第5話 誘月
朱音は惨敗した気分で自分のアパートまでの夜道を歩いていた。見上げると月がいつもより一回り大きい気がする。
「なあ、忠君が今日来たのはオレを
(忠君の前でばしっと『付き合って下さい』って言えたらカッコよかったんだけど…まあ取りあえず今日は遼がやたらとニコニコしてて可愛かったし、誰とも付き合っていないとわかって良かった。
そうだ、今週末デートに誘って…そこで付き合って欲しいとはっきり言おう。今度は下手な事を言わないよう気を付けないとな)
そしてため息をついた。遼に限ってとは思うが、こんな状態に呆れられてしまい、他の男にとられないか心配だった。
(身体の関係はあるのに恋人じゃないなんてもやもやして仕方ない…あいつオレの事、どう思ってるんだろう?好きで寝たんだろうか…?わからんのぅ…)
仕事の方が楽だ、と朱音はつくづく思った。
「なんだったんだろうね、朱音。私に付き合ってる人がいないって4月に言ったから知ってるはずなのに…」
「…もう6月だし彼氏が出来てるかもって確認したかったんだろ?」
(いや、あれは付き合って欲しいって言いたかったんだろうけど…)
「ふーん。まあいいや、忠と朱音が一緒にいるとこ見られたから嬉しかった」と遼は忠に向かってニコニコしてる。
(あいつは押しが強いのか弱いのか…こんなに遼がわかりやすく好きなのにわかんないのか?同じ大学出身と聞いたけど、意外とバカなのだろうか…)
忠はそう不思議に思っているが、実際は違う。
遼は弟たちの前ではニコニコしているが、基本外では無表情であることを忠は知らない。最近やっと朱音と後輩の江上のおかげで会社でも表情が出てきたくらいだ。
なんせ秘書課まで短期間とはいえ経験しているのだから、総務のスーパーAIなどと呼ばれているなど弟たちは想像もしていない。
(まあ、間違いなく二人は好き同士みたいだし、見守ろう。今日みたく俺が出ると澤井さんがびびっちゃうんだもんな)
仕事の後の精神的重労働のおかげで疲労の極致に達した忠は、二人の様子を見て当分は見守ることに決めた。
朱音が真面目でいいヤツだと会うたびに感じるのも大きかった。
(二人がうまくいってくれると嬉しい…な)
「なあ、ねえちゃん。澤井さんをあまりいじめるなよ。あの様子だといつまでたっても付き合えなさそうだ。今度二人きりになったら、好きだって言ってやったらどうだ」
自信がなさげな朱音への憐みを込めて忠がアドバイスすると、遼はちょっと考えてから、わかった、と言った。
(ねえちゃん本当にわかってるのか…?)
忠の不安は尽きなかった。
遼は風呂から出て髪を拭きながらPCを立ち上げた。新着メールのお知らせをクリックした。
『RYO様
お久しぶりです、MVでお世話になったKiDです。
さて本題。
EMA様から聞いてると思いますが、近々派手に遊ぶつもりです。
資金は潤沢ですので報酬は弾みます、是非ご参加下さい。
わかっていらっしゃるとは思いますが強制参加です。
またご連絡いたします。
KiD』
(厄介だな、やはりきたか…)
こういったグループクラッキングのお誘いがサイト内のメッセージBOXによく来るが、遼はすべて無視していた。
しかし、今回は違う。EMAと同じく自宅のパソコンのアドレスに来た。ということは、住所や名前、会社などがバレている可能性が大きい。
(強制、ってことは断ったら何か仕掛けられる、ってことだろう。勤務先か…?KiDは大したことないが、今回バックが大きいかもしれない…そいつがEMAと私を探させたんだろうか)
遼は髪を乾かしてすぐにPCに向かった。携帯の着信ランプが点滅していたが、全く気が付かなかった。
「おい、遼!なんで電話に出ねーんだよ…っていうか、大丈夫か?」
寝不足で出勤した朱音は、輪をかけて寝不足でぼんやりした遼を会社の前で見つけて驚いた。最近少し不安定で元気がない気がするが、ここまでは珍しい。
(デートに誘おうと思ってるのに、言いにくいじゃねーか…)
「ん……ちょっと…」といつもと違ってぼやぼやして答える遼が新鮮で、朱音には可愛く映る。まさに恋の末期症状だ。
