第13話 桜月
遼は電話で弟たちと話しながらも、口角が上がるのを抑えるのが大変だった。弟とニヤニヤしながら話すなんて、おかしな人だと朱音に思われてしまう。
(今日はどこに行くんだろう?)
以前朱音と付き合った時は同期の集まりが毎週末にあり、あまりデートらしいことが出来なかった。もちろん遼はめったに参加しなかったし付き合っていることは内緒だった。
弟以外の男性と二人でおでかけは遼にとっては未知の世界だ。
そんなことを考えながら話していたら、勘のいい孝が、
「ねえちゃん、そこに誰かいるの?」と聞いてきた。
(な、なんでわかるんだ?)
「あのイタリアンにいた男だろ?昔ねえちゃんが付き合ってたっていう」と重ねて言い当てた。
遼が驚きで口ごもると、孝の後ろで忠が、
「あいつそこにいるのかよ?!おい、ねえちゃん、澤井と付き合ってんのか?」と騒いでるようだった。
「心配しなくてもそういう関係じゃないから大丈夫。忠にもそう言っておいて。信と誠にはちゃんとご飯を食べるように言っておいてくれる?じゃ、また電話する」
遼は電話を切った。朱音は複雑な表情でそれを聞いていた。
朱音がレンタカーを手配し、二人は北九州市の観光に出かけた。
遼は鎖骨が綺麗に見える白いブラウスに明るいカーキ色のワイドパンツ、ベージュのロングカーディガンを着ていて、とても春っぽい。朱音はジーンズに白いシャツ、ネイビーのトレンチコートを着ている。もちろん遼の服は孝が選んでくれたものだった。
二人は400年以上前に造られたという小倉城を訪れた。天守閣の形が独特で面白い。この城の歴史などの書いてあるパンフレットを読みながら雰囲気のある石畳を歩いた。
300本もの見事な桜が咲き誇っている。城には必要ないものだから、近年に植えられたのであろうが、大昔からあったかのような堀や石垣になじむ風景になっている。白い城にピンクの桜、黒い瓦と桜の幹の対比が美しい。二人が見上げると満開の桜の隙間から空の青が見えた。
『
空気に春を感じる。遼は大量の桜を見て中学の教科書に載っていた唐の詩人、李白の詩を思い出した。
「朱音は城が好きなんだ」
彼がパンフレットや但し書きを熱心に読むので遼は驚いて聞いた。そういうタイプじゃないと勝手に思っていたのだ。ちなみに遼の弟の忠は大の城好きなので、行動が似ている。
「…オレ、歴史が好きなんだ。でも誰にも言ってないからいつも一人で来る。暗いやつって思われるのが嫌だからな」
「暗い?そんなことない、歴史は大切な人類の記憶だ。仕事の役にも立つ。そもそも趣味なら人に何か言われる筋合いはない」
まともな趣味がない遼は
仕方なく始めたとはいえ、ハッキングなんて若い女性にはあるまじき趣味だし、人にはとても言いにくい。弟たちと友人にはパソコンが趣味だとぼんやりと言ってあるが。
「遼ならそう言うだろうと思ってた。オレさ、小さなころから他人の目が気になって仕方ないんだ。オレといて楽しいかな、オレのことどう思ってるかな、って気になって相手の反応を探って伺ってばかりで人といても楽しめない。かといって人と一緒に居ないと周りからの視線が気になるんだ。
でも、遼は全然他人の事気にしないだろ?オレのなかですごいブレークスルーっていうか、話してたらすかっとして。俺みたいにその場しのぎの相手を楽しませるための技術も、人に気に入られようとするあざとい企みも、何もない。そんな遼といるのがすごく楽で、嬉しくて楽しくて…って、ごめん、変な話した」
自分が話し過ぎたと思ったのか、朱音は急にそっぽを向いて話を止めた。
「…いいよ、聞かせて。私、朱音のそういう話、付き合っているとき全然聞いてあげてない。以前、『目の前にいる人を愛する』って朱音が教えてくれたよね。人の事をよく見て、相手の望むことを推測する、ってとても大事だと秘書課でも学んだ。朱音と華さんのおかげ。それが自然にできる朱音はとても愛情深いってことだ。私にはいいとこなんて全然ない、ロボットみたいだ」と遼が自嘲した。
クラッキングロボ。全く笑えないな、と遼は思う。
「バカだな、遼にいいとこがないわけない。言ってやろうか?」と朱音が立ち止まって彼女の目を見て聞いた。
