第16話 ミトコンドリア・イブの見た月

 まず白石が車で二人を連れて行ったのは、山の斜面に生き物のように並ぶ千枚田を高い所から見下ろせる場所だった。


 優しい風に揺れる稲が青々としていて生きているようだ。上から見ると段々になっている形がはっきりわかる。

 こうして高台から見渡すと自然界の中には真っ直ぐなものなど一つもない。区画整理された大きな田畑を見て感じる美しさとは違った。


 二人は思わず見とれていた。


(ぼんやり眺めているとミトコンドリアが集合しているようにも見えるな)


 今の地球上に暮らすすべてのヒトの母方の祖先を辿ると、16万年前のアフリカで生きていた一人の女性、ミトコンドリア・イブに行き着く…そんな昔科学雑誌で読んだ記事を遼はぼんやりと思い出していた。


「とても…とても綺麗」


 口から思わずこぼれた。途方もない時間をかけて、丁寧に人の手でなされてきた美しさがまさにこの山中に出現している感動。


「気に入ったようで良かった。ここは『丸山千枚田』といってね、西暦1601年にはすでに2240枚のもの田があったという記録があるんだ。過疎化が進んだ平成初期には530枚になった田を、地元の丸山地区保存会の力で1340枚まで復元・保存した。

 この千枚田は赤木城跡や田平子峠刑場跡とも縁が深くてね、ここで米を作っていた百姓の多くが一揆に参加して田平子峠で斬殺されたんです」と白石は説明した。


「…昔は人口も少ないだろうし、お米が少ししか作れなくなったら城主も年貢が減るし困らないんですか?」と朱音が聞いた。


「それだけ武士にとって百姓の命が軽かったってことだろうね…」と彼はつぶやいた。


「ちょっと歩こうか」と言って千枚田の中道に入って車を止めた。千枚田の中に立つと、また視線が変わって面白い。


 一枚一枚の棚田の段差が1メートル以上あるところや、5m四方はある大きな岩がどかんと真ん中にあったりする。棚田から棚田を移動するのも大仕事だったろう。


「この岩は大きすぎて動かせなかったそうだよ」と白石が岩を触りながら言う。そして少し離れた土手の一区画だけ真新しい部分に触れた。


「この土手ね、最近モルタルで補修して固めたから、他と全く違うだろ?あっちは30年前に補修したから色が馴染んでるけど。でもね、千枚田が世界遺産に登録されたら治せないんだ」


 確かに元からあったろう部分と補修された部分は全然違っていた。


「どうしてですか?」と遼と朱音が白石に同時に聞いた。完全に野外授業だ。


「世界遺産になると補修の際は完全に元の状態に戻さなければならない。でも、この石垣を治せる職人が日本にもういない。材料もないしね。」


「そうなんですか…」


 古いものはとても美しいが、残すのには相当な苦労が必要になる。だからこそ人の心をじんわりと中から温める。横を見ると朱音も神妙な顔で、田んぼを気ままに渡る風を見つめていた。




「ちょっとその角を登ってみようか」


 千枚田を出て少し車を走らせると路肩に標柱ひょうちゅうがあり、少し広い箇所に白石は車を停めた。道のカーブした部分に高さ3メートルはある大きな苔むした一枚岩が立ててあり、『田平子峠』と彫ってある。その横にひっそりある小道から高台まで登ると、供養塔とその説明碑があった。


「昨夜澤井君が言ってた『日本残酷物語』に載る程の酷い話なんだけど…」と白石は説明を始めた。


 田平子峠刑場跡は、豊臣、徳川両政権の重鎮であった藤堂高虎などの新領主に、農民一揆で抵抗した旧来の北山の国人士豪らが処刑された刑場の跡だった。

 新領主に対し、在地の旧来勢力が抵抗を繰り返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な史跡だと先生は沈痛な面持ちで説明した。

 北山一揆により処刑された人の数は三百数十人に及び、近年の道路工事の際には沢山の人骨が出てきたそうだ。


 この地に数百年残る里歌を白石は淡々と歌った。


『行たら戻らぬ 赤木のお城、身の捨て処は 田平子じゃ』


 赤木の城に講和の為に招かれた武器を持たない抵抗勢力が、城に着く前にここで斬殺されたことを歌っているそうだ。

 遼はリアルな歌を聴いて背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。


(この歌を地元の人は子供の頃から聞いて育ったんだ…昨夜の朱音の家族といい、私の両親をお金の為に殺した企業の幹部といい、人間が一番怖いな…)