遼は朝方まで起きていた。今朝は時間に余裕がなかったので化粧もできず、リップだけで少し幼く見えた。服も考えるのが面倒だったので、夏のグレーのパンツスーツに白いインナーだ。
(おいおい、可愛いじゃねーか…こんな姿、他の男に見せられないよ…)
すでに朱音は待ち伏せしていた目的を忘れて、
「大丈夫か、医務室連れてってやろうか?」と心配を装って聞いた。出来たらずっと医務室にでもいて欲しかった。
「大丈夫、濃いコーヒー飲んだら治る…っと、昨夜はごちそうさまでした。忠の分まで払ってもらって良かったの?返すよ」
話しながらもふわふわと雲の上を歩くような遼が心配で、いつ倒れても支えられるように並んで朱音は歩いた。
「バカ、そんなのオレが誘ったんだしいいに決まってるだろ」と答えると遼はすまなさそうに目を伏せた。それを見て朱音は、なぜか遼にだけいつもきつい物言いをしてしまう自分を責めた。
二人は社員証を
「ご、ごめんなさい」
背中を押された遼は朱音の胸にそっと両手を当てた。今日は化粧をしていないことも忘れて、顔が朱音の胸に当たってシャツが汚れないようにしている。
遼の後ろからもたくさんの人が入ってくるのを見て、朱音は潰されそうな遼をエレベーターの壁側にくるりと移動させた。彼女が少し目を見開いて超至近距離から朱音を見上げた。
(そんな可愛い顔するなって…抱きしめたくて仕方ないじゃねーか)
彼が衝動に堪える為に天井を見ているうちに、総務の階に着いたので遼は彼に頭を少し下げ、人をかき分けてエレベーターからふらふらと出ていった。
「しー、山田先輩寝てますから…」
朱音が昼前にいつも指導してる個室に入ると、江上が唇を尖らせて人差し指を口に当て、朱音に静かにするよう合図した。
「何やってんだよ…おまえら…」
江上は遼の頭を膝に乗せながら仕事していた。遼はうまい事丸まって椅子を寄せて寝ている。江上の薄いグレーのジャケットがかけてあり、まるで
「何って、仕事ですけど。先輩は昨日徹夜だったみたいです。珍しく机に突っ伏して寝てたので、可哀想だったから横にして…」
江上が朱音に説明している矢先、
「…おまえ遼に変な事してないだろな…気安く触るなよ」と目の色を変えて江上のシャツの胸元を掴んだ。
「…澤井先輩って、マッチョのくせに弱虫ですよね。正直言って僕は先輩が嫌いです。付き合ってもないくせにうるさく言うのもどうかと思います」
掴まれながらも江上は落ち着いている。いつもと違う低い声で、朱音をわざと怒らせるように言っているのがわかった。
「おまえの本性はそれか。何が目的なんだよ」
「僕は醜い独占欲で彼女を縛ったりとか、付き合ってもないくせに寝たりしませんよ。彼女の側にいたいだけです」
「なんだそれ…わけわかんねーこと言ってないで答えろよ」
朱音がぐいと江上を持ち上げたので、遼が目を覚ました。
「ああ…私寝て…?ひゃっ」
状況がわからないまま上半身を動かしたので、遼は椅子の隙間から床に落ちそうになった。
「…っつ」
朱音がすぐに江上から手を放して遼の身体を支えた。
「ご、ごめ…」
「だから医務室に行けって言っただろ!」と怒鳴って遼を座らせると、彼女はいきなり怒られてびっくりしている。こんなとこでうっかり寝ていたから注意されたと思い当たったようで、小さな声で「すいません」と謝った。
江上が侮蔑的な目でこちらを見ている。
「大きな声出して悪かった…」
(だめだ…オレ大分おかしくなってる…)
朱音はいたたまれなくて早足で部屋から出た。
「おい、酷い顔してるな。山田はどこにいる?」と営業一課に戻るなりミカに聞かれた。
「な、なんでオレが…」
朱音が動揺してるのを見て楽しんでいる。彼がおかしな時は大概遼が絡んでいると知っていた。
「後輩君も一緒にいるんだろ?」
「…はい。二人は個室B5にいます。なにか遼に用ですか?」
「ちょっと話があってな。サーンキュ。おまえがくるとややこしいから付いてくるなよ」
ミカは足取りも軽く営業1課を出て行った。朱音は上司の後姿を見送った。もちろん心配で付いて行きたいが、何を言うかわからない自分が嫌で立ち尽くしていた。
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