遼は彼の
昼は城の周りの公園や港の古い町並みをのんびりと観光し、夜は評判の店で北九州ラーメンを食べてから、皿倉山にある九州随一の展望台で夜景を眺めた。
微妙な距離を空けて二人は椅子に座った。恋人でも友達でもない。
周りはぴとりとくっつくカップルだらけだ。
彼らの会社の工場の灯りもこの素晴らしい光景の一部だと思うと、感慨深く遼は眺める。彼らはそこで朱音の育った福井の大野市にある越前大野城の話、昔ながらのお店や建物、看板が並ぶ城下町の街並み、冬の大雪で家にこもるときの過ごし方を話した。
彼の故郷の話は初めてで、遼はなんだか彼と近しくなれた気がして嬉しく感じていた。そして、きっと可愛かったろう彼の子供の頃を想像した。
ふいに朱音が
「遼…、九州はどうだ?」
「うん、皆優しくて、おおらかかで…私は好きだ」
「そうか…えっと、き、気になる男はいないのか?」と言いにくそうに彼は聞いた。
「いない」
彼女が支社に潜り込んで1週間が経った。
与えられた仕事を速攻で片付け、めぼしい社員のPCに侵入してるが、あのメールに添付されていた資料は見当たらなかった。
あと可能性があるとしたら…支社長の部屋の奥にあるネットに繋げていないPCだ。データを何とかコピーしたいとずっと様子を伺っているのだが、彼はその部屋にいない時はPCを持ち歩いているので機会がなかった。
「危ない事してるんだろ…大丈夫なのか?あのセクハラ支社長もまともに見えてすごくおかしいし、誰が仲間かもわからない。危ないしもう本社に帰ってこないか?」
「…朱音には関係ない、この件に関わらないって約束したはず」と遼にきっぱり言われて朱音は予想以上に傷付いたが、ひるまなかった。
「どこまで探ってるんだよ、
朱音は遼に穴が空くほどじっと見た。遼も負けずに見返していたが、キリがないので大きくため息を付いて目を
「もう帰りましょうか。うちには布団もないですし、まだ時間が早いから今夜はホテルに泊まって下さい」と遼が無表情になって言った。
(またやっちまった…)
無言の車内で朱音は激しく後悔した。せっかくの雪解けムードは一変し、氷の世界に舞い戻ったかのようだった。遼は隣の助手席で硬い表情を崩さない。そうこうする間に社宅に着いた。
「送ってくれてありがとうございます、今日は楽しかった。気を付けて帰って下さい」と社宅の前で頭を下げ、振り返りもせずに建物に彼女が吸い込まれたあとも、朱音はいつまでもそこで遼の残像を見ていた。
窓から覗くと彼の車が見えた。別れて30分は経っているのに彼はまだいる。
「あー、もう!」と思わず大きな声が出た。遼にこんな大きな声を出させるのは朱音だけだ。
彼にだけはこの件に関わって欲しくなかった。この件を片付ければ誰かの恨みを買うだろう。それを将来のある彼に負わせるわけにはいかない。
山本には悪いが、朱音は他人の悪意に弱いのを遼は感じていた。
それに、彼女が彼を大切に思っていることは絶対に言いたくなかった。相手にとっては捨てた過去の恋人からの迷惑過ぎる一方的な想いだ。朱音にはもう彼女がいるのかもしれないし、そうでなくても嫌なのだ。
彼女はもう一度確認したが、彼の車はまだ駐車場にある。
(4月の夜は寒いし風邪を引きそうだな…)
「…もうっ!」
彼女は一枚上にパーカーを羽織って靴を履き、部屋から出た。彼は自分に同情してるか心配しているだけだとわかっているのに、また彼に会えると心が浮き立っている自分を愚かしく感じながら。
部屋を出て階段を降りながら、弟が
雲一つない空には半分の月が東の空に瞬いていた。バカな自分を笑っているような月を見ながら、彼女は携帯用小型ライトを点灯させて、駐車場に戻った。彼が運転席で丸まって寝ているのを確認してほっとする。男の子ってみんなこんな風なのだろうか…?世の親はみな大変だな、としみじみ思った。
「さ、入って」
「お邪魔します…」
とてつもなく気まずいが仕方ない。泊まれと言ったのは遼だった。
「先にシャワー浴びてきて」と彼女が言うと、朱音が目を見開いて赤くなった。
(なんで赤くなる?!私が誘ったみたいな雰囲気になってるのか?)
