第13話 鬼月

「初めまして、山田と申します」


 朱音と遼はお盆休みにレンタカーを借りて福井県の彼の実家を訪れた。

 早朝に東京を出たのに朱音はなぜか寄り道ばかりし、着いたのは夕方の5時をまわっていた。遼も別に早く着きたくはなかったので、彼が気を使ってくれたのだと思っていた。


 彼の実家は大野市のはずれにある広い敷地に建つ純和風の一軒屋だった。

 せっかく三方を田んぼに囲まれているので涼しそうなのに、家はぐるりと塗り塀で囲まれて、その上に真っ黒の目隠しフェンスがしてある。

 これまた真っ黒の門扉が開かないと中が見えないようになっており、ちょっとした要塞のようだ。開放的な遼の家とは正反対の佇まいだった。山田の父が、道から見える家の景色が文化なんだ、と言っていたのを思い出す。


 遼は少し緊張気味の朱音の後ろに付いて玄関に入った。土間に立つ二人を出迎えてくれた彼の家族に挨拶をした。


(この雰囲気…やっぱり苦手だ。嫌なことを思い出すな…)


 両親と祖父、そして兄だろう。

 遼の足の先から頭のてっぺんまでじっとり値踏みする目線。皆笑顔だが、目が冷たく感じる。8歳の時にアメリカで両親を亡くし、引き取られた日本の親戚の家々で自分に向けられたたくさんの目を思い出す。


 顔をひきつらせた遼は、朱音の顔を見て安心したかった。でも彼は彼で強張った面持ちで祖父と話をしていて、こちらを向く余裕はなかった。




「改めて、こちら山田遼さん。同期で入社したんだけど、少し前から付き合っている」


 二人はリビングに通され、並んでソファに座った。その周りを朱音の家族が取り巻いた。


「朱音さんとお付き合いさせて頂いてます、よろしくお願いいたします」と遼がぴらぴらの営業スマイルをなんとか顔に張り付かせて頭を下げると、頭髪が真っ白で痩せ気味の70代前半くらいの男性がずずいと前に出て、代表で挨拶した。最初に玄関で朱音と話していた男性だ。


「遠くから来て頂いてすいませんのう、私は朱音の祖父です。これは息子夫婦と孫のあおいです。葵は朱音の兄で、大学病院で医者をしております」


 孫が自慢のようで、葵と呼ばれた背の高いひょろりとした男性の肩を撫でながら満面の笑みで紹介した。

 

「葵はとても優秀でして、子供のころから何をしても一番での…」

 

 祖父の言葉を両親も嬉しそうに頷きながら聞いている。

 遼は彼のいつ終わるとも知れない知らない人朱音の祖父の自慢話をぼんやり聞くふりをしながら、朱音の顔をそっと見た。

 彼は玄関に入った時と同じ顔をして固まっていた。祖父がいつもしているであろう話は空虚なただの記号の羅列でしかなく、遼の頭には一言も入ってこなかった。


 


「疲れただろ?今夜はゆっくり寝て、明日大野を観光しよう」


「朱音、やっと私を見た」


(もう…私より朱音のほうが緊張してたし。これでは疲れたなんて言えないじゃないか…)


 食事の後、遼が先にお風呂を貰い客間に案内された。客用のお布団が一組すでに敷かれている横に二人で座る。あまり使われていないのか、新品のようだ。

 彼女が朱音の頬を両手でふんわりと挟むと、彼の固まった顔がふっと緩んだ。


「朝から緊張気味だったけど、ここに着いてからは見たことないくらいすごく変な顔してた。朱音、いつも自分の家でそんな顔してるの?」


 朱音は遼の手に自分の手のひらを重ね、愛おしそうに何度も撫でた。


「…うん。祖父が見ての通り兄をお気に入りでね。両親も小さなころから兄ばかり大事にしてた。祖母が唯一オレを可愛がってくれてたんだけど、オレが6歳の時に交通事故で亡くなったんだ。母は祖母と折り合いが悪くてね、子供心に辛かったよ。

 昔から祖父と父、兄はおかずが一品多いのは当たり前だったし、兄には皆が惜しみなく自分のものを差し出してた。古い家なんだ。それが普通だと思っていたけど、大きくなってきて普通の家とは違うとわかってからは…やっぱりね…るんだ、そういうのってじわじわ。

 だから、ここにはあまりいい思い出がないし大声で笑った記憶もない。いつも友達の家に遊びに行くといいなって思ってた。遼の家も、忠君とか孝君、双子ちゃんと仲良しでさ、うらやましい。きっと両親もいい人で笑いが絶えない家だったんだろうなって…」


(朱音は落ち着いているし、普通の家で愛されて育ってると思ってた。私は両親を2回も亡くして自分を疫病神のように思ってたけど、両親とは楽しくていい思い出しかない。4人とも大好きだった…。あれ、じゃあなんて今回は帰って来たんだろう?)


