番外月 ちびっ恋

「むぐぐっ…」


 今日は電車の混み具合がえげつない。2月なので皆が着ぶくれていて熱気がこもる。ひなにとっては死活問題だ。なぜなら…


「おいっ、大丈夫か?」


 気がつくとひなは床に倒れていた。電車の床が頬に当たって冷たい。

 あんなに混んでいたのにひなの回りには半径1mのエアポケットが出来上がっている。


 生理で少し貧血気味だったのだろう、ひなは恥ずかしさから真っ赤になった。


「すいません」


 ひなが立ち上がろうとすると、手が差し出された。それもミュージカルのように10本はある。しわしわのものや細いもの、分厚いものやら大きなもの。それぞれの手にもこれ程個性があるのだと見惚れてしまった。


 ひなは迷ったが、無難に一番近い手をとった。その手は大きくて、ひなの子供のように小さな手はすっぽり包まれた。


「ここに座りなさい。悪かったな、気がついてやれなくて」


 その手の持ち主は誰かが空けてくれた座席にひなを誘導した。


「いえ、もう大丈夫なんで立ってます」とひなは顔の前で手を振った。若者が年配の方を差し置いて座るわけにはいかない。実際もうめまいは治っていた。


「なに言ってんだ、子供なんだから大人に甘えていいんだ」


「こ…子供っ?!」


 ひなは身長が148センチしかないうえに童顔だ。服もとても仕事をしてる人とは思えないラフな格好をしている。でも24歳になったばかりの立派な社会人で、しかしそんなことも言えず、真っ赤になって周りに頭を下げながら席に座った。


 その男性はカバンから本を取り出し、熱心に読み始めた。きっとひなが倒れたときまで夢中で読んでいたのだろう。


 背表紙には、フンデルト・ヴァッサーとフリガナがふってある、英語でない外国の文字と、玩具みたいなカラフルで面白い形の建物の写真が載っている。ひなはさっそくそのフンデルトなるものをスマホで調べようと思ったが、ふと、元気にしているのも申し訳ないし恥ずかしいので大人しく目を閉じて俯いた。


 電車が駅につき、ひなが立ち上がろうとしたら、先程の男性も同じ駅らしく、


「医務室連れて行こうか?大丈夫?」とまた気遣いの声をかけてくれた。


「はい、大丈夫です。あの、ありがとうございます」


 ひなは頭を下げると、彼は大丈夫だと判断したのか「じゃあ気を付けてね」と言って手を振って去っていった。電車を降りる時に気が付いたが、背が高いがっちりした体格の男性だった。ラグビーとかしてそうだ。

 こんなに他人に無条件で親切にしてもらった経験のないひなは、感動で胸がいっぱいになった。そして、彼の小さくなっていく後ろ姿を見て苦しくて仕方なかった。



「で、会社に電車で倒れて遅くなるって連絡して後を追いかけたの?ひな…やるじゃん」といとこのトン子が褒めた。隣にはひなが何度も会ったことのある恋人のマキタがいた。ひなの憧れのお姉様だ。

 マキタの本名は江上祥子えがみしょうこだが、離婚した父親の牧田まきた姓があだ名になっているのでそう呼ばれている。


「ひなちゃん、エライっ!!で、その人はどこに行ったの?」とマキタが興味津々で聞いた。


「うん、駅から歩いて5分くらいにある『最上化成』っておっきなビルに入っていったの。だから、今度仕事が終わってから出口で待ち伏せようかなって…でも怖いから、トン子ちゃんに付いて来て欲しくて頼みに来たの」


 そこでマキタが反応した。


「ん…?最上?」


「聞いたことあるよねぇ…あれ、最上ってみっちゃんの会社じゃあない~?」とトン子が聞いた。


「そうそう。じゃあさ、探すの手伝ってもらえばいい」と姉らしくマキタが決定した。




「うえーん、りょーさーん…ねえちゃんに人探しを頼まれたんです」と江上が泣きついたのは金曜の夜だった。


「そうなの…可哀そうに。でもマキタ軍曹の命令は絶対服従だし、頑張って!」


 思いっきり体育会系のマキタは弟にもそれを強要している。そういうところは父にそっくりだと江上は日々苦々しく感じて生きているのだ。


「無理です、だって僕入社1年目ですよ、名前と顔が一致しないし。遼さん手伝って下さいよぅ」


 遼は少し考えてから、


「そうね、みっちゃんには年末年始に1ケ月もいなくて迷惑かけたし、協力しましょうか」と笑って答えた。



「で、その親切な人はどんな見かけなの?」


 遼と江上は、最上化成の階段下で寒さに凍えながら待ち合わせして自己紹介し合ったひなに聞いた。彼女は思った以上に可愛らしくて小さかった。高校生と言われても疑わないだろうと二人は思った。


