第9話 触月

 婚約…彼女も26歳だ、おかしくはない。でもなぜだろうか、遼と結婚が結びつかなかった。


「今朝からずっと彼女笑顔で頑張っていたの。そしたら少し前にバタリと倒れちゃって。可哀想なことしちゃったわ…」とはなは彼女の顔を舐めるように撫でた。


「やめて下さいよ、遼を性的な目で見たり触らないで下さい!」と朱音は華の手を払った。華はミカと同族、つまりはレズビアンだ。


「なによ、朱音だって彼女をそんな風に見てるじゃない。知ってるのよ」


 得意げに華が言うので、朱音はため息をついて釘を刺した。


「ミカさんに言いつけますから」


「うわっ、最終兵器を序盤で出すね?あんたゲームで格下の相手にも容赦しないタイプでしょ、だから彼女に嫌われるんだって」


 痛いところを突かれて朱音は一瞬ひるんだがすぐに言い返す。もう上司とその困った恋人の扱いにも慣れていた。


「オレには恋人がいないからいいじゃないですか。それよりミカさんに遼を連れてくるよう言われて来たんですが…無理そうですね、戻ってそう報告します」


「ああ、私が行く。倒れたのはついさっきだから、もう少しだけ寝かせてあげたいし。じゃ、君、見ててね。あと、今ならチューしても絶対に気付かれないから」


「まさか、華さん…」と疑いの眼差しを向けた。


(遼にキスしたのか?)


 朱音は二人のキスシーンを思い浮かべてみるが、全くうまくいかなかった。遼が例の若い恋人としてる光景なら嫌でも勝手に浮かぶのだが。


「さあねっ。よろしくぅ」


 華はいそいそと営業一課に向かった。恋人のミカに会う口実ができたから、交換、というわけだろう。


(しかし)


「キス、ねぇ…」


(若い彼氏、それもこんな大きなダイヤのネックレスと指輪をプレゼントできる男に勝てねーだろ。背の高さもルックスだって負けている。それに彼女の家、東京都であれだけの広さだ、福井のそのまた地方都市である大野の普通のサラリーマン家庭の次男坊のオレとはとても釣り合わんのぅ)


 仕方なく遼が寝るソファーの端にちょいっと腰掛けて華を待つことにした。しかし…


 暇だ。


 朱音は貧乏性だ。なにかしていないと落ち着かない性分である。

 遼を見ると何をしでかすか自分でもわからないのでドアの木目をじっと見て何かの柄がないか探していたが、それもやがて限界がきた。

 午後から長期の海外出張が入っている。当分会えなくなると思うとやはり遼を少しだけ見ておきたくてちらりと彼女を見た。


(顔色が悪い…。やっぱりこの計画は無理があるんじゃないか?遼がここまでする理由もわからない。こんな指輪をくれる彼氏がいるなら無理して仕事なんてしなくてもいいんじゃないのか…)


「遼…指輪、触るぞ」


 大粒のダイヤの指輪は彼女の指にキッチリはまって抜けなかった。やはり婚約指輪だろう。

 結婚するならキッパリ諦めないとな、と彼女の左手を両手で包んだ。

 ほっそりした綺麗な手。上品なベージュ色のマニキュアを控え目にしている。彼氏からもらった指輪を綺麗に見せるためだろうか。朱音は胸がなにか重い板のようなもので前と後ろから圧迫されるような恐怖を感じた。


「あーもうっ、ダメだっ」


 立ち上がろうとした、その時、「あ…かね…?」と彼女から聞こえた。

 彼の頭の中が一瞬で真っ白になる。吸い寄せられるように近寄り「遼、ここにいる」と朱音が彼女の耳元で囁くと、


「んっ…」と鼻から吐息がこぼれ、至近距離で魅力的な切れ長の目がうっすら開いた。


 朱音の胸がドクンと大きく波打った。


「り、りょ…う、大丈夫か?」


 彼女は目の前の朱音の顔を見て、熱帯雨林のでかい樹木に寄生した小さな蘭の花のように控えめに微笑み、彼の首にほっそりとした腕を巻き付けた。

 朱音が固まってしまい驚いている間に、彼女は迷いなく唇を重ねた。それも長く、他の誰かと比べるべくもなく甘く深く。




(あ、あれは一体なんだったんだ?夢…じゃねーな)


 彼女の唇と舌の感触がありありと残っている。朱音は全く理解出来なくて混乱した。


(彼氏の名前が『あかね』という偶然があるとしたら、彼氏に悪い事をしてしまったのだろう。でもその可能性はかなり低い。

 とすると、オレ…?なわけがない。彼女はオレを嫌っている。捨てて酷く傷つけたことになっているんだから…)


 午後からシンガポールの長期出張が入っていたのでそんなことを考えている暇はない。しかし忘れかけていた彼女の感触と鼻から抜ける吐息が何度も脳内でリアルに再現される。

 彼が頭をふわふわさせながら歩くので、至るところで机や椅子やゴミ箱にぶつかり、行く先々でうるさい音を立てた。そんないつもと別人のような彼に、皆が心配そうな視線を浴びせた。




