第3話 朋友の月
週明け、「楽しそうだな」と昼休みの誰もいない総務課にまで来て朱音は言った。今までの遼だったら社員旅行の幹事など手伝いもしなかったろう。
先週とった出欠確認兼行先アンケートで目的地が甲府に決定すると、遼はトン子の作ってくれたスケジュールを元に旅館と電車と観光バスの予約手配をし、今は部屋の割り振りを考えていた。
2年に1回の社員旅行は会社負担の自由参加なので、参加しない人は数人しかいない。
「お盆の旅行が楽しかったから、かな。…会長夫妻も参加する。御朱印集めをしてるらしい」
「まじか…緊張するな」と真面目な朱音がつぶやいた。
「大丈夫、こっそり付いて来るって言ってた」
遼が珍しくうきうきして答えると、朱音は思わず、
「お盆休みからこっち、元気がなかったから心配してた。もういいのか?」と聞いた。やぶ蛇になりそうだから聞かないつもりだったのに思わず口から出ていた。
「うっ…ごめん…」
(オレの事を嫌いになったかと思ったけど、山本が言う通り本当に違うみたいだな…)
朱音が遼の様子を見てホッとしていると、
「朱音、来週か再来週の土日、空いてない?」といきなり彼女が聞いた。
「お、おう。どうした?」
遼から週末の予定を聞かれることはまれだったので朱音に緊張が走った。
「堀さんが提案していたハイキングに行きたい。どう?」
朱音はホッとしながら、
「いいよ。オレ、下調べしとこうか?」と気を遣って聞いた。
「私が誘ったんだし、いいよ。一泊?日帰り?」
(泊まり、たいな…社員旅行では周りに内緒だから一緒にはいられないだろうし)
「遼がへたりそうだから、泊まってゆっくりするか?」と遼の反応を伺うように聞くと、
「ありがと」と遼は周りを見て人がいないのを確認してから、彼の肩に手を置き、背伸びして素早く朱音の唇に柔らかい唇を重ねた。遼がそんなことを会社でするとは思ってなかった朱音は、頭のネジがふっ飛ぶくらい驚いた。
(か、可愛い…こいつオレが我慢してる時に…わざとやってんのか?)
「じゃあ、旅行の前日の金曜日の夜からうちにこいよ」とさっそく禁欲生活を破る勢いで誘った。
「わかった」と嬉しそうにする遼を見ていると、あまりそんな顔を会社でして欲しくないなんて思ってしまう。
人当たりが柔らかくなった彼女は人気急上昇中で、営業一課でも話題に上ることが増えてきた。彼女をあまり人目に付かせたくない、というのが朱音の本音だ。
(無理だってわかってるけど…どっかに閉じ込めておきたいくらいだ。旅行でまた飲み過ぎて引かれないようにしないとな…)
ぱらぱら人が戻り始めたので、朱音は小さく手を振って軽快に総務課を出ていった。
遼は山本のアドバイスに沿って試みたのだが、効果は絶大だったようで彼に感謝した。朱音が元気になったし、あとの気がかりはトン子のことだった。
「みっちゃんはどう思う?」と仕事後にイタリアンに江上を誘って聞いた。
「あれは間違いなく嫌々の結婚でしょ。ランチもトイレで全部吐いてたみたいだし」
江上はあっさり遼の危惧を口にした。
「気付いてたんだ…」
遼はつぶやいた。
あの天真爛漫で旅行や食べることが大好きなトン子があんなになるのはおかしい。それに本当に好きな人と結婚するならあんなへんてこな顔をしてるわけがないだろう。
「で、遼さんは昨夜調べたんでしょ?どうでした?」と江上はお見通しの様子で聞いた。珍しく前のめりだったので遼は驚いた。彼は基本他人に興味がないと思っていたのだ。
「うん…調べた。名前は
遼では調べるのに手間取っていたので、江上に助言をもらいたかった。
「僕も協力していいですか…遼さんでは男性のダークな部分を探るのは難しそうです。取得した彼のデータ、すべて僕の自宅PCに送って下さい」と江上はすぐに言った。遼のような真っ直ぐな人間はヒトの悪意や裏の顔など想像も理解もできないだろう。
彼がはっきり協力を申し出たので遼は今度は飛び上がるくらい驚いた。
「なっ…みっちゃんがそんな人のことを気に掛ける日が来るなんて!成長したんだねぇ」と遼が褒めると、「ち、違います、姉が…」と珍しく言いにくそうに目を逸らした。
「マキタ?どうしたの?」
「すごく心配してて、トン子さんに毎日電話してるみたいです。あんな人に執着する姉は初めてで…多分彼女のことがとても好きなんじゃないかな、って…」と恥ずかしそうに言った。
身内の恋愛話は確かに照れる。忠から彼女の話を聞くときにそんな気分になる遼は思わず笑った。
「ありがとう、心強い。じゃあ、彼の目的を一緒に探ろう。もしかしたら本当に好き合ってるのかもしれないし…」と
「はい、こんだけ出ました」
翌々日の夜、2人はまたイタリアンレストラン、レノンにいた。朱音が最近大阪に出張が多いのでタイミングがいい。
そこで江上が食後、遼にタブレットで見せた資料はとんでもないものしかなかった。