「えっと、ラガーマンみたく大きくってがっちりした優しそうな人です。24から26歳くらいだと思います。スーツにグレーの無地のウールコートを着てました。あと…そうだ、建築系の雑誌を読んでました」


 ひなは興奮で顔が火照り、寒風など全く感じていなそうにそう答えた。


「ほー、なんか聞いたことのある人物像ですね」と江上が言うと、遼も、「確かに…」と答えた。


「あ、あの人っ…」


 ひなが遼の後ろに隠れて震える指をこっそり指したグレーのコートを着たがっちりした人物は、遼と江上を目ざとく見つけてこちらに来た。やはり二人が頭に浮かべた人物だった。




「へー、まさかひなさんの探している人が山本先輩とはね」と江上があっさり見つかった探し人に喜んでいる。これで寒い2月の暗い空の下での人探しは終了だと思うと嬉しくて仕方ない様子だ。


 4人はイタリアンレストラン、レノンでご飯を食べている。ひなのおごりだ。

 その当事者のひなはお礼を言った後、赤くなってずっと俯いたまま鳥のように少しずつピザをつまんでいる。正面にいる山本の顔をちゃんと見れないようだ。


「あんなことでお礼なんて良かったのに…子供なんだから」と山本がひなに言ったので、遼と江上が顔を見合わせた。ひなはますます顔を赤くした。


「山本さん、彼女は24歳の社会人ですよ…」


 江上が助けるように小さな声で言うと、


「えっ、いっこ下?!高校生かと思った…」と言ってから、しまった、という顔をした。




「私は朱音と会うから、お二人は一緒に帰ったら?同じ方向ですよね」と遼が勧めたので、ひなと山本は一緒の電車に乗って帰っている。降りる駅も偶然一緒だった。


「今日はごちそうさまでした。気を使わせてかえって悪かったよ。家はここから遠いの?暗いし送っていこうか?」と山本が聞くと、


「…いえ、いいんです、反対方向ですし。あの、山本さんに助けてもらって、嬉しくて、どうしてももう一度会ってお礼を言いたかったんです。ありがとうございますっ」と小さな声で言って山本の返事も待たずに風のように走り去った。


「速いな…陸上部か?」


 山本は彼女のもともと小さい身体がどんどん小さくなっていく後ろ姿を呆然と見ていた。考えてみたら、子供だと思われるのが嫌であろう彼女に『高校生だと思った』と言って失礼だったし、危ないからやっぱり送っていけばよかったなとWで後悔していた。




「へー、山本にそんなことが。オレもお世話になってるから、もし山本にその気があるなら手伝うんだけど」


 レストランの後、朱音の家でゆっくりソファーでくつろいでいる時に遼がひなの説明をした。


「そうね、朱音はお世話になってる。ひなさんは山本さんの連絡先どころか、話も恥ずかしくてできない感じの女性だから気の毒で。でも、山本さんがどう思ってるのか知りたいから、また聞いておいてくれない?」


「うーん、あいつは…」


(山本が遼の事を好きになったのもかなり時間がかかったみたいだし…そんな2回会ったくらいではなんとも思えないだろうな…不器用そうだし)


「今聞くのはまだ早くて逆効果だと思うよ」と自分の恋愛には全く疎いくせに、人の事は的確にわかる朱音がはっきり言った。


「そっかあ…とってもいい子だから、もったいないな、って」とかなり残念そうに遼が言ったので朱音が急に抱き着いた。


「うわっ、どうしたの?」


「…遼って山本のこと気に入ってるよな…まさか好きなのか?」と朱音が恥ずかしそうに聞いた。


「いい子ってひなちゃんのことだよ。もちろん山本さんもいい人だけど。バカね、朱音は」


「ふうん…」とまだ疑わしそうに遼を見ている。


「さ、お風呂に入って寝よ」

「おう」


 お風呂と聞いて満面の笑みを浮かべる朱音を見て、単純で可愛いなと遼は思うのだった。




「おはようございます、山本さん…」


 3月に入って一週間ほど経った朝の駅で、ひなは電車を待つ山本に話しかけた。紺のダッフルコートに革のリュック、柄のロングスカートにコンバースの白のスニーカーの彼女はどう見ても学生だ。


「おはよう、久しぶりだね。あれ、いつもこの電車に乗ってるんだよね?なかなか合わないから不思議だね」


「やっと学生さんが春休みだから、電車がすいたので…山本さんが乗る車両は一番混んでいるので、前みたいに乗ると大変なことに…」


 なるほど、山本は一番乗り降りに便利な車両に乗ってるが、混み具合は背の低いひなにとっては重要なのだろう。


「そうだったんだ。いつもはどこに?」


「あ、最後の車両です…」

「じゃあ、僕もそこにこれから乗ろうかな…」


「へっ…ど、とうして…?」


 ひなは真っ赤になったが、山本は全く気が付かず、


「いや、この前痴漢の冤罪えんざいに合いそうになってね…たまたま先輩の山田さんがいたから彼女の推理で本物の痴漢が見つかってお縄にならずに済んだけど、もしいなかったら…」ブルルと震える山本を見てひなは笑った。


