第16話 限り月
「フィラスの野郎…シンガポールよりめっちゃくちゃ遠いじゃねーか!!友達だと思ってたのに、嫌がらせかよ?」
朱音は飛行機で東京を出て、マレーシアのクアラルンプールに着き、そこからまた国内線の飛行機でクアラトレンガヌに着いた。そして今、寂し気な空港で呆然としている。ここからタクシーと船で目的の島に向かうのだ。
「くっそー、夜になっちまう」
遼が万が一逃げるといけないので彼女には向かっていることを告げていない。フィラスにだけは今日の夕方に着くことをメールした。ちょいちょい遼の写真を送ってくるのが余計むかつく。
「あいつはまるごと善意の塊のような人間だけど、いつも変な方に事態が転がるんだよな…」
マレー系シンガポール人のフィラスと朱音はシンガポールに赴任中から仲良くしていた。円満で愛に満ちた家庭で育った人間だけが持つ人生への感謝や優しさ、他人への気遣い・思いやりを朱音はフィラスから学んだ。でも親切が高じて、やたら朱音に女性を紹介してくるので断るのが大変だったのだ。
(天使のような彼のことだ、遼がシンガポールで
「まさかあいつ遼に手ぇ出してねーだろうな…」
見当違いの心配をしつつ、タクシーで海岸の船着き場につき、今にも出そうな船を呼び止めて乗り込んだ。まだ明るい空に月が白く浮かんでいて、朱音を追い立てるような表情を浮かべていた。
「さ、もうすぐごはんだよー!」
フィラスの祖母と母が作ってくれる心のこもったマレー料理と美しい海のおかげで、遼の毎日は思った以上に幸福に過ぎていた。
(お母さんの料理って…なぜだろう、すごく温かいんだな)
遼は混乱していた自分の思考回路が正常に回復してきていることを実感している。
(もう少ししたら帰って、ちゃんと孝と話をしよう。孝には幸せになってもらわないと…。まずはそこからだ)
「リョウ、フィラスたちが海にいるから呼んできてくれる?」
「
遼はカパス島というローカルリゾートで、フィラスの祖父母が乾季のみ経営しているコテージにお世話になっている。なんせ広い本宅はフィラスの家族と従妹や子供でいっぱいだった。
島はとてものんびりしていて、彼のおおらかな雰囲気の理由がわかる気がした。ゆったり時間が流れていて、島人はいつもたばこを吸って、おしゃべりをして、昼寝して、たまに働いている。
「いいな、こういうの…」
いつも家事や本を読んだりして何かしら忙しくしていた遼には目から鱗の生活だった。シンガポールでは手持無沙汰だったが、ここにはいつも目の前に海がある。毎日何をするでもなく(泳げないが)海に入ったり寝転んだり子供たちと遊んだりして過ごしている。
海でぼんやりとしてると、朱音と以前付き合っていた頃を思い出す。捨てられたと思っていたので、蓋をしていた記憶がここにきてボロボロと
「山田さんさ、オレと付き合わない?」
入社してからというもの朱音は、あまり人と話せずに疎外されがちな遼に何かと気を使って話しかけてくれていた。朱音は新入社員のリーダー的な存在だったから、群れから外れがちな自分に立場上目をかけてくれているだけだと思っていた。
もちろん遼はそんな朱音に期待してはいけないと思いつつも、自分にないものを持つ彼に強く惹かれていた。
よく仕事の後にご飯に連れ出してくれていた朱音が、レノンという会社から少し離れたところにあるイタリアンで遼に告白したのは風が冷たくなってきた季節だった。
「…私(なんか)と?」
なんで?としか遼は思えなかった。同期で彼を狙っている綺麗でまともな女性がたくさんいることも知っていたし、実際告白もされているようだった。
「うん、オレ山田さんが好きだから」
遼は
「さ、澤井さん…あのっ…」
付き合って何か月かしてからの真冬のデートの別れ際だった。初めてのキス。赤くなって硬直する遼の頬をこれまた赤くなった朱音が優しく撫でた。
「ごめん、嫌だった?我慢できなくて…」
「ち、違いますっ…嬉しかった。ただ、ここは…」
