第16話 萌月

 遼が本社に帰ってきて1か月が経とうとしていた。ゴールデンウィークは終わり、もう5月だ。


 事件のせいで遼のつややかで長い髪は熱で傷んでしまい、孝が泣く泣くショートカットにしていた。

 孝は惜しそうに何度も傷んだ髪を触って、


「本当に切るのか?トリートメントでなんとか見られるようにはなると思うけど…」と何度も聞いたが、遼の気持ちは変わらなかった。触るたびに違和感があり、堪えられなかったのだ。


 孝が泣きそうな顔で姉の長い髪にハサミを入れると、遼の頭は少しずつ軽くなっていった。



 遼が久しぶりに本社に出社すると、あまりの変貌ぶりに周りがざわついた。


「り…遼なのか?」


 食堂で彼女が魚定食のひつまぶしを食べていると、隣に朱音が呆然として立っていた。うなじも片方の耳もまるっと出たショートヘアになった彼女を穴が空くほど見ている。


「そうだけど」


 隣いいか?と尋ねながらもう座っている。


「おいおい、誰かわからなかったぞ…どうしたんだ、失恋でもしたのか?」


 彼は自分が思いの外彼女の長い髪を気に入ってたことに気が付いてしまい、動揺を隠せなかった。よくわからないことを言う朱音を遼はチラリと見てから、


「傷んだから切った」とだけ答えた。


「そっか…可哀そうに。今夜ご飯でもおごってやるよ」


 朱音がじっと遼の短い髪を見ながら聞いた。だんだん可愛く見えてきて触れたくなってきたのは恋のなせる業だった。アシンメトリーで左が長いので髪を耳にかけている。ピアスをすると栄えそうだ。


(可哀そうって…まあ、少し寂しかったけど…いや、かなりだけど…またのびるものね…)


「慰めてもらわなくても大丈夫。ありがと」


「…よく似合ってる」とぼそりと言ってから、食事の誘いを断られた朱音は自分の前にある肉定食をやっつけ始めた。どうしても彼女が気になって何を食べているのかもいまいちわからなかった。



 彼女が帰ってきたのを一番喜んだのは、やつれ果てた総務課の部長と課長と同僚だった。新入社員も配属されたのに、指導が出来ず放ったらかし状態だったそうだ。


「事件に巻き込まれたと聞いてもう会社を辞めちゃうんじゃないかと…無事で良かったよ、山田さん」と言ってくれる課長をとてもありがたいと感じた。素直に嬉しかった。


 遼は変わった。人を見る目も、人から見られるのも。


 秘書課の華さんの訓練のおかげで人と対面する恐怖感も減った。たまに秘書課の飲み会があると、裏メンバーとして呼ばれるので参加する。社員食堂で一人きりで食べることも減った。



 会社の食堂で、遼と朱音は隣り合って定食を食べる機会が増えた。

 朱音はいつも忙しそうにしており、国内外問わず出張も多い。それでもなるべく遼と昼の食堂で会えるように朱音はスケジュールを調整した。

 メールの誤解が解けた今、二人は、会わなかった三年の間のシンンガポール赴任時代の話や、遼の家族の話をぽつぽつとした。


 遼が無表情で淡々と話しているから社内で誰も二人が恋人に近い関係だとは思わなかったが、ミカや華、山本は二人の仲をいじった。


「九州くんだりまで行ってまだ落としてないのか?朱音は意外と奥手なんだな、知らなかった」とミカは嬉しそうに朱音に言うし、


「うそ、まだ付き合ってないんですか?」と山本にまで呆れられた。


 食堂のおばちゃんであるユカも遼と朱音を見て密かにニヤニヤしていた。目が、『あら、まだ付き合ってないようね』と遼に言っていたが、彼女は全く気が付いていないようだ。




「なあ、九州支社の例の横流し先の会社が潰れたの、知ってたか?」とミカが朱音に聞いた。


 彼はもちろん知っていた。遼の報告資料にあった会社だったから気にしていたら、5月のゴールデンウィーク明けに倒産した。


「うち関連で捜査が入ったんだがな、あの事件の前日から社内イントラネットが徹底的に破壊されたうえ、情報が大量に流出したらしい。それまでかなりの業績好調だったらしいが、一気に資金繰りに困って会社は潰れ、社長は海外にトンズラして捕まった。

 おい、わかってるだろうけど山田は怖いぞ、もし付き合うなら覚悟しとけよ。あいつを怒らすとうちの会社でさえかなりの打撃を受けるのは必至だ。いや、潰されるかもしれん」とミカが恐ろしいものを見た様にぶるるっと身体を震わせた。


 朱音は豪胆なミカがそこまで遼を怖がるので思わず笑ってしまった。もちろん、朱音はその『誰か』が遼だなんてこれっぽちも思いついていない。たまたま重なるなんて運が悪かったんだな、と感じただけだった。



 もちろんその『誰か』である遼は、九州支社の工場に向かう前日に、例の横流しの相手会社のシステムをクラッキングして情報流出の仕掛けをした上に修復が出来ない程度に崩壊させた。

 万が一だが自分が殺された時や、会長が支社長を見逃したとき、そいつらがのうのうと何事もなかったかのように会社を継続させているのが許せなかった。最上の製品で人殺しの商品を作った会社に強い憤りを感じていて、この世から消え去ってしまえばいいとまで思っていた。



 アメリカの研究室で働いていた遼の両親の研究に、ある軍事企業が目を付けたのが事の始まりだった。遼の両親には内密で研究成果を渡す見返りに、研究所とそのトップは莫大な報酬を受け取っていた。

 両者のつながりの不正を暴こうとした矢先、両親は自動車事故に見せかけて殺された。遼が8歳の時だった。


 健康で明るい両親の突然すぎる死に不信を抱いていた彼女は、ハッキングの腕を磨き、高校生の時にそのの裏の事実関係を調べ上げた。大学で情報工学を学んでから、高いIQと両親の遺産を利用して非破壊工作チーム「マルチビタミン(MV)」を作った。

 そして極秘裏にその軍事企業に今後立ち直れない大打撃を与えた。今はその企業の名前は存在しない。もちろん研究所もだ。


 正義の鉄槌だなんてお綺麗なものではなく、ただの汚れた復讐だと彼女自身もわかっていたし、遼の両親は当たり前だが帰って来ない。でもせずにはいられなかった。そして後には果てしない虚しさが残った。

 遼は軍需産業に強い嫌悪感を感じるようになっていた。


 今回最上化成の潰れた取引先が製品を納めていたその上の大きな企業には被害が届かないだろうが、恐怖の爪痕を少しでも残してやりたかった。


 朱音は遼に九州での内偵の話を聞こうとしたが、あまり話したがらないので追及は避けた。なんせもう遼に被害が及ぶことはないのだ。それに、またあの冷たい関係に戻りたくない、と正直感じていた。



「わかってます、遼から大体は聞いてますので」と朱音が誤魔化すと、ミカは呆れた。


「おまえも大概バカだな。私は二人とも嫌いじゃないけど」


「どうもありがとうございます。ミカさんに言われてもあまり嬉しくないですけど」と朱音が笑って答えると、ミカが思い切り肩を叩いた。


「今日はデートだろ、早く帰れよ」とミカは時計を見ながら言った。もう18時近い。


「うおっ、なんでわかるんですか?」


「バーカ、おまえはまるわかりだ」


 明らかにそわそわしている朱音の顔はわかりやすく緩んでいた。

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