 遼がそう思っていると、朱音も、


「ヒトという生き物が怖くなる話だよな」とポツリと言った。




 田平子峠から山道を車で5分ほど走り、赤木城跡についた。


「ここは先程話に出た、築城の名手と言われた藤堂高虎が代官時代に築いた城なんだ。この地域は古代は熊野三社に属し、中世は入鹿氏などの武士が治めていたものだから、豊臣秀吉の紀州侵攻で支配下に入ると、その厳しい支配に対して大規模な一揆が何度も起こったんだ」


 先ほどの田平子とは違って爽やかな風が通り抜ける高台で白石は説明した。周りが広く見渡せて気持ちがいい。朱音は興奮を隠さずに石垣を見て回り始めた。そんな朱音を白石が息子を見るような優しい目で見つめている。

 石垣はなるほど大野城より低いけど積み方が似ている、と遼は石垣を触りながら思った。


 赤木城趾の石垣の上に登って二人が白石の説明を受けている間も、人の訪れが絶えない。意外と有名な城跡のようだ。立ち止まって白石の話を聞いたり、質問していく人もいる。

 こんな山奥に城など不思議だと遼が思っていたら、白石が黙って城跡の東方になる山の麓を指さした。皆がそちらを見る。


「あの開けた場所から石垣の材料を運んできたんだ。北山の良質な材木が必要で、昔の交通の要所であるこの場所に城を立てたんだろうね。ここは昔、十津川街道と北山街道の交差点だったんだ」


「一揆制圧の為に築城したのではないのですか?」と朱音が質問した。


「いや、藤堂高虎が京都の方広寺大仏殿建設の為に材木を調達するよう秀吉から命じられてる。目的はここの北山材でしょう」


(土地の人は死ぬ気で一揆を起こしたけど情けなしに殺されたんだ…昔から支配者にとっては人の命などなんでもないのだろう)


 自分の両親が殺された時と同じく命の軽さにショックを受けていると、朱音が肩をふいに抱いたのでビクッとした。


「なんだよ、遼のくせにびびるなんて珍しい…。大丈夫だ、お前だけはオレが守る…この先ずっと、誰にも殺させたりなんてしない」と言いながら大きな手で頭を撫でた。


 遼は冗談と思って朱音を見上げると、彼女の両親のことを知らないはずだが真剣な表情をしている。


(もしかしたら、この人は本気で私のことが好きなのかもしれない…)


 遼はそう思いながら、とどまることのない白石の話を聴いていた。




 赤木城跡を後にし、3人は遊覧船で有名な瀞峡どろきょう沿いにある温泉地と温泉地をつなぐトロッコ列車に向かった。かつて広範囲に敷かれていた鉱山専用線の残った路線を利用した「紀州鉱山専用線」だ。

 ちなみに温泉はゆっくり走るトロッコで10分ほど離れてるだけなのに、山を越えるだけで泉質が違う。


「僕はあっちの駅で待ってる。凄く揺れるしうるさいから、電車の窓は閉めた方がいいよ」と、待ち時間を利用して近くにあるレストランで昼ご飯を食べながら白石は笑って言った。



 列車はとても小さくて、子供用の列車みたいた。向かいに座るなら足が必ず触れてしまう。女性専用列車があったというのも頷ける。

 朱音はあまりに狭くて入るのをためらったが、遼に押し込まれて苦しそうに座席についた。彼の頭は天井屋根に付いている。5両連結8人乗りだが、1両に大人が5人も乗ったら息苦しい狭さだ。運よく利用者が少なかったので、二人で乗車できた。


 鉱山では1200年前にはもう銅などを採掘していたそうだ。奈良時代の東大寺大仏鋳造のためにここの銅が提供されていた、という記述があると白石が言っていた。

 地下には総距離300キロ、深さ40メートルもの鉱山道が張り巡らされているそうで、興味深い。

 まるで安部公房の小説『方船さくら丸』みたいで、遼は是非とも鉱山の中を覗いてみたいと思うのだ。



 動力源が充電式バッテリーという列車がガダゴド今にも分解しそうな音を出しながら動き出し、真っ暗なトンネルをくぐって向こう側の駅に着いた。白石は相変わらずの満面の笑みで出迎えた。


「ここでは金銀銅錫など色々な鉱物が採掘されてたんです。あと希少な蛍石ほたるいしも」


 白石のその言葉が遼のかすかな記憶をチリリと刺激した。


「ほたるいし…畜光性がある石、ですよね」


「おお、よくご存知で。最近鉱物女子が増えているそうですが、もしや山田さんも?」と白石が聞いた。


「いえ…15年近く前に家族でここを訪れたのを思い出しました。そうだ、瀞峡下りをして鉱山博物館で暗い箱の中で光る大きな蛍石をみんなで見たんです…」


 遼は昔の事をぼんやりでしか覚えていない。たまにあまりにも空っぽで不安になる。だから自分で驚くほど嬉しかった。


(みんなで船に乗った…小学生の子供を5人も連れて両親は大変そうで…私と忠と孝がはしゃいで好き勝手動くから怒られたっけ…懐かしい。私の中身はスカスカかと思ってたけど、ちゃんとどこかに記憶は残ってるんだ…)