遼は会社に近い場所でするのは困るが、もう一度朱音にキスして欲しかった。とても気持ち良かったのだ。
「ああ、そっか…気になるよね………じゃあ、今からうちに来る?」
朱音が喉の奥から言葉を絞り出すように誘った。
遼は先ほどのキスの誘惑に勝てず、ぼんやり頷いた。
「入って。掃除してないからちょっと待って…」と言いながら、彼は少しだけ散らかった部屋を手早く片付けた。大学時代も独り暮らしだったと言っていたし、慣れているようだ。
「お邪魔します…」
彼女がおずおずと靴を脱ぐと、テレビの前の低いテーブルに彼は座布団を敷いてそこに座るように言い、コーヒーを淹れてくれた。
「どうぞ」
「ありが…とう、澤井さん」
朱音はコーヒーを一口飲んでから、思い切ったように、
「遼さ、もうそろそろオレのこと名前で呼んでくれないかな?」とお願いした。
朱音はすでに遼のことを名前で呼んでいた。
「ご、ごめんなさいっ、気が付かなくて。えっと、あ…」
「あ…?」
「あか…ね…さん」
「さんはいらない」
朱音は遼の柔らかい身体を抱き寄せ長いキスをした。二人の体温が一気に上がっていった。
昔のことを思い出しながら、ビーチへの道を白い砂に足をとられて歩いていると、いきなり「おい!」と声をかけられた。
びくりとしてそちらを振り向くと朱音が息を切らして立っていた。遼は約束を
「うっ…朱音…ごめっ、もう帰るつもりだっ…」
朱音は遼の言葉を最後まで聞かずに走り寄って思いきり抱きしめた。いや、抱きしめた、というよりは、大型哺乳類を捕獲した、と言ったほうが客観的には近かったが。
「遼、孝君から聞いた。悪かったよ。彼も後悔してる、だから許して帰ってきてくれないか?」
朱音が怒らずにそんなことを言うなんて予想外で遼は驚いたが、考えたら笑えてきた。
「なんで朱音が謝って…もう、こんなとこまで来てもお人よしなんだから。ありがと…。私、孝と元通りになったらちゃんと朱音とのことを考えたい。私にとって家族と同じくらい大事な人になってるって気が付いたんだ」
遼の口から思わぬ言葉が出てきて、朱音はドキッとした。
「ちゃんと…?」
「うん、朱音は私のことをどう考えているのかとか、結婚したくない人なのかとか、子供は欲しいのかとか。ここに来たらいろいろ思うとこがあって。朱音はちゃんと自分の気持ちを言わないから、聞きたい」
(まてまて、答えようによっちゃ結果がちょっと怖い質問ばっかだな…家族くらい大事、ってのはすげー嬉しーけど…)
朱音は遼を逃がさないようにぎゅっと抱きしめたままで少し考えてから、
「オレは遼のこと、世界で一番大事に思ってる。遼が忠君たち家族を一番大事に思ってても、オレは遼が一番好きだ。ずっと一緒にいたい。結婚は遼がしたいならしたいし、したくないならしない。子供は遼が欲しいなら欲しいし、欲しくないなら欲しくない…どうだ、わかったか?」と答えると、遼が少し頬を膨らませた。それさえも朱音には可愛く見えた。
「わかんない、って言ったら?朱音自身の気持ち、だよ?」
あまりに朱音が遼のことだけを考えて答えたから不満だったようだ。
「遼がしたいようにすればいい…オレはおまえがいたら他はなんもいらねーんだよ」
朱音が遼の顔を覗き込んですくい上げるようにキスすると、海からフィラスと子供たちがやってきたのに出会ってしまった。
「お、澤井、やっとゴールを決めたな?ボクも嬉しいよ」
「わーい、カップルだ」「チューしてる、お父さんに怒られるよ」「キッス、キッス!」
「だめ、絶対内緒だよ!」と遼が焦って子供に説明している。フィラスと家族はイスラム教徒なので婚姻前の恋愛にはとても厳しいのだ。
「大丈夫、日本人だもの」とフィラスが笑って言った。みなもうんうんと頷いていたが、
「でもここはマレーシアだから」と遼が頑固に言うのをみて、
「なるほどね、真面目な澤井が好きになるはずだ」とフィラスはまた笑った。
