第14話 馥郁の月
彼女のしなやかな身体が動くたびに優しいプルメリアの香りがした。
服を脱いでも着けたままのネックレスと指輪が彼を猛烈に
すんなり彼を受け入れる彼女の様子も彼を不安に落とし、欲望を加速させた。
彼女を自分のものにしたらもう『関係ない』なんて言わせないと思っていた。でも目的と結果がすでに入れ替わり、彼は前と変わらぬ初々しさを残す彼女の身体に没頭した。
何度も何度も彼は彼女の中に入り、遼が朱音を感じている声が耳に入るたびに彼のは大きく固くなった。
朱音が起きるとすでに布団の隣には誰も居なくて、ぬくもりも残っていなかった。台所では遼が昨日と同じく朝ごはんを作っていた。
トーストした山形の超熟パンと目玉焼きと厚く切ったベーコン、インスタントのコンソメスープとトマトサラダ。小さな器にヨーグルトと少しだけジャムが入っている。
「…おはよ」
朱音が遠慮がちに挨拶する。
「おはよう。丁度出来たとこ、座って」と遼は朱音の顔も見ずに棒読みで言った。
「…ありがとう、頂きます」とこたつに入って向かい合わせで手を合わせる。昨日の朝の甘い雰囲気はこれっぽちもなく、昨夜のことがウソか幻みたいに思えてくる。
(そうだよな、オレの感情でした身勝手なセックスでオレに幻滅してるんだろうな…今度こそ心底嫌われてしまった…)
「美味しい…」
「良かった」
その平坦なやり取りの後、彼らは無言で朝食を食べた。
『オレを泊めたこと、後悔してるのか?』と朱音は聞きたかったが、聞けなかった。『してる』とあっさり言われそうで、背筋がぞっとする。昨夜の彼女の感触を思い出すと胸がいっぱいになるのに。
朱音がためらう理由ははっきりしていた。
(オレたちは付き合ってない。それに、彼女には彼氏がいる。昨夜のコトは結婚前の最後の気まぐれかもしれない…)
その証拠に彼女はずっと行為の
彼は負けたのだ。
「ミカさんと山本さんに宜しくお伝え下さい。また連絡します」と彼女は別れ際に言った。
でも彼女からの連絡はどれだけ待っても来なかった。
それから10日ほど経った朝イチに、「えっ…ダメですって、ちょっと…」と動じない山本が電話で頓狂な声を出したので朱音は駆け寄った。遼からの連絡に違いなかった。
「なんだよ?」
「い、いえ、何でもないです」と山本が眼を泳がせる。
また『関係ない』と言われた気がして朱音はカッとなった。
「なくねーよ、教えろって言ってんだろ!」
それでも山本は頑として教えずに朱音を無視し、ミカに報告に向かった。周りは温厚な朱音の変貌にざわめいていた。
山本がミカと個室で相談している。
漏れ聞こえる二人の声に緊張があった。
「ちょっとまずいな…山本、悪いけどすぐに九州に飛んでくれないか?」
「はい、もちろんです」
部屋から出てきた大男に朱音はくっついて噛みつくように聞いた。山本の顔が引きつっている。
「ミカさんのあんな声、初めて聞いた。何があった?」
「ちょっと…離して下さい、俺マジで急いでるんです」
山本が心底迷惑そうに言ったので朱音は余計に腹が立った。
「じゃあ話せよ」
一瞬迷いがあったが、すぐに、
「嫌です」と山本ははっきり言った。
カッとなって思わず殴りかかろうとする朱音を、堀たち周りにいたものが必死で抑えた。山本はその隙にさっさと出かける準備をしている。
騒ぎを聞きつけてきたミカが彼を個室に引きずるように連れて行った。山本が逃げるように部屋を出て行くのが見えて、朱音は奥歯をぎゅっと噛み締めた。
「…おまえは冷静になれ、山本が向かったから大丈夫だ。ああ見えて切れる男だ。なあ、なんで山田がおまえを外すよう私に頼んだかわかってるのか?あいつは軽い対人恐怖症の上に身なりにも頓着がない。そんな秘書課に一番不適合な彼女がしんどいことをなんでしてるのか、ちゃんと考えたことあるのか?」
ミカは大層な不機嫌さで朱音に質問した。でも朱音は彼女に負けないほど不機嫌そうに答えた。
「会社が好きだからでしょ…そんなことわかってます…」
「情けない…だからおまえはバカなんだ!」とミカは怒りのあまりそこらにあった書類を丸めて朱音の頬を思い切り叩いた。
怒鳴り声と、バコン、という音が部屋の外まで響いて、営業一課がざわめいた。ミカは普段激高するような人間ではない。
