第3章

第1話  冷冷たる月

「お盆の旅行から帰ってきてからというもの、あいつの様子がおかしいんだ」


 朱音は仕事で電車移動中に山本に相談した。照れくさいのか、少し茶色い短髪を触って少し俯きながら。

 彼が素面で遼の事を相談したのは初めてだったので、山本は驚いた。


「そんな風には見えませんが…昨日も一緒に食堂でご飯食べてたじゃないですか?」と山本が答えたが、確かに微妙に朱音によそよそしい気がしたのは事実だった。


『朱音と私の事は仕事場で内緒にして欲しい』とお盆休み明け一番に二人の事を知っている人に頼んでいた。もちろんミカや朱音にもだ。

 彼女は人の目を気にするようなタイプではない。ということは、何か違う理由、という事だが、朱音はそういった事には全く気が付いていなさそうだ。

 あまりにニブい先輩を不憫ふびんに感じた山本は、


「山田さんと江上と堀と4人でご飯でも行って、さらりと聞いてみます」と助け船を出した。


 朱音は江上と聞いてちょっと眉をひそめたが、すぐに「頼む」と頭を下げた。




「遼さーん、さっき呼び出されて課長から総務課の秋の社員旅行の幹事を任されちゃいましたよぅ…」


 江上は情けない顔をして食券販売機に並ぶ遼にすがりついた。


「まあまあ、大丈夫だって。私も手伝うから」


 指導員メンターらしく遼が背中を撫でて慰めた。幹事などといった事が苦手そうな江上は、


「遼さん、行きますよね?過去に一度も参加してないってさっき課長に聞きましたけど…」と遼をジト目で見て聞いた。あまりに可哀想なので、


「うーん…じゃあ参加しようかな」と彼女が考えて答えると、


「あら、社内旅行?いいわね」と食堂のおばちゃんをしているユカが笑って言った。


「ユカさんも温泉一緒に行きましょうよー」と江上がさらっと誘っている。まだ温泉と決まってないし、ユカがこの会社の会長だと本当に理解しているのか遼はたまに不安になるが、そこが江上の長所だろう。


 遼が思わず笑って「そうですね、是非」とユカを誘うと呆れたのか破顔した。

 二人は魚定食をユカから受け取り、席に座った。今日はカジキのフライだ。


「やったー、がぜんやる気出てきた!絶対温泉がいいな、浴衣の山田先輩と温泉!!ユカさんも来れないかなー」と江上が騒いでると、


「うるさい、なに騒いでるんだ」と言いながら朱音が遼の隣に座った。


 苦笑いの山本が遼の向かいに座り、ケラケラ笑う堀が江上の前に座った。いつものポジションだ。

 

「意地悪な澤井先輩には教えませんっ」とそっぽを向いた江上に、「え、何々?どうしたの?」と堀が興味津々で聞くと、


「総務課の社員旅行の幹事になっちゃって。僕は浴衣の遼さんが見たいから温泉がいいなぁ…って」と速攻で答えたので向かいで聞いていた山本が堪え切れず吹いた。


「なんでオレには教えないんだよ!っていうか、おまえどうせ遼とは一緒に入れねーじゃねーか」


(くそっ、浴衣か…いいな) 


 江上に小さく反撃しながら、隣で静かに食べる遼を見た。麻のグリーンのブラウスに濃いグレーのふわりとしたワイドパンツ、パンプスは相変わらず苦手のようでかかとの低い黒い革靴。


(見たことない服…誰と買いに行ったんだ?)


 朱音は不安な気持ちを抑えながら、「なあ、今夜空いてる?」と遼にこっそり聞いた。


「…今夜は仕事で遅くなるかも…ごめん」


 遼は前を向いたままカジキフライを食べる手を一瞬止めて答えた。


(おまえ昨日もそう言ってたじゃねーか…旅行から帰ってから二人きりで会ってないってわかってるのか?なあ、オレの事が嫌いになったのかよ。会ったらいつもしてばかりだから?だって遼が毎日でも何回でも欲しいんだから仕方ないだろーが)


