第12話 望月

 支社長を殴り倒してから「誰も来なかったら3分後に適当に騒ぎ出せ、いいな」と小さく耳元で言って、朱音は何事もなかったようにお金を払って店から出て行った。


(朱音、この店にいたんだ…なんで?たまたま…なわけないか)


 遼は彼に言われた通り、きっちり3分後に店員を呼びに行った。

 そういえば助けてもらったのに、ありがとう、さえも言ってなかったのに気が付いた。




「支社長、大丈夫ですか…?」


 岩井に支えられながら、なぜこうなったのかあまりわかっていない最上は殴られた顔を抑えながらタクシーで帰っていった。酔っていて遼にした事は覚えていない様だ。


(あれが世に言う『セクハラ』か。性的嫌がらせ…なるほど気持ちが悪い)


 遼はそんな目にあったのは生まれて初めてだし、支社長に対してはもう嫌悪感しかない。昨日朱音に抱きしめられた時はときめきしかなかったのに、人が違うとこれほど気持ちが悪いんだ、と知った。


(岩井さんは素敵な人なのになぜあんな人を好きなのだろうか…?わからない)


 遼が帰っていった二人を思いながらけげんな顔をしてると、


「ああ、もう長いからねー。5年くらいかな」と東出がさらりと言った。


 皆が岩井さんを憐れんでいるのが伝わった。彼は他の女性にも手を出しているのかもしれない。


「そうなんですね…」としか遼は言えなかった。




 遼は店を出てタクシーで人気ひとけのない団地のなかの社宅に着いた。もう12時を超えている。九州の夜は長いのだ。


 月明りがないので暗い夜だった。街灯がぽつぽつあるなか歩いていると、どこかで咲いている沈丁花じんちょうげの花の香りとともに背後から足音が聞こえてくる。なんせ初めてのセクハラを受けたばかりの上、密偵もどきの事をしているから注意深くなっていた。


 社宅の階段のすぐ近くになってから振り向き、


「誰?」と鋭く聞いた。遼は自分の顔がひきつるのがわかった。


「怖がらせてごめん、ちゃんと帰れるか心配で…」と言って暗闇からのっそり出てきたのは朱音だった。




「入って」とドアを開けながら遼は言った。


「いいのか?」


 入口で遠慮がちに立ち止まる朱音を、


「会社の誰かに見られると困る、入って」と遼がせかした。ここには最上化成の独身社員が多く住んでいるのだ。


「…お邪魔します」


 彼は新しい家に来た猫のようにもじもじしながらも、靴を脱いで遼の部屋に入った。遼が2人かけの新しいローソファーに座るよう促したのでちょこんと端に座る。4月なのにこたつもあった。


(あの恋人と座ったり寝るために買ったのだろうか?)


 朱音は座りながら想像して少し苦い表情をした。いつも通りの無表情の遼は、キッチンでお湯を沸かしてコーヒーの準備をしている。


「で、なんで九州にまだいるの?」とコーヒーを出しながら遼は聞いた。


「昨日おまえと変な別れ方したから気になって…有休取った」


 二人は昨日、昼休憩が終わるまで階段でずっと抱き合っていた。


…確かに。心配かけてごめんなさい、あれはどう考えても私が悪かった。謝ります」


「違う、そんなこと…」


「それより、私シャワー浴びたいんだけど、先入る?」と言いかけた朱音に遼がかぶせた。さっき支社長に髪やら腰やら触られた感触が残っていて気持ち悪かったので洗い流したかった。


「え?いや、いいよ、オレは駅前のホテルに帰るから…」


「さっきは助けてくれて本当にありがとう。お礼に、ソファーで良かったら泊っていって。今からホテルに帰るのにこんな団地でタクシー拾うの大変でしょ?明日は休みだし朝ご飯くらい作るよ」


 遼が何でもないように言った。時刻はもう深夜の12時半を越えていた。




『いいのか、オレ…』と自問自答しながら、朱音はシャワーを浴びている。全く男として警戒されてない、というのも悲しかった。


「タオルと着替えと下着、ここに置いておくね」と言う遼の影にビクっとする。


「あ、ありがと…」


(着替え…彼氏用か?)