「…じゃあなんでですか?オレはあいつのことが心配で仕方ないんです、今すぐに行きます!」と朱音は赤くなった頬もそのままに部屋から出ようとした。
ミカが大きくため息をつく。
「東京でじっとしてる、っていうなら教えてやる。口外しないと約束できるか?私も山田だけは敵に回したくない」
「わかりました」
(『山田だけは敵に回したくない』?遼には何かがあるのか…)
朱音は息を飲んで上司を見つめた。
「おまえを今回の事件の後にできる恨みの対象にするのは会社の将来の為にならないからだとあいつは言ってた。でもな、本当はもっと単純で、遼はおまえに惚れてるんだよ。あいつの気持ちがちびっとでも理解できるならここで大人しく仕事してろ、バカ者」
そう嫌そうに言った上司との約束をあっさり破り捨て、朱音は会社を飛び出した。彼は空港に向かった。
「先輩…なんでここに?」
山本は空港の搭乗待合に走って来た朱音を見て目を丸くした。
「今日は休みだ、どこに行こうとオレの勝手だろ?」と子供のように口を尖らせて威張る朱音に山本は呆れて「ぷっ」と噴き出した。
「二人とも素直じゃないとこはそっくりですね。性格は正反対なのに」
遼の事を言っているに違いなかった。
「なんでおまえはそんなに遼の事がわかるんだよ?」
「だって、山田さんは澤井先輩が現れてからは先輩だけしか見てませんよ。それに彼女は先輩のせいでとても柔らかくなりました。俺は毎朝ずっと見てたからわかるんです。彼女が先輩を心配してこの件に関わらせたくない気持ちも…」
「でも、あいつには恋人が…」
「だから、前に誤解だと思うって言ったじゃないですか。あの指輪もネックレスのことも、ちゃんと聞いてみて下さい。先輩って営業ではおしゃべり上手の聞き出し上手のくせに、なんで遼さんには言葉足らずの変な事しか言えないんでしょうね。小学生ですか?聞いててハラハラします」と笑った。
「そ、それは…オレが遼に惚れてるからだよっ」
山本がニヤニヤ笑うところを朱音は初めて見た。
「支社長と秘書の岩井と遼さんが例の問題の工場に午後から行くそうです。岩井はおそらく支社長の仲間で、工場長はどちらかわかりません。山田さんは、あの告発メールを送ったのが工場長かそれに近い人物じゃないかと考えて人間関係やお金の流れを探っていたようです」と山本は今朝の電話内容を説明した。朱音に話すと遼に怒られるだろうが、彼女の安全の方がずっと大事だった。
「もしみんなグルなら危ない事を遼は…?」
「もちろん知ってます。でも…」
山本は苦い表情だ。
「まさか知ってて…?」
「直接会って確かめたいのと、社内ネットにつながっていない怪しいパソコンが工場にないか見たいそうです。もちろん俺はやめて欲しい、って言ったんですが、全く聞かなくて。電話もつながりませんし…」
「あいつはっ…」
化学工場は事故が起こった時のために色々仕掛けがしてある。反対にいうと、事故がおこっても不思議ではない場所、ということなのだ。
朱音は焦った。かといって早く着くわけでもなく、男二人が「スイマセン」を連発しながら大人げなく我先にと機体から降りた。
もう14時を過ぎていた。とっくに工場に3人は着いているのだろう。
(とても心配だ、嫌な予感がする。あの温和に見える支社長の目は、他人など全く愛さないし信じない冷酷なものに見えた。邪魔なものは消しかねない…)
「広い…こちらに原材料や加工された材料が運ばれて保存されるんですね」
グレーのパンツスーツに薄い空色のカットソーを着た遼は興味深々で工場長に尋ねた。
「材料の温度や性質などによっては少量ずつですがね」
工場長は天井の隅にブラックホールのようにぽっかり空いた穴を指さした。あそこから入ってくるのだろう。
スーツの遼とは正反対に、頭のてっぺんから真っ白の作業着を着た工場長は目までゴーグルをはめていて、完全防備だ。遼と工場長は二人で資材置き場にいた。初めて工場に来る遼を案内してくれている。
なるほど…とても合理的に出来ているものだ、と遼は感心しきりだ。
「いつもそんな作業着を?」
「そうです、今日は特に…あなたが来ると聞きましたから」
そう言った工場長のゴーグルの奥にある目が怪しく瞬いた。
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