第5話 嘘月

(あっ、朱音あかねっ…?)


 タクシーのドアの中を覗き込むと居心地が悪そうに座る彼が奥にいた。後ろからミカに押し込まれるように遼が後部座席に乗り込むと、彼女は最後に遼の隣にすべり込んだ。遼は二人に挟まれる格好になった。


(なんなんだ…、この状況)


「あの…」


「ああ、私の事はミカって呼んで。一応最上美香もがみみかで社長をしてるけど、いつもは営業一課にいるの」と軽い調子で言ったミカは遼の頬をピトリとひんやりした手で触った。

 そして、ゆっくり指を滑らせ首を辿って胸元のダイヤをもてあそぶ。驚いて遼は固まっている。


「何してるんスか、ミカさん。セクハラで訴えますよ!」と朱音がミカにみ付いた。


「もう、朱音は怒りんぼなんだから。そんなに彼女が好きなの?」とミカがからかうと、朱音が少し怒った。


「何言ってるんスか、違うに決まってるでしょう!これは大事件だからです、危機感がないんですか、あなたには」


(ふーん、なるほど。彼女が例の困った上司、ってわけだ。いいコンビに見えるけど)


 遼がそう考えていると、「で、データは?」とミカが聞いた。ダイヤを触っていたいやらしい指先が胸元に降りていくのを見て、朱音が血相を変えた。


「山田さん、すいませんが場所を変わって下さい。この人綺麗な女性に目がないので危険です」


「あーあ、言っちゃった。それってアウティングっていうんだよー、朱音は悪い子だー」


「すいません、狭いですが…こちらに」


 朱音はミカを無視して中腰になってミカの方ににじり寄るので、遼が窓際にいざいた。彼が少しでも遼に触れないよう気を使っているのがわかる。


「ふーん、あんたそんなに山田さんが大事なんだ」と誰に聞かせるわけでもなくミカが意外そうに言った。


 朱音が少し赤くなったが、遼は固い無表情のまま「もうデータは完全に消去しましたので復元できません」と朱音越しにミカに答えた。




 タクシーはビルの前に寄せられ、降ろされた3人は高級中華料理店の個室に入った。

 注文は済んでいるようで、「ちょっと電話してくる」といってミカは出て行った。席についてから重い沈黙がしばらく続き、


「さっきは…ごめん、謝る」と朱音が頭を下げた。


「…なにが?謝ったほうが得策だからって適当に謝るのはやめて。ていうか、私の事を信用してない」と遼が無表情で言う。


「さっきの『そんなこと』っていうのは、遼の事を『そんなこと』呼ばわりしたんじゃないんだ」


 しばらくの沈黙のあと「…じゃあ、何?」と仕方なさそうに遼は聞いた。その場を取り繕うためのウソだと思ってるようだ。


 こんな状態で、自分は遼を捨ててないといっても言い訳になってしまうだろう。でも朱音は言わずにはいられなかった。


 彼はごくりと息を飲んでから、『オレは別れようってメールをもらったから…』と言おうとしたところでミカがバタバタうるさく入ってきた。


「お待たせー、もう説得した?」


「…いえ」


「営業一課の未来のエースがなにやってんの?もう、私が言うから」


 ちょっと不安そうに朱音は上司のミカを見ている。


「あなたの受け取った九州支社からのメール、朱音から報告を受けた。ヤバイ資料って自分でわかってるわよね?」


「はい」


 知ってしまった彼女自身の立場も危うい。だからこそ、朱音を巻き込みたくなかったのに、と遼は唇を噛んだ。


「じゃあ、私にデータを頂戴。あなた本当はどこかに残してるんでしょ?そういう人に見える。私は立場上、好き勝手してるやつを放っておくわけにはいかないの」


「…私はあなたたちを信用してません。だから渡すわけにはいかない」と遼は先ほど朱音に言った事を繰り返した。


「やっぱり残してあるんだ。じゃあ、誰になら渡すの?」とミカは遼を覗き込んだ。今にも唇が触れそうで、朱音はドキドキしていた。でも肝心の遼は平然として、


「では、会長がミカさんに協力するようにと直接私に言うのであれば。それと一つ条件があります」と無表情で言った。


「失礼します」