 あまり着たくはないな、と思いつつも、珍しく人を殴ったせいで汗をかいたので着がえたかった。支社長が遼の身体に手を回した瞬間、朱音の身体が勝手に動いて殴っていた。


『やつがシロなら、バレた時は懲戒免職かな…』


 用意された新品の下着はMサイズでぴったりだった。ワンサイズ大きめのグレーのスエット上下を着て洗面所をおずおずと出たら、遼はソファーでぐっすり寝ていた。

 飲み会で頑張ってぎこちなく笑っている遼の姿をこっそり見ていたが、毎日無理をしているのだろう。


 彼女の側に腰を下ろし、至近距離で観察する。普段は直視できないが寝ている今ならいくらでも見ていられた。

 なんだか本当に綺麗になっていた。だから支店長に目をつけられてしまったのだろう。それとも、内偵者として怪しまれているか…どっちにしろ心配には変わりなかった。


「おい、こんなになっちゃって…大丈夫かよ…遼…」


 髪の毛はカーラーで巻いているのか、清楚な程度に少しだけうねらせている。バレッタで少しだけ両サイドの髪をとってネックレスと小さな顔を隠さないようしているようだ。

 化粧も九州バージョンにしていて、濃い紫のアイライナーに、なんとつけまつげが目の端だけに施してある。可愛すぎないように工夫しているのだろう。唇は明るいベージュで健康的だ。


(全くもって遼らしくない。でもその『遼らしさ』は願望だ)


「化粧落としてねーし…仕方ないな」


 朱音は机の横に置いてある小さな化粧道具ケースの中からやっぱりあった『化粧落としシート』を一枚出し、遼の前髪を左手で抑えながら右手でシートを額からゆっくり滑らせた。大学で女装をした経験が役に立つとは…。つけまつげを器用にはがし、寝るのに痛そうだったので後頭部のバレッタも取った。


(これでもしないよりはマシだろ…)


 シートの面を変えて、細かい部分と唇を最後にふき取る。意外と角度があって難しい。


「自分の顔だとうまくできるんだけどのぅ」と無意識に出た大野弁でぶつぶつ言いながら、ふと彼女の唇の感触を思い出して手を止めた。


「なぁ、あのキスはなんだったんだ?それに昨日泣いた理由もオレにはわからないんだ、教えてくれよ」


 シートをゴミ箱に捨て、自分の指の腹で彼女の唇をなぞると、き立ての餅みたいに弾力がある。


 ふいに彼女が彼の指を少し吸ったので身体に電気が流れたようになり、「うっ」と声が出た。


「これは…あかんのぉ」


 彼の頭の回線は今にも吹っ飛びそうだった。




「ひぇっ?」


 目を覚ますとこたつの横に敷いてある布団で背中合わせに朱音と寝ていたので驚いて声が出た。


 とはいっても肌が触れないようにクッションが間に二個も挟んである。そのせいで彼の身体には掛け布団がほんの少しかかっているだけだ。

 そういえばソファで寝るにしても掛け布団がないではないか…どうしても朱音に側にいて欲しくて無理を言ってしまった。考えが及ばなかったのを反省する。


(しかし、このクッション…。慎重にも程がある。別に疑わないのに…)


 彼が遼をなんとも思っていないことはよくわかっていた。そして遼が彼をまた好きになっていることも。


(九州の慣れない業務に加え、昔私を振ったからって可哀想に思って心配しているのだろう…でもここまでされると誤解しちゃうから困る…)


 遼はまだよく寝ている彼にちゃんと布団をかけた。小さく縮こまって横を向いている身体の向きを上に向け、起きないのを確かめてから冷えた彼の身体にくっついた。


(こんなに冷たくなって…本当にお人好しだ)


