第8話 気月
「毎日200…何の冗談だ?月曜日は400件もあるじゃあないか…山田君が総務課に戻るのを毎日毎時間待ってるから、早く帰ってきてくれよ。出来たら僕らが過労で死ぬ前に…」
大げさに落胆した課長と同僚にひとまずの引き継ぎと別れを済まし、遼は秘書課の門を叩いた。
「こ、こんにちは、あの…山田…で…す…」
秘書課は総務課と違って明るくて華やかだ。要するに、とても遼のような地味な者は死ぬほど入り辛い。昨日購入した紺のパンツスーツと白いシャツ、といういで立ちで、おずおずと声をかけた。
「あら、噂の山田さん!いらっしゃい、もうすぐ華ちゃん帰るから、そこで座って待ってて」
二週間足らずでなんとかものにしてもらわないといけないとは…遼には荷が重い。
言われたままに座ると、ベージュの柔らかいふわっとしたスーツを着た可愛い女性がお茶を出してくれた。ちょうど緊張で喉が渇いたところだった。
「あ、ありがとうございまするっ…」
「まする…って!やだぁ、山田さん面白い人なんですね…意外です。私
「あ、あの、こちらこそ宜しくお願い致します…」と遼は深々頭を下げた。
(うぅっ、緊張する…)
「山田さんって不思議ですよね、今注目の人なんですよぅ」と彼女はお盆を胸に抱きながら隣に座って話しかけてくれた。
「注目の…?」
どういう意味だろう、暗いとかキモイとか言われてるのだろうとかと遼がいぶかしむように聞くと、
「だって、今までずっとすんごい地味だったのに、いきなりそのゴージャスなネックレスしてきて!最近はお洒落にもなったし。で、シンガポールから帰ってきたばかりの営業一課の澤井さんと仲良いし、最近は山本さんや堀さんともランチしてるじゃないですか?」とたまっていた疑問をぶつけるように一気に言った。
(よく見てる…すごいな)
遼が驚いていると、
「ほーら、菅田、そんなバカみたいな話してたら嫌われるよ!席戻りな」と言いながら女性が入ってきた。40代前半くらいだろうか、とにかくパワフルな印象だ。誰かに似てる…と遼が考えていると、
「よろしく、私は
「二週間でねぇ…」
華さんは遼をじろじろ見て、
「見た目はまあオッケーだね、ちゃんとしようとしてる。後は…あ、誰か来たから見てな」と小声で遼に告げた。
入ってきたのは最近少し太り気味の営業二課の課長だった。
「お疲れ様です」と先ほどの菅田という女性はうってかわっててきぱきと控えめな笑顔で要件を聞いている。
(なるほど…先ほどタイミングよく私に
「相手の求めるところを表情や口調で正しく汲み取ること。あなたが今してる総務のメールでのやり取りとは少し違うわね。では、今日はこれ読みながら、皆がどうしてるか観察してな」といって、最上の秘書課における接客ハウツーの冊子を机に置いた。
まず最初に出てきた文字がいきなり彼女を打ちのめす。
(笑顔)
遼の最も苦手なものだった。
「大丈夫か?」
昼休み、食欲がないせいですうどんを食べる遼に、向かいに座る朱音が心配そうに声をかけた。
「うん…ありがとう、大丈夫」
全然大丈夫じゃなさそうで朱音は思わず「もう止めとけよ、な?」と聞きそうになる。でもそんなこと彼女がうんと言うわけがないのはわかっていた。
昨日一緒に買った服、遼にとても良く似合ってる、と言いたかったがそんな状態でもなさそうだ。
「笑顔って…難しい。ひきつっちゃって…」
遼が無理に笑顔を作る練習をしてるのを想像するだけで朱音の胸が詰まる。
(でも、そう言えば…)
「なあ、おまえ忠君にはとてもいい笑顔してるの気が付いてる?」
(オレが悔しくなるくらいにな。彼氏にもあんな笑顔を見せてた…)
「してた?…気が付かなかった」
「相手を弟や、彼氏だと思って
(ばっか、これって遼への愛の告白みたいじゃん…)
朱音が焦って言葉を飲み込んだのも知らず、
「なるほど…さすが営業一課の次期エース。これから参考にさせてもらう…」と元気なく言い、うどんは半分も残したまま、机に突っ伏した。
「り、遼…」と言いながら思わず頭を撫でようとしてしまって、自分で驚いて手を引っ込めて握りしめた。
(何やってんだ、オレってば嫌われてるのに)
「ここいいですか?」と山本が聞いて遼が力なく頷いたので、遼の隣にさっと座った。
「遼さん、大丈夫ですか?何か冷たいものでも持ってきましょうか…」と背中をさするのを見て、朱音の胸が悔しさでずしんと重くなる。
彼が心配して午前中に秘書課に顔を出して、遼の服が似合っていると本気で誉めていたのも知ってた。遼の反応がイマイチだったのが朱音の救いだった。
(やっぱ狙ってるんだろうな…)
山本が真っ直ぐでいい奴なのを朱音は知ってる。遼に彼氏がいても奴なら精一杯頑張りそうだ。
二人が万が一付き合ったりなどしたら、と想像してぞっとした。
定時なのに帰宅する時はへとへとになっていた。総務で今まで働いてこんな風になったことがない。
遼が「総務に帰りたい…」と思わず小さくつぶやくと、
「残念!今から歓迎会だ、さ、行くよっ」と華が高らかに宣言した。盛り上がる秘書課全員で遼の歓迎会となった。