「朱音、無理して帰って来なくてよかったんじゃ…」と遼は控えめに聞いた。


「…遼に見て欲しかったんだ。オレは高校を卒業するまでずっとこの家の隅で息をひそめるように生きてきた。大学でこの家を出てから、やっと自由に息が出来るようになったんだ。でもな、今でもやっぱり人と深い付き合いになるのは怖い。人を底までは信じられないんだ。だから彼女が出来ても長続きしないし、結婚も正直怖い。遼にはいつも…ちゃんと出来なくて悪いと思ってる。

 オレのこと少し嫌いになったろ?実家でこんなちっこくなってるオレ、見せたら嫌われるだろうなって…」


 遼は朱音のしょんぼりした顔を見て決めた。彼の手をぎゅっと握って立ち上がらせようとしながら、


「私が好きなのは朱音だから、朱音が好きじゃない家には興味ない。今すぐ帰ろう。大野城はまた次回にしてさ。朱音の行きたいとこまわって帰ろう」と提案した。


 彼女がそう言うのを聞いて、朱音は中腰になった遼をもう一度座らせ、笑いながら遼の頭を撫でた。彼女が不器用に気を使ってくれるのが嬉しかった。


「何言ってんだ、もう遼はパジャマじゃないか。でもありがと。じゃあ、今夜はゆっくり寝て明日の朝早く出ようか」


「うん…ねぇ、ここで一緒に寝て?…なんか怖いんだ」


 なんだか、この家の冷たい雰囲気のせいか、隣が仏間のせいか、遼は一人で寝る気にはなれなかった。甘えたいとかでなく、ただ怖かった。


「おいおい、オレの家族に何言われるかわかんないよ。結婚前の男女がどうこう、って。いいの?」とニヤニヤして聞いた。彼のいつもの調子が戻ってきて遼は嬉しかった。


「うん、別に気にしない。お風呂出たら来て、待ってるから。そうだ、朱音の部屋の本を読んでもいい?」


 お風呂に入る前に朱音の部屋を見せてもらった。本棚とベッドと机で構成された殺風景な部屋。なんだか囚人の部屋の様だ。たくさんの本だけが持ち主を主張していた。そのなかに気になる本がいくつかあったのだ。


「もちろん。気に入ったら持って帰って。この家の住人は誰も興味がない」


 朱音は長い時間をかけてキスをし、客間を出て行った。




 寝転んで朱音の本棚にあったアルフレッド・アドラーの『嫌われる勇気』を熱心に読んでいたら、すうっとふすまが開いた。


「朱音?早かったね」と本から顔を上げると、朱音の兄がこちらをねっとりとした目で見ながら立っていた。正直気持ち悪かったが、


「葵さん、でしたよね。どうかしました?」と遼が身体を起こして布団の上に正座して尋ねた。


「いや、朱音との馴れ初めとか聞きたいなって…いい?」


「はあ…どうぞ」

 

 遼は読みかけの本を閉じて枕元に置いた。アドラー心理学は興味深く、朱音の仕事での人一倍前向きな姿勢は、実家で培った強い劣等感を乗り越えようと努力しているのかもと考えていた。

 早く続きを読みたいのにな、と思いながらそう答えると、


「じゃあ」と言って、急にニヤつきながらずいっと部屋に入ってきて遼の向かいに座った。膝が触れそうな距離で遼は驚いた。


(ち、近いな…なんだ、この人…)


 江上と違って気持ちが悪かったので、遼はいざって離れつつ正座し直し、


「朱音とは大学が一緒だったせいで、同期でも仲良くしてもらってました。その縁でお付き合いさせてもらってます」と言うと、


「ふーん。結婚とか、するの?」と聞きながら、身体をまた寄せてきた。あまりに気色が悪くなり、


「いえ、しないです。…あの、あまり近寄らないで欲しいんですが…」と軽く苦情を言ってみた。気持ち悪いなんてとても言えない。


「へえ、いい女ぶって俺のことあおってるの…?そんな綺麗な顔して策士だなぁ。俺は医者だから、俺の彼女になったらすごく贅沢させてあげる。どう?」


 そう言って、遼の身体を布団に押し倒した。背筋をぞわっとしたものが這い上がった。


「ひやっ、な、なん…どうって…」


 突然の出来事に遼は何を言ったらいいのかわからなかった。肩に置かれたぬめっとした手が気持ち悪くて大声がでない。


「俺のになればいい。朱音ってつまんないでしょ?あいつなんて捨てて俺にしなよ」


「ちょっと、どいて…やっ」


 葵の筋張った長細い手がパジャマの中にぬるりと滑り込んで胸の大きさを確かめるように動く。


(き、気持ち悪…っ)


「へえ、細いからどうかと思ったけど、けっこう胸あるじゃん。偽物かと思った…」


「触らないでっ…むぐっ」


 葵の手が遼の口を覆った。


「あいつは俺が何したって文句言わないよ。昔から俺にすべてを差し出すような負け犬なんだ…」


「…んっ…」


「最近看護婦ばっかで食傷気味でね、たまにはエリートOLもいいの…ぐぼっ」


 葵が変な声を出して、部屋の片隅にすっ飛んだ。遼の前には葵の代わりにスエット上下を着て真っ赤な顔をした朱音が立っていた。眉間にしわが嫌というほど寄っている。遼が今まで見たことがないくらいに怒っていた。

