第11話 泪月

 3月の最終日、遼と山本は福岡の北九州市の空港に着いた。東京から飛行機で1時間40分程、少し寝ると着いてしまう。


 社宅は会社からほど近い場所にある。そこに荷物を置き、北九州市にある九州支社に挨拶に向かった。九州支社もその秘書課も明るくてパワフルで、遼は良い環境そうだと少しホッとしている。

 秘書課の主任は岩井という40代初めくらいのスポーツマン風のガッチリした体格の女性だ。キビキビしていて芯が強そうに見える。

 彼女に連れられて、隣の支社長の部屋に入ると、背の高い目鼻立ちのはっきりしたハンサムな男性がすっと立ち上がった。フットワークが軽そうで高級なスーツが良く似合う。


 九州支社長兼副社長の最上敏夫もがみとしお。ミカの姉の夫だ。


 遼が着任の挨拶すると柔和な表情を向ける。50代前半だろうか、明らかに女性にモテそうだ。


 彼が遼のターゲットだった。




 午後からは最小限の生活用品を整えた。

 とりあえず小さな冷蔵庫とレンジとトースター、最低限の調理用具と食器は社宅に備え付けてあるので、食料品が欲しい。山本が仕事が終わってから買い出しを手伝ってくれたので助かった。

 事前に送ってあった布団やパソコン、こたつ机を設置する。これだけでどうかしたら落ち着く。疲れて少し休憩にすると、久しぶりに一人きりなんだと実感する。実の両親が亡くなった時以来だった。

 山田の家に引き取られてからはいつも誰かが側にいて遼の心を温めてくれていた。


 自分はとても幸せだ。遼は一人になって余計にそう感じていた。




 九州支社は気風がさっぱりしていて、黙りがちな遼にも皆気さくに声をかけてくれる。そのたびに慣れない笑顔で応答する。それはそれでとても疲れるのだが、内偵と言う役割上、情報収集はかかせない。


 支社に転勤して数日後、食堂で隣に誰かが座った。顔を見ると朱音で遼はびっくりした。


「あ、朱音!仕事?」


「当たり前だろ。で、元気か?」と言いながら、遼の紺のパンツスーツ姿を頭のてっぺんから靴先までチェックした。中には白いブラウスだ。


「な、なに?ヘン?」


 飛行機で山本から朱音の話を聞いてからというもの、彼の事を考えることが増えていた。それを見透かされたようでドキッとした。


「いや…食べようか」


 朱音は目を逸らし、手を合わせて、定食を食べ始めた。


「そうだね。頂きます」


 遼は朱音のたまにちらりと自分に向ける視線が気になって仕方なかった。


(嫌だな、山本さんの言葉のせいで意識してる…。多分ミカさんに報告するために様子を見てるだけだろう)


 二人がなんとなく無言でいると、わらわらと朱音の事を知ってる営業マンが寄って来て周りに座る。


「おうおう、澤井、山田さんにさっそく声かけてんじゃねーよ」「意外と手がはえーな」などとからかう。


(弱った、2人が繋がってるとは思われては困る)


「いえ、本社でたまにお見かけしていたので、偶然会ったこちらで声をかけてもらっただけです…」と遼が説明した。それを受けて、


「そうそう、山田さんは彼氏いるしね。オレは獲物は追わない主義」とにこやかに朱音が言った。


「そんな感じだよな、澤井って」「モテるから追わなくていいだけだろ、いいよなー」と営業マン同士で話が盛り上がる。


 遼は場の空気とは反対に一気に気持ちが冷えて底まで落ちていくのを感じていた。食欲はもうなかったが代わりに涙がこぼれそうだった。


(私、『無駄』って朱音の言葉に過剰に反応してる。山本さんの言葉で浮かれて忘れてたけど、私は朱音の『そんなこと』であり『無駄』だったのを忘れてた…)


「私お先に失礼します。岩井さんに呼ばれていますので」


 遼がトレイを持って急に立ち上がった。


「はーい」「お疲れ様」


「え、山田さん?ちょっと待って…」と言って立とうとする朱音を周りの男が抑えた。


「なんだ、離せよ…」と言う朱音に、言葉が浴びせられた。


「おまえさ、山田さん泣きそうだったの知らないの?」「もう、なんなの、おまえら…アオハルかよ」「彼女、目に涙貯めて我慢してたぜ。泣かしてんじゃねー」


 困惑しつつも朱音は男どもを振り切って食堂を急いで出た。




(遼…どこだ?エレベーターにもう乗ったか?いや、泣いてたって言ってたから…)


 もしやと思い、朱音はエレベーター横の階段を登り始めた。案の定、2階と3階の間で遼が階段の隅に座ってうずくまっていた。


(本当だったんだ…。でもなんで?)