「なっ、そういうんじゃなくてっ…」と遼も赤くなって少し怒ると、
「あ、そうだよな、ごめん。ちょっとぼうっとしてた。ありがと、先にもらう」と朱音は少し慣れた動作で洗面所に入っていった。
(しかし…だ。困った、布団がない)
昨夜のように彼となら一緒の布団に寝るのは大丈夫だとしても、どうも布団の面積が足りない。
くっついて寝る?背中合わせならなんとか…そうだ、こたつ布団を使ってソファーで寝ればいいか。
いろいろ考えながら部屋を片付ける。ものが少ないからあっという間だ。さらっと掃除機をかけたら朱音が出てきた。
「先にごめん」
「いいよ、泊まってと言ったのは私だし。私こそ、帰れなんて言ってごめん」と言いながら暖かいコーヒーを机に出した。
「いや…あのさ…」
「テレビとかないけど、良かったらパソコン使って見てて。私もシャワー浴びてくる」
遼は彼の言葉の続きを聞きたくなかった。争いごとや言い合いは苦手だ。
シャワーから遼が出ると、朱音がパソコンでニュースを見ていた。もちろん、SDカードに入った資料はパソコンには落とさず、見つけられない場所に隠してある。
「テレビ、見れるよ」
「うん…」
遼は彼と自分の為にまたコーヒーを入れる。
「どうぞ」
「ありがと」
遼はいそいそとこたつに入って化粧水と乳液を付けた。朱音も寒さを感じてパソコンの前を離れた。
朱音は遼がいない間に調べたが、データは見つけられなかった。
(それにしてもあのパソコン…普通のOLが持つにしてはスペックが高すぎる)
『このパソコンでいつも何してるの?』と遼に聞きたかったが、出てきた言葉は「まだこたつなんだな」だった。
「うん、手足が冷えるから」と遼が少し悲し気に言った。まるで冷えるのは自分の健康管理が悪い、と言いたげだ。
彼がこたつに入ると中で二人の足が当たった。遼が一瞬びくっとするが、ひっこめない。触れている二人の足の部分が熱くなった。
「温かいよ」
「…さっきシャワー浴びたばかりだから」
「そっか…」
彼は手を伸ばして遼のほっそりした柔らかい手をとった。指には輪っかがはまっていて、『おまえとはそういう関係じゃないんだ、わかってるのか』と彼にクールに告げていた。
彼女がいつもそれをつけていると思うと彼のなかの得体のしれない嫌な臭いのするもやもやが増幅される。それはきっと嫉妬だった。
「温かい」
「ええ、さっきシャワー浴びたばかり…」
朱音は遼の手を引っ張り、上半身を強引に引き寄せて遼にキスした。
『彼とはそういう関係じゃない』と弟に電話で言う彼女の声がまた頭に響いた。
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