 そう言いたいのをこらえ、


「そ、そうか…仕事なら仕方ないな」と弱弱しく言って箸をぎゅっと握りしめた。確かに江上も最近残業続きのようで2人が忙しそうなのは知っていた。でも。


 思ったことは言うようにすると決めたはずなのに、不安が募るとまた元の自分に戻っていくのを朱音は感じる。ちぢこまって自信がない自分。

 山本がその様子を心配そうに見ていた。




「山田さん、最近澤井先輩と何かあったんですか?」


 金曜の夜、4人でイタリアンで食べ、駅に向かって歩きながら聞いた。二人は同じ方向の電車だ。

 遼は驚いて少し迷ってから、


「15分だけ聞いてもらえますか?」と大きい山本を見上げて聞いた。誰にも相談出来なくて困っていたのか、目が潤んでいる。


(ナニ、この可愛い珍百景…)


「もちろんです」と山本は答えた。

 



「で、どうしたんですか?」


 二人はどの駅にもあるような店に入って、コーヒーを頼んだ。すぐに運ばれてきたコーヒーを前に、二人は少しの間黙った。山本がコーヒーに口を付けると、それを合図のように、


「ごめん、時間をとらせて。あの…もしかして自意識過剰なのかもだけど…朱音って私のこと好きなのかなって」と遼が聞いた。


「ぐぶっ!」


 山本はコーヒーを吹きそうになるのを我慢したせいで、変な場所に液体が入って苦しそうにしてる。


「大丈夫?変なこと聞いてごめんなさい。お盆に一緒に旅行をしたんだけど、もしかしてそうなのかな、って感じることがあって。気のせいかもしれないんだけど」


「…気のせい?どういうことですか?」


 山本は落ち着きを取り戻して聞いた。


(あんまり好きになられると困る、ってことか?)


「朱音はモテるし友達も多い。だから普通のお付き合いだと思ってた。でも…」


 彼女の目の奥に何かが揺れた。


「もしかして、と思うことがあったんですね?」


「うん。でも私と結婚する気はないみたいだからわからなくなってきて。どうなんだろう?」


「う…っ」


(え、これって澤井先輩は山田さんのことめっちゃ好きですよ、って言ったらヤバい空気なのか…?よくわからないけど…)


「えっと、ちなみにとても山田先輩の事が好きだとどうなるんですか?」と探ってみる。


「…私も好きなので、彼が私を好きでいてくれるのはとても嬉しい。でも、この先結婚なんてことになるのは、困る…」


(えーっ、困るってなんで?!病気とか?ちょっと聞きにくいな…あ、でも二人とも結婚したくないのだから問題ないのか!)


「ああ、それなら大丈夫ですよ。澤井さんは『結婚なんて考えられない』って以前に言ってましたから」


(って、これで正解だよな…?)


「そうだよね…思い切って聞いて良かった、ありがとう」


 遼は明らかにほっとしてそう言った。




 山本はすぐに朱音に電話した。早い方がいいと思ったのだ。


「ちょっと本屋に寄って行くんで」と遼に嘘をつき、二人は駅前の飲み屋で待ち合わせた。


「あいつそんなこと言って…」


「はい、結婚したいと言われるのは困るそうです。良かったじゃあないですか、澤井さん結婚なんて無理…って言ってましたもんね」と少し嫌味を込めて言った。でも朱音は途端に苦い顔をした。


「う…実は、遼との結婚を少しだけ考え始めてた。オレのこともっと知って欲しくてお盆に実家に連れて行ったんだけど、思ってた以上に一緒にいるのが楽でさ…。でもあいつはオレとの結婚は重いってことか…そうか…」


 朱音は3泊4日のお盆旅行で遼がずっとそばに居る心地よさが忘れられず、急激に結婚に心が傾いていた。一緒にいる遼も同じくリラックスして楽しそうに見えたがそれは朱音の気のせいだったんだと思うと泣きたくなった。

 一気に暗くなった朱音に、


「いや、好きだから結婚なんてしなくても一緒にいたい、ってことですよ、きっと。澤井先輩の事を好きだって俺にはっきり言ってましたし、先輩には結婚の意志はない、って言ったらほっとして帰って行きましたよ」と勇気づけた。


「え、そうなのか…なんか複雑だけど…山本、いつもありがとうな…飲もうか…」


 朱音は安心したのかすぐに飲み屋で突っ伏してまた寝てしまった。相変わらずお酒に弱い。


(しかしあんなに結婚は嫌だ、考えられないってワイワイぐずぐず言ってたくせに…先輩もよくわからない。結婚して欲しいって言わない女性なんて最高に楽だと思うけど…つまりは本気ってことだよな、やっぱり)