「泣くなよ…」と困った朱音にタオルハンカチで顔を拭かれて、彼女は赤くなった。朱音に再会してからというもの泣いてばかりだった。



 トロッコの後は、南方熊楠が遠野物語の柳田國男に嘆願して伐採から救ったという三重県で一番大きな木であるくすのき、『引作りの大楠』を見に行く。まさに壁のような迫力で、根元にある普通のサイズの神社が小さく見えてしまう。


「この木は樹齢1500年と言われていてね、明治にはこれ級の大木がここいらの7つの神社に各1本ずつあったそうだ。明治政府の神社合祀政策のおかげで日本の文化はめちゃめちゃに破壊されてしまったんです」としみじみ言った大石の言葉が二人の胸に響いた。

 

(…なるほど、ジョージ・オーウェルの著作の通りだ。大石先生を見てるとパトリオティズムとナショナリズムは違うとわかる。より人類が幸せになれるのはどちらか明らかだが、金や権力に飲み込まれた人間は攻撃的になるからナショナリズムにしかたどり着けない)


 遼は先日読んだ本を思い出しながら大木を見上げる。 

 朱音と遼が10人で囲んでも足りないくらいの大きさだ。この地域の1500年をこの木は見守り続けてきたのだ。それは人々の精神的支柱ともいえただろう。そんなものを簡単に切れる人間は間違いなくおかしいと遼は思うのだ。



 最後に昨日見逃した鬼ヶ島をさらっと見学し、リゾートに戻った。

 なんせ鬼ヶ島は足場が悪い。朱音が運動神経の悪い遼があちこち歩いて少しつまずくたびに「危ない」「そっちに行くな」「気を付けろ」と言ってうるさいので、遼が嫌がったのだ。

 朱音の心配性に大石も苦笑いをしていた。



「先生、また熊野に会いに来てもいいですか?次はご専門の古事記の話を聞きたいです」


 漫画であれば間違いなくハートの眼で描かれそうな遼が白石と離れるのを惜しんでいた。


「僕は毎年日本海古事記ツアーを企画するから、是非二人で参加して下さい。メールで案内を送りますね」


 白石はシンプルで美しい和紙の名刺を遼と朱音に一枚ずつ手渡した。


「日本海…それは楽しそうです、是非」と今にも参加申し込みをしそうに遼が言う。


「今日はありがとうございました、とても興味深かったです」


 朱音が白石の学者らしくない分厚くて大きな手を握って礼を言った。遼がそれを羨ましそうに見ている。


「それは良かった。ではまた」


「はい、必ず」「ありがとうございました」


 遼が寂しそうに白石を見送っている。恥ずかしくて握手をねだれなかったのを後悔してるのがバレバレだった。それを見る少し不満げな朱音を、フロントのスタッフが見てこっそり笑った。




「おい、あまり先生に懐くな」


 二人が明日の熊野古道を歩くルートを部屋で考えつつ遼が白石の話ばかりしていると、朱音がとうとう堪えきれず文句を言った。


「なんで?先生はスゴい人だよ、知識が深くて広い。古代から現代まで、なんでも質問したら答えてくれるし独自の考え方もある…あんな魅力的な人に会ったことない」


 まさに知の巨人だと言って、遼はまだ感動していた。大学でも狭い分野で知識量が豊富な教授はいたが、白石ほど広範囲で知識がある人には出会った事がなかった。それも在野の研究者だ。

 フロントのスタッフが、『白石先生は30年かけて朽ちかけて忘れられていた熊野古道をこつこつと発掘して整備した偉大な人物なんです。地元の為に世界遺産の登録にも尽力しました。提出する資料などほとんど先生が作成したと聞いてますし、まさに熊野古道の立役者なんです』と教えてくれた。なるほど、手がごついわけだ。


「スゴいから余計に悔しいんじゃねーか」と遼にまとわりついたので彼女も我に返って反省した。朱音は生まれてからずっとあの兄と比べられて生きてきたのだ。


「ごめん…。ねえ、あまり歩いてないから汗かいてないけど、先にお風呂、入る?御飯食べてからにする?」


「今、する…」


「…今からお風呂に入る、ってこと?」と遼は昨夜を思い出して、はぐらかすように聞いた。


「遼はバカだね」


 朱音は遼の手をぎゅっと握って露天風呂に向かった。

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