 遼はミカの耳に口を近付けて朱音に聞こえないように何か言った。ミカはやたら嬉しそうだ。


「ふーん、いいよ?ていうか、そんなんでいいんだ」


「はい」


 ミカはじっと遼を見てから、ちらりと朱音を見た。


「わかった、約束する。会長と会うスケジュールは調整して連絡するから。じゃ、私は用事が出来たから帰る。これは二人で食べなさい、命令よ」


「うっ…」と朱音は気まずそうに遼を見た。


 遼は相変わらずの無表情でミカに頷いた。長い黒い髪が揺れる。

 そういえば最近遼の髪が緩く巻かれている。今日は化粧までしているし、やはり彼氏の好みだろうか。会社やイタリアンに彼女を迎えに来るあの背の高い若い男。

 服装も、朱音と付き合っていたときは黒いタートルネックや首元までボタンをぎっちり締めたシャツを着ていたのに、今はネックレスと鎖骨がキレイに見えるシャツやニットを着るようになった。それも今日は華やかなパステルカラーだったりする。

 胸元のネックレスはやはり彼氏からだろう。上品な彼女によく似合っている。


(オレなら遼に濃いブルーを着せたいけど…)


 朱音は飾り気のない遼が好きで付き合っていたが、こうしてみると、美しくなった遼も魅力的だった。

 でもこんなに近くにいるのに彼の恋人ではない、そう思うと胸の奥底から嫉妬心がぶわっと押し上がってきた。そんなこと言ってる場合じゃないのは彼もわかっていた。


「頂きます」


 遼はさっさとチャーハンと春巻き、サラダを自分のぶんだけ取り分けて食べ始めた。

 朱音は思い出したように「俺も食べる」と言って取り分け、もそもそ食べ始めた。せっかくの高級中華の味が全くしない。その理由はすぐに思い当たった。

 遼が朱音を信用できないとはっきり言ったからだ。

 その言葉は朱音の何かを激しく損ない、彼女が「ごちそうさまでした。帰ります」とさっさと部屋を出ていってから、ジワジワと目頭に到達した。


 たくさん言いたい事があるのに、彼は何一つ口から言葉を出せなかった。彼女が怖い。次に何か言われたら、身体がバラバラになってもおかしくないくらいのダメージを受けていただろう。


 彼女と別れたショックから立ち直り、やっと彼に訪れた単調で静かな日々は終わりを告げ、熱狂的な季節が自分をすでに侵食してることに気が付いた。




「朱音には外れてもらう。さっき見てたけど、山田と相性が悪そうだ。代わりに山本に頼むから安心しろ。彼は事件が起こった事にうっすら気が付いているようだし、おまえよりは山田に対して上手く立ち回れそうだからな。以上、下がれ」


「嫌です!ここでオレを外すなんてミカさんらしくない。どうしてですか?」


 朱音が珍しく大きな声を出したのでミカは顔をしかめた。でも彼女はそれくらいでビビるような女性ではなかった。よりクールに、


「業務命令だ。以上、と言ったろう?」と朱音をめ付けた。


「理由を言ってくれないなら、納得できません。相性が悪いというなら彼女のフォローは山本に任すので、補助作業だけでもさせて下さい。資料を見たのはオレなんですよ」


 ミカは呆れた表情で朱音を見てから、


「仕方ないな…でも絶対に逸脱するなよ、この一件が終わるまで彼女に会わないこと。わかったな」と告げた。


 朱音は返事もしなかった。



「なんだよ、オレを外すなんて…」とぶつぶつ言いながら席につくと、山本がすまなさそうにこちらを向いたので思わず目を逸らした。


 山本が自分からミカに頼んだから交代させられたのではなさそうだ。


(と言うことは、遼だ。オレを外すようミカに頼んだのだろう)


 顔も見たくないとは、朱音は完全に嫌われてしまったようだ。誤解を解くどころではなくなってきているのを感じて朱音は大きくため息をついた。


「はー」


「ため息なんて、朱音さんには似合いませんよ。今夜飲みに行きませんか?」と珍しく山本が席まで来て朱音を誘った。


 朱音は二つ返事で応じた。

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