くしていたのだろう。

 彼がここで頑張っていたんだなと実感してると、


「もしかして『リョウ』さん?」と彼が遼をじっと見て聞いたのでドキッとした。


「…そうですが」


「そっかあ、お会いできて嬉しいな。リョウさんは想像通りの人です。彼はいつも酔うと同期のリョウさんの話をしてましたので、会ってみたいとずっと思ってました」


(ひゃあ、な、なんて恥ずかしい…)


「澤井さんは私の話をフィラスさんにしてたんですか?」


「彼女を作らないのでボクが誰かを勧めると断るんです。酔うと必ず、リョウさんがいい、って。3年間、ずっと言ってましたよ」と言って仏像のような微笑を浮かべた。


(そんなに私を想ってくれてたなんて意外だな…。忠の言う通り本当に好きでいてくれてるのかもしれない。でも…家族である孝よりも大事にするのはどうなのだろうか?わからない…)


「どうしました?澤井のこと考えてくれる?とてもいい人だから、リョウさんとうまくいって欲しいです。彼は仕事も出来るし何より信頼できる」


「ありがとう。考えてみます」


 朱音はこんな風に他人が熱心に勧めてくれるほどの価値のある人間なのだ。それがとても嬉しかった。


 騒がしく上海ガニを食べながら、シンガポールのおすすめの観光スポットを聞いた。雨桐ユートンやフィラスたちも付き合ってくれると聞いて心強い。

 いつのまにか遼は、大らかな彼らに心開いていた。



 ミカさんのシンガポールのマンションは商業地帯にある40階建ての目の覚めるような高層ビルだった。

 借りた部屋は5階だったが、20階がプールになっていて最上階はレストラン、という日本ではお見かけしないような建物だった。形も面白く、よく見ると周りにはそういった高層ビルがタケノコのように建っている。これがここの普通の住宅事情なのだろう。しかし5階で良かった、と遼はほっとした。一軒家に慣れているので、高いと全く落ち着かない。


 部屋のリビング中央にある大きなソファに座る。

 5階だと虫もおらず静かで快適だ。日本ではいつも何かしていたが、こうやって何もせずにぼんやりしていると、自分が何者なのかわからなくて空気に溶けてしまいそうだった。


(このままいなくなってしまったら悩まなくて済む…ずいぶんと楽なのかもしれない)


 遼はお腹がいっぱいな上に思ったより疲れていたようで、ソファですぐに寝入ってしまった。携帯の着信もメールも面倒なので見るのを止めた。仕事以外でどんどん増える履歴を見るだけでどっと疲れてしまう。

 家族と朱音には居場所を教えてない。ミカにも口止めしてある。江上は理由も居場所も知っているが言わないだろう。そんな気がした。

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