江上は警察や病院の記録をさらったようだ。百田信也の携帯やPCに保存してある写真もある。
まずは彼の死別した妻の死体には暴力の跡があった。しかし事件にならずにもみ消されているようだ。その上、離婚した女性に付きまとって火傷・打撲などのひどい目にあわせている。それももちろん刑事事件になっていない。
写真は殴られて全身血だらけの泣いている女性を撮ったものもあった。顔が青黒く腫れ上がってしまい元の顔が想像つかない、そんな類のものが何百枚とある。
百田はクリーンな顔の裏でこんな写真を撮る男性、つまりは…
「変態DV男…」
「多分トン子さんは今、言葉のDVを受けていてあのように痩せてしまったのでしょう。でも彼女はDVだと気が付いていない、と思います。
でも結婚したら実家で密室なので…肉体的DVが始まるのは間違いないでしょう。彼のターゲットは軒並み上品な女性です。彼はそういった女性を痩せさせて痛めつけるのがお好みのようです。この写真、めっちゃガリガリだもの…ってマジでキモっ!吐き気がする!!」
骨と皮になった女性が痣だらけで倒れている写真を見て江上はタブレット端末の電源を落とした。これ以上見ていたらせっかく食べたイタリアンを吐きそうだった。もちろん遼も同じで、端末が目の前からなくなってホッとしている。
でも女性が未来のトン子だと思うとぞっとした。
「思った以上に危険人物だね…どうしよう」
「そうですね…証拠があれば…さすがにもみ消せないでしょう。この写真では百田がやったという証拠にはならない。やつも二人目の奥さんを3年前に多分殺してからは大人しくしてるようで、一般女性に手を出したりなどしてないと。でも我慢が出来なくなってトン子さんに目を付けたんだと思います。結婚まではしっぽを出しそうにないですね…」
「うーん、そんな奴と結婚させるわけにはいかないよね。…ちょっと考えがあるんだけど、みっちゃん助けてくれない?」
江上はとても嫌な予感がして「うぇ?」と顔をゆがめて返事した。
「あら、百田さんはご結婚されてるんですか…残念です」
水曜日の夕方、銀行の融資窓口でがっちりした40代後半の男性銀行員の結婚指輪を見ながら恥ずかしそうに聞いているのは、上品なシルクのグレーのスーツを着た遼だった。
大人っぽい化粧に髪は仕事ができる女性風で、パンプスはきれいに磨き上げてある。もちろんダイヤのネックレスと指輪も装備した。
相手が上品な女性が好みのようなので、午後に半休を取り、孝の美容院で髪とメイクをお願いして変身させてもらった。孝の同僚の腕がいいので仕上がりは上々だった。
彼女は今まで溜めてきた貯金を資本にして『女性起業家の会社向けのウェブセキュリティ会社』を起業するという案をエサに、トン子の結婚相手、百田信也に近づいていた。偽の紹介状と名刺を携えて。
「そうなんです。もうすぐ結婚するのですが、尾上様のような美しい女性と出会うならやめておけば良かったと後悔してるとこです」
卵のようにつるりとした風貌の百田は、爽やかに遼に言った。
(気持ち悪い!それもこいつ全然そう思ってないのが丸わかりだ…今、こいつの頭の中で私かトン子が殴られてるのかもしれない…)
遼は背筋に寒気が走るのを感じた。
彼は調べ通り銀行内では優秀なようで、もらった名刺には支店長と記載がある。女性社員にも人気があるようで、お茶を出してくれた女性は明らかに彼に好意を見せていた。
さすがに同僚には手を出していないのだろう。
「ではこちらが私の作成した事業計画書となります。融資のご検討、宜しくお願いします」と遼はもうこらえ切れなくなり、気持ち悪さを押さえながらゆっくり立ち上がった。
「わかりました、お預かり致しまして前向きに検討させていただきます。近日中にご連絡致します、尾上様」
最後に出口に送る際に彼は彼女のでん部をじっと見ながらニヤっとした。
粘着質なヘビのような視線を後ろに感じながら、遼は大通りまでゆっくり歩いてタクシーを拾った。
「融資について、ゆっくりお話したい。明日の仕事の後でも結構ですのでお会い出来ませんか?」と含みがある電話がきたのは木曜日の休憩中だった。
遼は人気のない場所に移動して話を聞き、もちろん二つ返事を返して電話を切った。
隣にいた江上が、
「引っ掛かってきました?」と珍しくビビりながら聞いた。現実世界で最弱だと自覚するだけある。
「うん、計画通り」
「僕が付いて行きます。でも危険なのは絶対ダメですよっ…ちょっと対策を考えないとですね」
二人で壁にもたれながらあれこれ方策を考えていると、
「おい、ずっと聞いてたけど、おまえらコソコソして何が危ないんだよ」と背後から声をかけられ二人は飛び上がった。
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