(き、緊張する…)
大勢が苦手な遼が固まっていると、華がなるべく話さなくて済むように会話を回してくれた。そこで、ふいに遼は気がついた。
(秘書課の方たちは対面している人を気遣って行動している。私は今まで家族以外でそんな風に振る舞ったことがなかったんじゃないだろうか…。付き合っていた時の朱音に対しても、友達に対しても…)
遼は穴があったら入りたいとはこの事だと心底自分を恥じた。コミュ障だというのを言い訳にして相手や周りを見ることさえ拒否していたのに気が付いてしまった。朱音達にもトン子達にも、愛想なしの遼に付き合ってくれているのに感謝もしていない。
そして、秘書課の皆がどんな風にしているのか、どんな言い回しをするのか、明日からはしっかり見て身に着けるべく覚悟をした。
「遼、お待たせ。お疲れ様だったね、歓迎会はどうだった?」
迎えに来た孝は、遼が部署が変わって歓迎会を開いてもらえたことを自分のことのようにとても喜んでいた。
「疲れたけど楽しかった。さっき終わったとこ、ちょうど良かったよ。孝もお疲れ様。お腹空いたでしょ、何か食べる?」
歓迎会で飲み食いしていると、タイミングよく弟からメールが来た。初日で緊張したであろう遼を気遣ってくれたのだ。大体の終わる時間を見計らって店の前で待ち合わせした。
「遼は食べたんでしょ?疲れたなら帰ろう」とお腹が空いているくせに孝は気を遣った。
「今日は少し飲みたい気分なんだ」
「…本当に珍しいなぁ、いい職場だったんだね。じゃあ、俺がお祝いで奢るよ」
二人はまたイタリアンに入っていった。
遼は弟たちに九州へ転勤することをまだ告げていない。一番言いやすい孝にまずは報告して反応を見たかった。
「え…九州に行くの?なんで遼が?人付き合い苦手だろ、無理すんなよ」と案の定ふわりと反対した。この分では4人とも心配して反対するかもしれない。特に、忠が。
「うん…でも私も成長しないとね。会社の皆にいろいろ教えてもらったら思うところがあって、頑張ってみようと思うんだ。孝たちには迷惑をかけるけど…無理だったらすぐに帰ってくるから」
孝は遼の急激な成長を前に涙ぐんでいた。
右手で遼の肩をぎゅっと抱き、
「遼、偉い!偉いよ…俺感動した」と左手で何度も頭を撫でた。嬉しいような、寂しいような気持ちで。そして、姉の陰にいるあの男が羨ましくて、少しだけ憎んだ。
『なあ、昨日一緒にイタリアンにいた男、彼氏かよ』と何度も頭で同じセリフが
彼は秘書課に用事で向かっているが、こんなセリフをいきなり遼に言ったら間違いなく何なんだと思われてしまう。それに、『そうだよ』と言われて呆然とするのがオチだ。全く何も生み出さない会話が頭に浮かぶ。
昨夜は歓迎会だと聞いたので、落ち込んでいた遼にちょっとした甘いもののプレゼントを持ち、会が終わる頃を見計らってイタリアンに行った。彼女が少しでも元気になれば、そう思っていた。
でも、着いたら丁度解散したところで、店の前で残って姿勢よく誰かを待つ彼女を見て嫌な予感がした。
案の定、あの若い男が来て、ちらりとこちらを見てから(オレの存在に気が付いてる?!)仲が良さそうに店に入っていった。
二人はカウンターで並んで飲んでいた。彼は彼女の肩を抱き寄せ、頭を撫でた。
それ以上見ていたら眼圧で眼から血が出そうだったので、そこをふらふらと離れた。もちろんプレゼントなんて忘れていた。
「おはようございます」
「わー、澤井さん!おはようございます、どうしたんですか?」と菅田が秘書課の受付で聞いた。
朱音は秘書課でも人気が高い。若いのに落ち着いていて信頼できる人柄に加え、仕事ができるとなれば女性の目は自然そちらに引き寄せられるものだった。いい男のくせに浮いた噂が全くないのも人気を煽っていた。
「ああ、ちょっとミカさんの用事で、りょ…山田さん、いる?」
「ああ山田さんね、ちょっと…」と菅田は困った顔をして華のほうを振り向いた。
「こちらに来なさい」と奥で仕事をしていた華が立ち上がって言い、隣の個室に朱音を誘った。
「失礼しま…何やってんスか?」と朱音は呆れて聞いた。ソファーで青い顔をした遼が寝ていて、華が至近距離で胸元や手を観察している。パッと見、変態にしか見えない。
「これ…見てみ?」
はあ、と言って、恐る恐る近づくと、遼の左手の中指にダイヤの指輪がはまっていた。ネックレスとよく似たデザインだから、同じシリーズの商品だろう。
(まさか、あいつに昨日もらったのか?)
「ね、これ昨日はなかったのに、どう思う?」とニヤニヤしながら華が朱音に聞いた。
(どうって…もう答えは決まっているじゃないか…)
「このサイズのダイヤの指輪は、きっと婚約じゃないスかね?おめでたいじゃないですか」
朱音は遼に渡そうと思っていたポケットのお菓子を思わずぐしゃぐしゃに握りつぶしながら、棒読みで言った。
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