 山本は少し前に別れたばかりの遼に電話をかけた。




「こんな時間に部屋まで運んでもらってごめんなさい」と遼は謝った。深夜の0時を過ぎている。


「タクシー代出すよ」と遼が財布を出そうとするのを山本が押しとどめた。


「大丈夫です、明日は土曜ですから。それより、先輩に優しくしてあげて下さい。お盆明けから澤井先輩が元気なくて。ミカさんは弱った先輩をここぞとばかりにからかってるし」


「私なんかで朱音がそんなに元気が出るとは思えないけど…」


 そう困ったように遼が言うと、山本はふっと目を細め、


「そんなことないです。おやすみなさい」と言って駅のほうに向かって歩き出した。

 終電はもうすぐ出る時刻だったので諦め、夏の夜を歩いた。歩きたかった。西に浮かぶ半分になった月に向かってもくもくと足をすすめた。




 ドアを閉めてカギをかける。

 遼は朱音の横にこそっと寝転んだ。もうお風呂は家で済ませてある。

 家を出る時「またか」と忠が嫌そうに言ってたのを思い出して小さく笑った。

 朱音は健やかな寝息を立てている。彼が寝ている様子を見るのが好きだ。


「心配かけてごめん…朱音に好きな人が出来るまでそばにいさせて欲しい」


 彼を起こさないよう腕に抱き着いて眼を閉じるとすぐに睡魔が彼女を襲った。

 彼女が寝息を立てはじめると、朱音がゆっくり目を開け、起きないように彼女の頭を優しく撫でた。永遠といってもいいほど長い時間をかけて祈るようにつやつやの短い髪を撫で続けていた。




「おはよ」


 眼を空けると、遼が目を覚ますのを待っていた朱音がかがんで軽くキスする。


「…おはよう…そっか、昨夜は朱音が飲み屋で潰れて…」


「悪かった、迷惑かけて」


「大丈夫、暇だったから」


 遼の週末にやることといえば家の掃除だった。先週末は気合を入れて家と庭を掃除したので今週はまあ手抜きしても大丈夫だった。


「なあ遼…いや、せっかく休みだしどっか行きたいとこないのか?」


「うーん、体力付けたいから散歩したい」


「さ、散歩?いいけど…なんで体力?」


(オレがいつも部屋で籠っていちゃいちゃしたがるから嫌なのか…?二人きりになりたくないんだ…)


 急に今までと違うことを言い出す遼に少しビビりながら訊ねた。


「えっと…白石先生と熊野古道を全部歩いてみたい。距離が長いから体力がいるし…」


 遼はそう言ってから朱音の顔色が変わっているのに気が付いた。


「朱音も興味あるなら一緒に行ってくれる?」


(お、オレの顔色を見るとは大進歩だな…しかし体力を付けたいなんて遼の口から出るとはね…先生の書いた本もネットで探して取り寄せて読んでたし、白石先生の影響は大きいな)


「当たり前だ、お年とはいえ男の先生と二人きりなんかにさせられねーだろ?!」と言って、遼をベッドから引きずり出して持ち上げ、リビングに運んだ。


(くそっ…人の気も知らずに…いくら尊敬する先生でも、朝から他の男の話しやがって…)


「ひゃっ…朱音、乱暴っ」と言って、寝起きの遼は朱音に弱弱しくしがみついた。彼女の細い腕が彼の首に絡まるだけで身体の芯からゾクリとするのがわかる。目の前の白い首筋に噛み付きたくなる衝動を無理やり抑え込む。


(本当はおまえとしたくてたまんねーけど、嫌われたくないから我慢する。毎日毎時間一緒に居たいけど、それも我慢する。おまえの為ならなんだって我慢するよ。でもおまえはオレがどれだけ大事に思ってるのか、全くわかってねーんだろうな…。この世界が終わってしまってもおまえだけは絶対に守る、そんな事言ったらまた重すぎて避けられるのかもしれねーし…。とりあえず当分は遼から誘われるまで禁欲生活だな、これ)


「さ、ご飯食べようか」


 朱音は遼を机の前に優しく降ろす。そこには出来立ての朝食が並んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る