 遼が昨夜の教訓で朝から頑張って笑顔を作ってたら、急に目の前が真っ暗になって倒れてしまい、皆に迷惑をかけていた。


「すいません…」と謝ると、華は、


「いやいや、山田さんが限界以上になりすぎたのは私の理解不足のせいよ。でも少し寝たらスッキリした?」と優しく聞いた。


「はぁ…」と答えて遼は頬を染めた。


「なあに、どうしたの?」


「あ、あの、華さんにこんなこと言っていいのかわかりませんが、昔の彼氏が夢に出てきて…」


「そうなんだ」と華はニヤニヤする。


「内容はあまり覚えてないのですが、未練です」



 遼は、なぜかニヤニヤする同僚たちからサポートを受けつつ、徐々に秘書課の仕事を覚えていった。

 最後には、笑顔以外はだいたいの及第点を華からもらえた。


「まあいいだろう。63点、といったとこだがな、山田にしては頑張ったと思う」


 こんなに嬉しいのは、朱音から付き合って欲しいと言われて以来だった。




「遼、毎日連絡するんだぞ」


 空港で忠が何度目かの確認をする。心配性なのだ。出来るなら九州なんぞ行って欲しくない、という態度がありありだった。でも海外でもない、日本なのに、少し大げさで遼は思わず笑った。


「わかった、毎日夜にその日の出来事をメールする。だから安心して」


「ねえちゃーん」と情けなく言いながら信と誠は涙ぐんで遼にびったりとくっついている。


(もう私より大きいくせに…)


 遼は大事な双子ちゃんの頭を何度も両手で撫でた。


「お願いだからネックレスと指輪はずっと身に付けてて。遼が九州の人と恋愛して結婚したら絶対に嫌だから」と孝は少し赤くなってお願いした。


「わかった。この前約束してからずっと指に嵌めてるよ」


 心配しなくても私には誰も声なんてかけてこないんだけど、と思いつつ、遼は安心させるように言った。


 遼は弟4人をなんとかなだめ、山本と二人で九州に飛行機で向かった。




「仲良し姉弟なんですね、意外でした。しかも家族にはあんな顔をするなんて」


 山本は大きな身体を狭い座席に押し込みながら言った。

 彼は営業の用事をミカに作ってもらって九州支社に同伴してくれた。忙しいのに申し訳ない、と遼は恐縮したが、彼は全く嫌な顔一つ見せない。


「家族は私のたったひとつの宝物ですから。山本さんは、ご兄弟いらっしゃるんですか?」と、遼は華の訓練で習得した(40点の)笑みを浮かべながら質問した。すると山本は少し泣きそうになりながら、


「山田さん、俺にはそんな無理して笑わなくて大丈夫ですよ。反対に普通にしててもらっていいですか?なんだか悲しくなります…」と遼に頼んだので彼女は驚いた。


(ばれてる…)


「ご、ごめんなさい…つい」


「でも、頑張ったんですね、感心しました。前はニコリともしなかったのに。山田さんが会社の為にそこまでするなんて意外です」


「そうね、生活と会社の為かな…でも山本さんも同じような理由で仕事頑張ってるんですか?それとも誰かの為?」


「…今回は山田さんの役に少しでも立ちたいから」と山本が言ったので遼はまた驚いた。


「どうして?」


「山田さんは知らないでしょうが、俺と電車が一緒なんですよ。朝の時間が大体同じだから、よく山田さんが駅で困ってる人をサポートしてるのを見かけてました。だからずっとすごい人だなって思ってたんです。ためらいなく当たり前のようにすっと動くでしょ?俺みたいな凡人は色々考えちゃうわけですよ、迷惑かなとかいらないお世話かなとか断られたら恥ずかしいとか。でも山田さんは違う。ずっと憧れてました。

 でもあの日、澤井先輩が勇気を出して山田さんに話しかけてるのを見て、はっとしたんです。あの先輩でさえ手を震わせながらアプローチしてるのに、自分は何やってるんだ、ってね。だから俺も話しかけたんです」


「朱音は普通に誰にでも話しかけてる。震えるなんて大げさな…」


 あまりの言い草に遼は少し笑った。


「そうですね、山田さん以外にはそうです。山田さんは先輩の特別なんですよ。先日酔っ払った先輩から聞きました、入社当時に二人は付き合ってたって。先輩はまだ山田さんのこと忘れてないように見えます」


 山本の真剣な様子に遼は目を見開いた。


「いや、それは違う。彼は、彼女ができたから別れて欲しいって…」


「先輩は俺が知ってる限りずっと彼女いません。モテるのになびかないのでゲイじゃないかって噂もあるくらいですから。山田さんは何か誤解してませんか?」


(誤解…?そんなこと思ってもみなかった…。

 そういえば、別れのメールに返信したが返ってこなかった。私のどこが悪かったのか聞きたかったのだが、よく考えればおかしい。

 結局はセックス目的だったのだと自分の気持ちを無理やり納得させて終わらせていた。別れの理由を聞いてあれ以上傷つきたくなかった。

 でも確かに彼らしくない。自分の事で精一杯で、今まで気が付かなかった…)


 遼が隣で深く考えに沈むのを、山本は複雑な気持ちで見守っていた。

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