第15話 紅染月

 コテージから歩いて5分の場所に夕食会場になっている和風の木造建物がある。


 こちらは外も中も壁板が焼杉で真っ黒だ。そして高い天井に木製のファンが静かに回っている。木のいい匂いがするし、開放的で気持ちがいい。


「いらっしゃいませ」


「翡翠の間の澤井です」


「澤井様、こちらにどうぞ」


 二人が案内されたのは半個室になった掘りごたつの部屋だった。机にお品書きが置いてある。


 内容は地元で獲れる魚と地鶏、野菜が中心のヘルシーなメニューだ。遼は朱音がこれで足りるかなと心配になったが、いつも肉定食を社員食堂で食べている朱音が、


「お、むっちゃ美味しそう。オレ野菜料理好きなんだ」と意外な事を言った。

 確かに、彼が大野の朝ごはんで総菜料理をとても美味しそうに食べていたのを思い出して遼は安心した。


 係員が今日の料理の説明を丁寧にしてくれる。やはり売りは地元の野菜のようだ。それにご飯と味噌汁、飲み物がお酒もフリーなのが嬉しい。二人で違う種類の地酒を注文した。


 地酒があると知ってワクワクしながら、「飲み比べしよう」と言う遼に、


「そう言えば遼が日本酒飲んでるところ見たことない。飲めるのか?」と朱音が聞いた。


「うん、朱音とはワインかビールが多いけど、家では日本酒が多い。忠が日本酒好きで、さっきメニューにあった三重の地酒『酒屋八兵衛』は取り寄せて飲んでる」


「へえ、意外…本当に忠君と仲いいな。少し焼ける…」


「なあに?」


 遼が返事を聞く前にお酒と前菜が運ばれてきた。


「お待たせしました、日本酒と前菜です」


「…綺麗…」「おお、スゲー綺麗だな」


 正方形の分厚いガラスの器に盛られているのは、秋鮭が混ぜられたなますのグラスと、エビと銀杏の松葉刺し、地元産の野菜が意趣を凝らして料られていた。料理人のセンスを感じる色合いと盛り付けだ。


「じゃあ、長旅お疲れ様」


「朱音も運転お疲れ様」


 涼し気なガラスのお猪口に入れて冷酒を飲み干す。お水のようにすっと心地よく身体に沁み込んでいく。いくらでも入っていきそうな代物だ。朱音も遼もその上品な味にうっとりしてしまう。


「彩りも形も綺麗で食べるのもったいないな…」と言いながら、早速朱音はなますの入ったグラスを左手に取った。

 相変わらず箸の持ち方が綺麗で遼は見とれた。以前褒めたら祖母に教えてもらったと言っていた。


「酢の物、食べられるんだ?男の人は嫌いだと思ってた」と遼が聞くと、朱音は笑った。弟が嫌いだからってみんなそうだとは限らないのだ。


「この秋鮭の鱠、とても美味しい。全然生臭くないし。香辛料が効いてるからかな…」


「本当に美味しい。これ作ったら朱音食べてくれる?」


「もちろん。一緒に作ろうぜ」


 美味しすぎであっという間に野菜の付け合わせなども平らげてしまうと、『じふ』と呼ばれる魚を使ったすき焼きの串がグラスに盛られて出された。

 熊野の漁師のまかない料理のアレンジで、肉の代わりのサバと野菜がすき焼き風に調理してある。上には日本酒のジュレが乗せてあり、見た目も華やかで美しい。


 いいタイミングで次々と料理が運ばれてくる。


 熊野で獲れる魚と伊勢エビのお造り、ホテル専属の地元の猟師が獲った鹿のカツレツ。とどめは熊野牛の紀州備長炭焼きに朝取り野菜が大胆にもごろりとそのままで、最低限の調理がされて添えられて出された。添え物のほうが目立っているくらいだ。

 すべてが料理を身体が喜んでいた。特に味が濃くて甘い野菜。


 最後のデザートの焼き立ての温かいパンナコッタの上に、冷たい地元産のブルーベリージェラートが乗せられているものを食べながら、あまりの贅沢さにめまいがした。

 遼は生まれも育ちも質実剛健、普段からあまり贅沢をしない家で育ったので、悪い事をしてるようで居心地が悪い。


「なあんだよ、そんな顔して。初めての二人の旅行だってのに」


 いつの間にか朱音は隣に移動していて、日本酒を飲みながら遼をじっと見つめていた。弱いのでもう酔ってきたようだ。あまりに違和感がないので忘れていたが初めての旅行だったんだと思いながら、


「ちょっと贅沢だなって…」と遼が遠慮がちに感想を述べると、朱音は、


「おまえ、そんなダイヤのネックレスと指輪してよく言うね。周りの男はおまえとそれを見てるってわかってるのか?昨夜さ、おまえのそのダイヤを見た父親から『女にあんな高額なプレゼントをする暇があったら家に金をいれろ』って言われた…」と饒舌に言ってから、恥ずかしそうに少し口を尖らせた。


「なっ…」


 遼は一瞬で頭に血が上った。あまりのことに声が出ない彼女をなだめるように、


「怒るな、うちはそんな家なんだ。あれはオレのプレゼントじゃない、って言ったら、『そうだよな、おまえなんかがあんな高額なもの買えるわけない。俺なら買えるけど』って…あいつがさ」と朱音は昨夜を思い出しながら言った。


