第12話 夷則≪いそく≫の月

「俺先輩を見損ないました。山田さんが気を遣ったのにそんなこと言ったんですか?」


 昨日と同じ飲み屋にまた朱音と山本はいた。

 朱音が自分の立場も表明せずに、遼に怒りをぶつけた話を聞いてあきれてそれしか言えなかった。実際、遼が会社で気を遣う所なんて山本は見たことがない。

 それっきり黙り込んだ山本に、朱音が言い訳するように、


「結婚とか、本当に考えられないんだって…」とぼそりと言った。


「…先輩、一人でよく考えてみたらどうですか?俺もう聞いていられないので帰ります」


「おい、山本…待てよ」


 山本が怒った様子で帰った後、朱音は少しの間考えている様子だったが、飲むのを止めて自分の部屋に帰ることにした。

 もちろん遼からの連絡は週末もなかった。




「今週は全然見かけないですね。今日も食堂に来てないし」


 遼と江上は二人は食堂で魚定食を食べていた。秋鮭のホイル焼きだ。ホイルを開けた時のバターとキノコの香りが嬉しい。


「ん?」


「澤井先輩。週末も会ってないんでしょ?」


 先週の金曜日から木曜日の今日まで一度も見かけない。


「…うん。なんか、この前昼にコーヒーに誘ったでしょ?話を聞こうとしたら男子の思春期みたいなこと言ってた。心配だけど、もうそっとしとこうと思って」


 それを聞いて江上はツボだったようで大笑いした。


「男子の思春期って…なんで知ってるんですか?あぁ、弟がいるって言ってましたもんね」


「でもよくわからないな。山本さんが原因は仕事だって言ってたけど…」


「バカだな、遼さん。仕事であの澤井さんが悩むことなんてないじゃないですか…わかってないな」と江上は遼に聞こえないようにぼそりと呟いた。


 昼休みが終わり、総務課に戻るエレベーターの中で遼の携帯が震えた。


『明日の夜、時間くれないか』


『わかった』


 遼はすぐに返信した。




 いつものイタリアン、レノンの中は外と別世界のように涼しい。もう8月に入っている。探すまでもなく朱音がいつもの席で待っていた。


「お待たせ。早いね」と言いながら遼は席に着く。


 彼女は白い麻の上品なワンピースに濃い緑のカーディガンを羽織っている。遼の弟の孝が選んだ服で良く似合っていた。いつの間にか髪の毛もだいぶん伸びていて、あご上のふわりとしたアシンメトリーなボブになっている。孝が元のロングに戻そうとせっせと手入れをしており、週末にそろえたばかりだ。


「料理はいつものを頼んでおいた。良かったか?」


「ありがとう。で、話ってなに?」


 朱音が意外と元気そうで遼は安心した。スッキリした顔をしている。

 ミカに聞いてみたが、今週後半の仕事ぶりはちょっとマシになったようだった。


「そのワンピース、初めて見た」


「ああ、これ?孝に選んでもらった。変かな?」


「孝君か…やっぱりお洒落だな。良く似合ってる…髪形も、可愛い」


 遼は朱音に褒められて面食らった。江上ならまだしも、彼にこんなことを言われたことがない。赤くなって、


「あ、ありがと…なんか朱音が褒めるなんて珍しい。どうしたの?」と聞くと、


「オレ、自分の気持ちを口に出すの苦手なんだ。でも、遼にはこれから正直に言うことに決めた。お盆休み、大野に一緒に来てくれないか?」と予想外の返事が返ってきた。


「なっ…急にどうしたの?」


 話に付いていけずに珍しく遼が焦っている。大野と言えば彼の実家だ。


「遼にオレの事を知って欲しいから、実家に連れて行きたい。その上で、遼がオレと結婚したいと思ってくれたら嬉しい」


「け、結婚?!実家?」


 遼は喜ぶどころか完全に引いている。ドン引きた。てっきり彼女が喜ぶと思い込んでいた朱音は、


「…遼、結婚を早くして欲しい、って言ってたよ…な?」と質問の最後の方は消え入りそうに聞いた。


早く結婚して欲しい、とは思ってる。でも自分の事は全然考えてない」


「マジか…」


 きっぱり答える遼の前で彼は机に頭を落とした。ゴツン、と大きな音が店内に響き、周りの目が彼らのテーブルに集まった。

 勘違いしていた今までの自分の言動が恥ずかしくて仕方なかったが、彼女との結婚を考えなくて済んで心底ほっとしてる自分がとても嫌だった。彼女にはそんなほっとした顔を見せられない。