「遼…ごめん。オレ、気に障ること言ったんだよな…?」


 少し下の段から朱音が小さく声をかけると、遼は驚いて顔をあげ、涙を貯めた目のまま階段を駆け上がろうとした。朱音が素早く腕を掴むと、彼女の身体がビクッとした。


(やっぱり嫌がられてる…)


「待て、って」と気弱に朱音が言うと、


「これは朱音のせいじゃないから、あっちに行ってて…触らないで」と遼が空いた片腕で顔を隠して小さく言った。


(細い腕、すぐに折れそうだ。でも理由を聞かずに放すわけにはいかないじゃねーか)


「なんで、泣くんだよ…」


「…」


 彼は遼を怯えさせないように少しずつ距離を縮め、彼女の細い身体を抱きしめた。柔らかくて温かい。自分がずっとこうしたかったんだと気が付いた。


「放して、誰かに見られたら…」


 遼は彼の腕の中、強張らせた身体でもがいた。

 朱音は自分が嫌われていると思うと余計に抱きしめる腕に力が入った。もう二度とこんな機会はないかもしれないのだ。


「困る?見られたら困る相手でもいるのか?」

 

 嫉妬を込めて聞いてしまい、朱音はしまったと思ったが、遼は全く気が付いていないようで、


「仲間だと思われると困るから」と俯いて答えた。


「いいよ…オレは困らない」


「私が嫌なの。放して」


「じゃあ、なんで泣いたのか教えてくれたら放す」


 遼はしばらく黙ってから諦めて、彼を見上げ、答えた。


「…朱音が私の事を『無駄』って言ったのが…ちょっとショックだっただけ。慣れない環境に疲れてるから少し弱ってる。朱音に悪気がないってわかってるから、放してくれる?」


 上目遣いで涙を貯めて小さく言う遼に心を撃ち抜かれ、朱音はますます彼女を放せなくなり強く抱きしめた。

 彼女の身体から少しずつ力が抜け、彼にもたれかかるのがわかった。




 朱音が支社に来た次の日、秘書課で遼の歓迎会が行われた。近くの居酒屋で集まると、金曜日なので他のテーブルも人でいっぱいだった。

 遼たちのテーブルには所狭しと食べ物が並べられている。遼は北九州の食べ物が大好きになっており、秘書課の誰かに誘われては毎晩のように美味しいものを食べ歩いていた。東京の遼では考えられない。


 もちもちの麺が嬉しい焼うどん、香ばしいチーズの香りが漂う焼きカレー、あっさりスープの味が優しいちゃんぽん、クレープのように可愛い見かけの焼きそばだけど美味しさ抜群のぺったん若松焼、昔から工場地帯の肉体労働を支えてきたスタミナ源の八幡ぎょうざ、かまぼこをパンで巻いて揚げてあるおしゃれなカナッペ。

 

(こんなに量があると〆のクリーミーな豚骨スープが魅力の北九州ラーメンにたどり着けるか心配だな…)


 遼の心配をよそに「では、山田さんの着任を祝って…乾杯!」と岩井さんが音頭を取った。ジョッキのあおり方が男らしい。よく見るとみなも負けない勢いでぐいぐい飲んでいる。

 シングルマザーが半数を閉めるこの課はどうも可愛らしさよりカッコよさが勝っているようだ。どちらかというと遼にはこっちの方が居心地がいい。遼があまり話さなくてもちゃんと真面目に仕事をしていれば、暗くても『そういう人だ』という風に受け入れてくれている。


 遼はお酒をちびりちびりと飲んでいると、


「ねえ、山田さんって恋人居るんだって?結婚するの?」と同い年の佐久田さくたに聞かれた。明るくてさっぱりした性格の彼女とは何度か夜ご飯を食べに行っている。


「いえ、恋人は…」


 いませんと正直に言いそうになってから、弟の孝からいるって言っとけと言われていたのを思い出した。


「…東京に、いますが、結婚は考えていません」


「えー、そのネックレスと指輪を貰っておいて結婚しないなんて、ありえないでしょ?」と少し年上の東出あずまでが言い、全員で討論が始まった。


 遼は我先に意見を言う皆がアグレッシブ過ぎて付いていけず、でも面白いのでその話の流れを見つめていた。まあ、遼には何か言えるほどの経験も意見も全くない。


(なるほど、アクセサリーとは女性と男性にとってそういう役割なのか…)


 遼は初めて知った。




 ずいぶん飲んだ頃、

「おいおい、ちょっと僕も入らせてもらえるかな」と最上支社長がふらりと途中参加した。いつものことなのか、岩井が嬉しそうに最上を隣に誘った。


 遼は慣れていないせいか場の雰囲気に違和感を覚えた。でもそれは段々確信に変わっていった。やけに二人の密着度が高い、高過ぎる。


(最上支社長と岩井さんって…)


 周りを見ると、2人を前に平然としてお酒を飲んでいる。どうも公認の仲の様だった。余りにショックでジョッキを持つ手に汗がにじんだ。



 遼は洗面所で手を洗いながら、ぼんやりと鏡をみた。お酒もあって少し混乱していた。

 支社長はミカの姉の夫で、岩井さんはシングルマザー。二人の関係はオープン…?

 なぜ会社の飲み会でそんなことが出来るのか…全く理解できなかった。きっとユカもミカも知っているのだろう。もちろん彼の妻も。


「大丈夫かい?」


 気が付くと、真後ろに最上支社長が立っていて、遼を覆うようにぴったりくっついて一緒に鏡を見ていた。


「は、はい…あの…」


「君が気になるのは岩井クンだろ?お互い遊びだからいいんだよ、君は気にするな。それとも、山田クンも僕と遊びたい、とか…?」と言いながら、遼の首に指をわせた。あまりに気持ちが悪いので彼女は飛び上がった。退路が塞がれているので逃げられない。


(もしや、内偵がばれてる?)


「ひゃっ…どいて下さい…」


「山田クンはとても上品だね…見てるんだよ。特にこの髪の毛と目がいい」


 最上は遼の髪をべたべた触ってから、両手を腰に置いた。


「思ったより細いな…もっと太らないと、立派な子が産めないぞ…」と言った瞬間、最上が遼の視界から消えた。

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