 朱音が兄を蹴り飛ばしたようだ。


「遼になにやってんだよっ」


「あ、あかねっ…」


 遼が服を直しながらホッとして出てきた涙を目にいっぱい溜めて朱音を見ると、それを見た彼はますます怒りに火が点いたようで兄を何度も蹴った。兄はひょろひょろの身体を丸めてされるがままになっている。

 山田の家では弟同士の喧嘩が頻発する為に、素手ならば放っておくという両親が決めた家庭ルールがあったので、朱音が一方的に兄を蹴るのをぼんやり眺めていた。

 が、ここは山田家ではない。


(これは…撤退準備をしたほうがいいな。しかしなんてめちゃくちゃな家だ…朱音が寄り付かないはずだ)


 遼は部屋の隅でもぞもぞと服を着替えて荷物をまとめた。もちろん気になった本はバッグにしまった。その頃には、騒ぎを聞きつけて彼らの両親と祖父が来て、二人を引きはがしていた。


「こらっ、あかねっ」

「朱音、お兄ちゃんに何やってるの!」


「こいつが遼に手を出しやがった。絶対許さないっ」と朱音がすごい剣幕で言うのを見て家族は驚いていた。

 朱音の父は彼女に大人しい息子が乱暴な人間になったと思ったのだろう、


「こんな女、兄さんが欲しいって言うなら1回くらいくれてやればいいだろ」と言った瞬間、朱音が父親の顔をグーで殴っていた。布団の上に父親が転がったのを見て祖父と母が目をいている。


(布団の上で良かった…)


「俺の家から出てけ!」と祖父に言われて「二度と来ねーよ」と大声で言い返した朱音は、遼の手を引っ張り、


「ごめん。車で待ってて、すぐに荷物持ってくる」と玄関に置いてあったキーを渡して家の外に出した。


 家の中からまたわいわい騒ぐ声が聞こえてくる。


 これで彼も当分帰らなくて済むだろう。あんな顔をしてまで家にいる必要はない、と遼は思うのだ。


 空を見上げると、月の模様が鬼のお面のように見えた。




「お待たせ、ごめん。本当にごめんな」


 家からすぐに出てきた彼の顔はずいぶんとさっぱりしていて、遼を引き寄せて軽くキスしたので遼も彼にしがみついた。説得されて家から出てこれないんじゃないかと少し心配していたのだ。


「夜遅いし、どっか泊まろう」と朱音がサイドレバーを下げながら言った。もう夜の9時になろうとしている。


「予約した。駅前のビジネスホテルでキャンセルがあったから」


 朱音は眼を丸くして、


「さすが仕事が早い」と遼を褒めて頭を撫でた。




「どこ触られた?」


 ビジネスホテルのこざっぱりした部屋のベッドで、朱音は遼の服を脱がしながら聞いた。いつまでも彼に服を脱がされるのに慣れなくて、赤くなって俯く遼を楽しんでいる。いつもクールな彼女が恥ずかしそうに俯くのが、朱音の胸が高まるツボなのは内緒だった。


「ん…胸をブラジャーの上から触られた…」


「ごめん、気持ち悪かったよな…」


 朱音は申し訳なさそうに謝った。


 遼も朱音のTシャツをめくりあげ、ズボンに手をかけた。自分が脱がすのも脱ぐのも恥ずかしくないのに、なんで脱がされると恥ずかしいのだろうか、と遼はいつも不思議に思う。


「うん。でも、朱音がやっと家族に言いたいことを言えた上殴れたんだから、触られ損ではない。さっぱりしたでしょ?うちの弟たちなんてふすまがばきばきになるくらいの激しい兄弟喧嘩を1か月に1回はしてたよ」


「うーん、複雑だ…っていうか、遼まさかこうなるのを狙ってた?なわけないよな…」とぶつぶついう朱音の口を遼が塞いだ。




「おはよ」


 朱音が目覚めると、遼はもうシャワーを浴びてカーテンを開けたところだった。大きなガラス窓が朝の大野を映し出す。綺麗に晴れている。


「疲れてたからぐっすり寝てた。もう8時だし用意しないとモーニング終わっちゃう」と遼がベッドに腰かけてかがみ、起き抜けでぼんやりした朱音にキスした。


「遼が何度もせがむからだろ…」


 意地悪な気分になった朱音が遼をベッドに引きずり込んで、遼の身体中をまさぐった。彼女はせっかく出かける準備をした服をぐちゃぐちゃにされながら、


「ひゃ…んっ、ほら、いい天気だし…っ」と言いつつも、彼に触られてとろんとしてきて抵抗する素振りはない。


「そっか、じゃあ仕方ないな…」


 朱音はそのまま遼の服を脱がしていった。



 二人はコトを終えた後、急いで仕度してホテルのモーニングをぎりぎりで取り、大野城へ足を運んだ。

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