 遼も驚いていた。自分の何気ない一言であれほど朱音に影響がでるなんて思ってもみなかったのだ。


(仕事が原因じゃなかったんだ。朱音の側面を知ってしまった気がする。私とそれだけ結婚したくなかったってことだ)


「朱音…私の言い方が悪かったせいで悩ませてしまって、ごめん。もう無理しなくてもいいから」


 遼は彼の頭を優しく撫でて謝った。


「いや、オレもごめん。そうだとばかり思い込んでて…そうだ、ヤバいな…」


「どうしたの?」


「…食べてから話す」




「遼さ、悪いんだけど、お盆に大野に一緒に来てくれないか?家族に結婚を考えている女性を連れて帰るって言ってしまって…」


 朱音が食事の後に申し訳なさそうに聞いた。


「うっ…」


 予想通りの困った話だった。

 人に会うのが苦手な上に、遠方で泊りと聞いて遼の顔が歪んだ。彼女にとって知らない家族と一日一緒など、考えただけで胃が痛くなるような話だった。

 遼の反応を見て朱音がやっぱり無理か、という顔をしている。


「恋人だって訂正しておくから軽い気持ちで来て欲しいんだけど…どうかな?」


 今まで朱音には散々助けてもらっていた。それを考えると断るわけにはいかない。

 遼は力なく頷いた。

 



「なーんだ、そうだったんですね。山田さんと結婚が結びつかないと思ってた」と堀は食堂で肉定食を食べながら結構失礼なことをさらりと言った。


 同じく肉定食のユーリンチーを食べる隣の山本がそれを聞いて青くなったが、魚定食を食べる遼はうなずいて、


「弟4人が早く結婚して欲しい、て言ったつもりだっんだけど…うかつだった」とカツオのたたきにショウガを乗せてタレにつける。良く咀嚼そしゃくした後に冷静に言った。


「でもさ、遼さんに『早く結婚して』って言われたと思ってあれだけ困ってた、ってことは、本気の付き合いじゃないんですよ。僕ならその場ですぐに『やったー!じゃあ遼さん、今すぐ結婚しましょ』ってなりますもん。やっぱり澤井先輩は不誠実な男です、止めたほうがいいと思いますよぅ」と江上が遼をそそのかすようにに言うと、最近オンラインゲームで仲良しの堀が口に人指し指を当てて、


「おい、しー、しー」と江上に向かって合図を送った。江上の後ろにいた朱音が、


「こらー、性懲りもなくいらねーこと言いやがって。江上ぃ、おまえバラバラにして海に流すぞ」と脅しながら遼の隣に座った。触れて欲しくない所を突かれて少し顔を歪ませている。


「お、優柔不断の澤井先輩じゃないですか。やっとスッキリして良かったですね。誤解したまま別れちゃったらいいな、って期待してたのに残念です」と江上が挑戦的に言い放った。


「もう、みっちゃんは意地悪言わない。朱音も冗談だから怒らない」


「み、みっちゃん?!いつの間に…」と朱音が驚きの声を上げた。


「友人の弟だったから」


 遼はあっさり答える。少し前からこの呼び名で山本達にも定着していた。知らないのは朱音だけだ。


「ふふふ、先輩が一人でわちゃわちゃしてる間に僕は距離を縮めてますから。先週は一緒に映画も行ったし」


 得意そうに江上が言った。


「おーいー、遼!なんでこいつと映画なんて…」と朱音が聞いてるそばから、


「友人とみっちゃんで行ってきた」と遼がかぶせるようにさらっと答えた。


「えー、何見たんですか?」


 堀が聞く。山本も気になって耳を寄せる。


「『MIDSOMMARミッドサマー』面白かったですよ」と江上が答えた。


「…オレ予告編見たけど、トラウマになりそうでヤダ」


 朱音の言葉に山本も頷いた。堀だけ少し見たそうな表情をしている。


「じゃあいいよね」「ねー」と遼と江上が眼を合わすのを見て、朱音は思わず笑う。なんだかんだで、この空間が気に入っているのだ。


「じゃあ、遼、週末はオレと映画な、開けとけよ」


 会社の食堂で堂々と遼を誘う朱音に一同が面喰めんくらった。


「おおう、先輩…どうしたんですか?こんなとこで…先輩に似た別人かな、もしや背中にチャックかボタンあります?」と江上が驚いている。


「わかった」


 遼が少しだけ微笑んで答えた。

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