年が明けて5日に遼と朱音は日本に帰った。結局年末年始は飛行機が非常に高額なのと居心地がいいのとで、ぎりぎりまでその島のコテージで過ごしてしまった。
「必ずまた来るから」と朱音が言うと、フィラスたちは喜んで見送ってくれた。
「ごめん、遼。俺が悪かった、許して家に帰ってきて欲しい」
仕事を休んでまで空港に迎えに来た孝は、遼を目の前にしてすぐに謝った。
「許す…なんておこがましいことは言えないけど、孝がこれからちゃんと幸せになるって言うならあの家にいさせて欲しい。私は孝たち家族がとても大事だから…でも、孝、ごめん。孝の気持ちに気が付いてなかった…傷つけてごめん」
「遼が謝ることは一つもないよ。でもこの話を忠兄さんにしたらぶっ飛ばされそうだから内緒にして」
「…うん」
「澤井さん、ありがとうございました。遼が帰ってこなかったらどうしようかと思って…」
孝が泣きそうな顔で愁傷にお礼を言って、朱音に話すのを見て遼は安心した。どうも孝は彼に少し心を開いているように見える。
「いえ、オレが行かなくてももう遼は帰るとこだったんだ。遼は帰国して孝君と仲直りしようと思ってたんだろ?」
「へへへ、そうなんだ。でも、朱音、ありがと。迎えに来てくれて嬉しかった」と遼は何かを思い出したかのようにニヤけた。遼らしくないので朱音が、
「いや、いいけど…どうしたんだよ?」と不審そうに聞いた。
「だって、フィラスが、朱音がシンガポール赴任中もずっと私のことを忘れてなかったって教えてくれて…私と同じ気持ちだったのが嬉しかった」
遼の答えを聞いて、朱音と孝は目を見合わせて笑った。
「オレをこの家族に入れてくれないか」
遼の28回目の誕生日、彼女の家で誕生日ご飯を食べた後に朱音は2年越しでアメシストの指輪を渡した。去年はまだ孝の手前、渡すことが出来なかった。
遼は朱音から箱を受け取って皆の前で指に着けた。
「ありがとう…でも家族って、どうしたらいい?」と遼が真っ直ぐに聞くと、相変わらずとぼけた姉に孝が呆れて笑った。
朱音は恥ずかしそうに、
「どうって、えーっと、結婚してくれってことだ。…いや、別に結婚をしたいわけじゃなくて、事実婚でもいいんだけど、その、姪っ子をあまりに可愛がるから…子供ができてもいいような状態にしたいなって…」としどろもどろに説明した。
「朱音さんが子供欲しいって言ったらいいのに」と孝が突っ込むと、信と誠も笑って、
「素直じゃないなー」「そうそう」と頷いた。
「子供は欲しいけど…朱音は私との子供でいいの?」
遼が不安そうに聞くので、朱音が呆れた顔をした。
「バカ、何度も言わせるな。オレは遼じゃなきゃダメなんだ」
「フーウ!」「ワーオ、告白だよ、姉ちゃん」と双子がはやし立てた。孝はニヤニヤして見守っている。
すると、玄関の引き戸が開けられる音がした。
「おう、ごめん、打ち合わせで遅くなった。誕生日おめでと、ねえちゃん」「お姉さん、おめでとうございますー」
忠と眞衣、そしてもうすぐ1歳になる娘を忠が抱っこして登場した。舞は2人目を妊娠中で、重そうなお腹を抱えてわざわざやってきてくれた。
忠の娘は手を思い切り伸ばして遼の方に行こうとしたので、笑いながら忠が遼に手渡した。
「来てくれてありがと、メイちゃん。眞衣さん、身体が大変なのにありがとう」
「お、どうしたの?何かあった?」と忠は場に広がる違和感を感じて聞いた。
「うん、朱音さんがねえちゃんにプロポーズして…」と孝が説明した。
「で、ねえちゃんは?」
「まだ返事してない」と遼がのんびり言うと、忠が呆れて、
「早くしろよ、ねえちゃん」とせかした。
「そうですよ、朱音さんがジリジリしてる」と眞衣も笑って恥じらう朱音を見ながら言った。
遼が返事をすると山田家に久しぶりの歓声が上がった。それは1年前にメイが産まれた時と同じくらいの大歓声だった。
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