「やだ、山本さん大きいのに可愛い…っと、すいませんっ。しかし酷い話ですね」と顔を神妙に戻したので山本もプッと噴き出した。


 二人は山本の痴漢冤罪未遂事件の話をしながら電車から降り、駅で別れた。彼は手を軽く振りながら、なんだかひなといると楽しくて、リラックスしてる自分を感じていた。


(明日もまた会えるかな…)


 足取りが軽い。最近残業続きだし体重が減ったのかもしれない、なんて山本は真面目に考えていた。



 それからというもの、二人は毎朝同じ最後尾の車両に乗って話をするようになった。


「あれ、山本、なんかいいことあった?」と営業一課の人に、朝から聞かれることが増えた。特に朱音だ。あれほど自分の恋愛に手こずったくせに、他人のことはよく見えるようだ。


「おうおう、山本さん。遼から聞いたけど今朝も一緒に電車に乗って来たって?」


 今朝のことをもう知ってるなんて、山田さんはどんなふうに俺のことを話してるんだ、と心配になる。


「はあ。でも一緒に来てるだけですよ」とけん制した。でもあまり朱音は聞いてないようだった。


「遼の友達のいとこだからな、良かったら連絡先聞いてやろうか?」とおせっかいを焼く。


(…そんなのかっこ悪い)


「いいです、自分で聞きますから」


(先輩から教えられるなんてはずかしめを受ける前に明日にでも聞いておこう)


 いつのまにかそうすると決めていた。ある意味、朱音の作戦勝ちだった。




(あれ、いない…)


 連絡先を聞こうと思ったのに、彼女は電車に現れなかった。念のため一つ遅い電車まで待ってから乗ってみたがいない。


(風邪かなんかかな…)


 そう思っていたが、彼女は次の日もその次の日も現れなかった。



(…何かあったのかもしれない…。心配だ、山田さんに聞こうかな…澤井先輩には聞きたくないし…)


「山本、おはよう!おう、どうした、足取りが重いぞ?連絡先聞いて断られたか?」


 知らないうちに肩を落っことして階段を上がっていたら、後ろから朱音が駆け上ってきて山本の背中を叩いた。今日は金曜なので、遼と週末一緒にいられることで舞い上がっているのが丸わかりだった。


(ほんと先輩って単純で羨ましい…あれ?)


 山本は遼への恋心がなくなっていることにふと気が付いた。今までなら遼と朱音が週末一緒にいると想像してチクリと小さな痛みを感じていた。朱音も山本が遼に恋してることを知っているから、気を使ってあまり二人のことは話さなかったが。


「先輩、ひなさんの連絡先、聞いてもらえませんか?電車を変えたのか病気かはわからないんですが、3日間も会えてなくて心配なんです」


「お、おう。すぐ聞く…でも意外だな、お前は意地でも自分で聞くと思ってた」


「いえ、先輩の恋愛をお世話したおかげで成長したんです、意地を張るのはバカらしいって今気が付きました」


「オレを見てそれに気が付くって…。おまえ…江上に似てきたんじゃねーか…」


 そう言いながらも、朱音は嬉しそうに遼に連絡を取っていた。ひなの連絡先が手に入るやいなや山本は電話している。


「おはようございます、山本です。電車で3日も見かけないので心配で、連絡先を山田さん伝えで聞きました…え、急な出張?ロンドン?じゃあ深夜ですよね、すいません…はい、無事だと知って安心しました。じゃあ来週電車で。おやすみなさい」


「どうだった?」とニヤニヤしながら朱音が山本に聞く。


「はあ、仕事でロンドンにいるそうです。なんかデザイン関係の仕事だって言ってましたし…」


「へーおまえもおしゃれな建築とか好きだから気が合いそうじゃん。イギリスも好きだろ?」と朱音が山本の服装を見ながら言った。


「え!先輩知ってたんですか!!」


(これは恥ずかしいな…秘密にしてたのに)


「ったりまえじゃねーか。可愛い後輩の趣味くらい知ってるんだよ」


 朱音はなぜか恥ずかしそうに横を向いてぼそりと言った。


「来週帰国するそうなんで、デートにでも誘ってみます」


「おう、オレが完ぺきなデートプランを立ててやるよ」


 朱音が先輩面して自信満々に言った。


「…」


 先輩のプランは結構です、とも言えない山本は黙り、来週ひなに会える嬉しさで身体が少し震えるのを感じた。

 ふと見上げると、階段を上がり切った花壇に植えられた彼岸ヒガン桜の薄紅色の花が満開になっていた。もう春はそこまで来ていた。

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月はコンソーシアムな僕らを見てる 海野ぴゅう @monmorancy

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