 自分の温かさを分けるように彼の身体に手を回すと、彼は無意識に彼女のほうを向き、ぎゅっと筋肉質な腕で抱き寄せた。身体が密着し、一昨日おとついに会社の階段で抱きしめられた時と同じ様に彼の匂いでくらくらしておかしくなりそうな自分を感じる。


(恋人にはいつもこんなふうにしているのだろうか。モテるって営業の人たちが言ってたから、やっぱり馴れてるんだ…)


 そう思ったらなんだか悔しくて仕方なかったので、彼女は、罪悪感を感じながらも彼の唇に自分の震える唇をゆっくりぎこちなく重ねた。今、目を覚まされたら昨日の支社長のセクハラどころじゃない。どうかもう少しだけ目を覚ましませんように、と祈りながら。




「おはよ、昨日は布団が一枚で寒かったでしょ?ごめん、引き留めてかえって悪かった。風邪ひいてない?」


 朱音がのっそりと冬眠明けの熊のように起きたので、遼は朝ご飯の用意をしながら聞いた。

 ご飯をよそって雑魚じゃこをかけ、りゴマを散らす。出汁巻き卵に豆腐と揚げのみそ汁にアジの干物を焼いて半分コにした。大きい方をそっと朱音の皿に移す。


「おお…遼って、やっぱちゃんと作るんだな。田舎のばあちゃんのようだ…揚げの入ったみそ汁、嬉しい。オレ揚げ好きなんだ」


 彼が嬉しそうに笑うと遼の身体が熱くなる。彼女は照れながら、


「作るって大げさな、簡単なものしかない。さ、食べよ」とこたつ机に誘った。


「おう」


 恋人でもないのに向かい合って朝食を食べるのは恥ずかしくて仕方ない。これは初めての二人の朝などに感じるものだろう。


「なんか照れるな」と朱音も言う。本当にそうだった。


 でも遼はこっそり朱音の唇を奪ったせいで、彼の唇が気になってしまい、顔を見られなかった。




「で、今日はどうする予定?」と食事の後シャワーを浴びて頬を上気させた遼が聞くと、朱音は目をそらした。


 薄い部屋着で無防備に濡れた髪を乾かすすっぴんの遼を見ていると平穏ではいられない。


「なあ、せっかくだしどっか観光に行かないか?遼が付き合ってくれるなら、今日はゆっくりして、明日東京に帰るよ」


 朱音は思い切って誘ってみた。


 彼は自分が酷く嫌われていると思っていたが、会社で抱きしめた時も本気で嫌がられてはいないのかもと感じたし、何と言っても昨夜ここに泊まらせてもらえたのだ、少しは望みがあるのかもしれない、と思い始めていた。

 3年前もそうだったが、彼女の事が好き過ぎておびえてしまい、聞かなくてはならないことを聞けないでいる。この週末で何かを変えられるかもしれないと希望を感じていた。


 彼女は何か予定があったのか珍しく少し迷っていたが、


「そうね、ちょっと気分転換したい。でも朱音は大丈夫?」と少し赤くなって何かを心配した。


「大丈夫って何が?」


「…彼女とか…昨夜うちに泊ったから誤解されないかな?」


『なっ!オレ彼女いないよ?!おまえと別れてからずっと…』と朱音が焦って言おうとしたら、遼の電話が鳴った。


「あ、孝だ、昨夜電話するの忘れてた。ちょっとごめん…」


「…うん」


 大事なとこでいつも邪魔が入る。でも嬉しそうにしながら弟たちと話す遼を見ていると、出かけるお誘いにOKがもらえたことに嬉しくなってきた。


(デートなんて久しぶりだな…)


 ソファに座って携帯でデートスポットを検索しつつ、遼のすっぴんの写真をこっそり撮る。

 会社でのあの綺麗になって頑張って笑顔を作る遼もいじらしくて胸がときめくが、今ここにいる彼女がやっぱり好きだった。

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