(なんかすごく朱音に失礼な話だな…あの兄は偽物をたくさんの女にプレゼントしそうなタイプのくせに…)


「朱音が嫌なら外すから」


「…違う。そういう意味で言ってるんじゃなくて、オレに自信がないだけだ。それを付けたおまえに自分が見合ってるのかと、見るたびに考えてしまう」


 朱音は遼のネックレスを指先で触りながら言った。たまに触れる白い肌に感情が揺れる。


「私だって、何でもできる朱音に釣り合わないっていつも感じてる…」 


 遼が俯いてそう言うと、朱音がプッと噴き出した。


「…オレ達似てないのに同じような事考えてる」


 遼も笑った。


「朱音…今夜は泊まりだし飲もうか」


「…それ、少し頂戴」


「少し?はい」


 遼が新しいお猪口ちょこに自分が頼んだ日本酒をそそごうとすると、「ちがう。こうして欲しい…」と自分のお酒を口に含み、遼の身体を引き寄せて口移しで飲ませた。遼がお酒を飲み込むと、熱い舌が口内に侵入して遼の舌に強く絡んだ。


「…んっ…」


 しばらくしてやっと朱音が遼を離す。お酒の味なんて全然わからなかった遼は恥ずかしさから顔が真っ赤になった。半分個室とはいえ、前を通る人がかがんで覗いたならば中が見れるのだ。


「赤くなって可愛い…」と朱音はぼんやり言った。


「朱音、かなり酔ってる?こんなとこで…」


「酔ってるけど酔ってない。遼、オレを離さないで…悪いとこは全部直すから」と言いながら逃げ腰の遼を強く引き寄せた。空いた手が服の中に入ろうとしたので遼の身体がビクッと震えた。


「や…本当に怒るよっ」と彼女が睨むと、やり過ぎたと思ったのか、少しシュンとなって怒られた犬のように向かいの席にとぼとぼ戻る。


「部屋に戻ってから、ね?」と遼が優しく言うと、少し不満そうに頷いた。


(なんだか酔うと本当に子供みたいになるよなぁ…)


 遼は少し呆れつつも、日本酒を急いで全種類味わってからレストランを出た。




 外は真っ暗だ。星が降ってきそうなくらい多く瞬いている。

 二人は千鳥足でリゾートのウッドチップが敷かれた柔らかい園路をの裏に感じながら歩いていた。山の斜面にリゾートがあるので道に勾配があり歩くと余計にフワフワする。素足にホテルで用意されているわらじも地面を感じられて気持ちがいい。


「見て見て、すごい星の量。これだけあると降ってきそう…」


 遥か西の空に月が太陽の光を浴びて煌々こうこうと輝いている。到着したときは雲があったのに、もう昼間なら晴天と言えそうなくらい晴れている。

 なにか言いたげな月を見ている遼を、朱音はじっと見つめてぼそりと言った。


「オレは星や月なんて眺める暇がないくらいおまえばっかずっと見てる…どっか頭がおかしいのかな」


「それなら明日熊野を観光したら正常に戻るかも。滝に打たれてみる?修験者もまだいるってガイドに書いてあったから、滝行とか体験できるんじゃないかな」と遼が意地悪で答えた。すると朱音が、


「いいね…だってオレもう遼が欲しくて仕方ないんだ。今ここで押し倒したいくらい…」と遼の手を握って熱い声で言う。


(そ、それはすごく困る…)


「わ、わかった。早く帰ろう」


 遼が焦って朱音を引っ張って歩き出した。彼は少し笑ったが、遼にとっては笑い事ではなかった。




「おはようございます、昨夜はよく眠れましたか?」


 9時にフロントでツアーガイドの白石と待ち合わせをしていた。

 彼は昨日と同じ相手に親しみを自然と持たせる大学の教授然とした様子をしている。


「はい、とても」と答える遼を朱音が一瞬ニヤリと見た。昨夜は遼がくたくたで泣きそうになるまで付き合わされた。遼は体力がないのだ。


(悔しい…絶対体力付けてやる!)


 遼は帰ったら運動を始めると心に誓った。



 そしてまた昨日と同じようにオレンジを絞り機にごろんごろんと投入して、3つジュースを作り、木の香り漂うカフェコーナーに座った。今日のルートを相談する。


「オレは赤木城跡と田平子峠刑場跡に行きたいです」


「ほう、赤木城跡だけでなく田平子峠もと言う方は珍しいです。よくご存じですね」と白石は生徒を褒めるように言った。


「雪深い地方に育ったものですから、家から出られなくなると『日本残酷物語』という本を何度も読んでいたんです。ずっと心に残って気になっていて…」と少し恥ずかしそうに答えた。趣味が悪いと思われるのが嫌だったようだ。もちろん白石も遼もそういったたぐいの人間でないと知っていたが。


「ああ、山本周五郎と民俗学のレジェンド、宮本常一監修のですかね。日常的な飢え、虐げられる女や老人、掠奪やもの乞いの生涯、山や海辺の窮民…。かつての日本のありふれた光景だったんでしょう。お嬢さんはどうですか?」


「お、お嬢さ…?ええと、山田と申します。私は大きなものが好きなので、びっくりするような何かが見たいです」


「失礼しました、山田さん。ではちょっと考えてお連れしますね」とにこやかに返事をした。


「ありがとうございます」


 遼は「お嬢さん」なんて真顔で言われたのは初めてだった。

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