第8話 熱月

 千石が応援に来たのを機に、遼はゆっくり風呂に入った。


「ふう」


 肩まで湯につかって朱音の事を考える。

 先週も何度か会ったのに、なぜこの週末に会えないくらいであんなふうになるのか。仕事だから仕方ないではないか、私には断る権利もないのか…?やはり遼には理解できなかった。


「ご飯を買ってきたよ」


 遼が部屋着のスエット上下で風呂から出てきたら、キッチンの小さな二人用テーブルには隙間なく昨日と同じ高級中華料理が並べられていた。そこに江上と向かい合って座る。


「えー昨日と同じ中華?!千石さんって…もしかして味音痴?」と江上が言ったので遼は思わず笑ってしまう。確かにいくら高級でも2日連続だと嬉しさ半減なのも確かだ。


「何言ってるんだ、昨夜君たちが嬉しそうに食べてたから好きなのかなって思ってわざわざ買ってきたのに…ひどいな」


 千石はショックな様子で苦情を言った。

 江上は文句を言った割には、「美味しいね」と遼に言いながらぺろりと平らげた。つまりは千石のことが気に入らないのだろう。もちろん遼も美味しく頂いた。

 千石はそんな文句を言われつつも、ゴミを片付けた後、テーブルを拭いてデザートの杏仁豆腐とコーヒーを運んできた。マメだ。


「で、様子はどうだい?午後は会議に出席してたから、来るのが遅くなって悪かったね」


「まあまあ、っすよね、遼さん?」と江上が杏仁豆腐を食べながら気の抜けた返事をする。重大な事案がデザートの杏仁豆腐の味の評価のように軽いものに聞こえたので千石は笑いをこらえた。そして、


「あれ、遼さんになったの?」と意外に繊細なところを見せた。


「だって山田先輩って言いにくいし長い」と江上が面倒そうに答えた。


「そうね、やつらがひっかかってきたら千石さんには準備してもらおうかしら」


 遼がコーヒーを飲みながらやっと千石に答えた。


「準備?」と千石は怪訝けげんな顔をする。


「最終目的は一斉検挙なんですよね。なら、相手がいい気になってる時に、のほうが面白いでしょ?最上もがみに手を出したらどうなるか広く深く思い知らせてやらないとね」


 そう言って遼が右の口角を少し上げて残酷に笑ったので男二人はぞくっとした。

 遼は自分の勤める会社にそのクラッカー集団が脅迫をしていると聞いて静かに、しかし深く怒っていた。二度と最上にはちょっかいをかけようとは思わない程度の仕置きが必要だ。

 遼がそんな風に笑う所を江上は初めて見た。いや、実際は6年前の計画が成功した時もそんな顔をしていたのかもしれなかった。


(むっちゃえー)


 正反対な二人は目を見合わせながら、初めて同じ事を思った。




 深夜の2時。計画通り、政府のホームページを乗っ取るウエブ攻撃が始まった。


 遼と江上は仕事に備えて夕飯の後仮眠を取ってある。

 KiDからの指示で各自が振り分けられた仕事をこなし、トップページにどどんと犯行文を載せ、次に入りやすいようバックドアを何か所か仕掛ける手はずになっている。もちろん遼と江上はKiDに表面上は従い、クラッカー側に入って攻撃に参加している。


 攻撃から2時間程経った頃には「おいおい、おまえらやり過ぎんなよ」と千石がはらはらしながらNISCの部下と共に作業をしていた。このままだとあと1時間ほどで修復不可能なくらいに破壊されて乗っ取られてしまいそうだった。プログラム修復に対して、攻撃の手が多すぎる。


「大丈夫ですよ、もうすぐ…」と目を輝かせながら江上がキーボードを高速で叩く。ぱっと見、オンラインゲームをしているようにしか見えない。


『もうすぐ、何だよ?』と千石が江上に言おうとしたら、


「突き止めた。はい」と遼が千石にデータを送った。


「おい、これって…」


 ずらりと並ぶハンドルネームと住所の一覧だった。


「クラッカーたちの大体の居所です。彼らはこのホームページを乗っ取るまではそこにいるはずなので、捕まえて下さい」


「で、でも…」


 あまりの早さに信じられないようで千石の脳がフリーズしたようだ。開始からまだ2時間ちょっとしか経ってない。


「早く」と言う江上の言葉で目が覚めたようだ。


「は、はい…」


 千石は警察を手配した。


「あと30分ほどで捕まるそうだ。でもなんで…」


「ああ、僕が遼さんの分もアタックして、その間に遼さんが居所を突き止めました」とさらっと江上が種明かしした。


「このホームページもあと1時間はもちます。私たちの仕事は実行犯の居場所を突き止めることですよね?バックに誰がいるかは、良かったらログを辿ってじっくり後日捜索します。もちろん別料金ですが、私としては二度とこんなことができないくらいにそいつ、もしくはそいつらにお灸をすえてやりたいですね」


 千石は眉間をぎゅっと寄せ、


「え、でもこれは壊されたら困るんだ…彼らを止めてくれないのか?」と聞いた。


「ナニ言ってるんですか、攻撃してるのは僕らが昼間にまるっと作ったです。そっくりさん。本物は今はカモフラージュされて違う場所で何重にも守られてます」と呆れたように江上が言った。


「え…君たち今日の午後からこのホームページをプログラムから作ってたの?半日で?ウソだろ?」


「いえ、マジですよ。それっぽく中身を似せて作って、3重に強固な防壁を作りましたから、あいつらにはまだ壊せないはずです」


 何でもないことのように江上が言った。


「偽物だって気が付かれるかと心配してたけど、全然だったわね…なんかがっかり。あら、2時間もかかって今2個目の防壁が破られたわ。手が多いくせに遅い…これでクラッカー集団を名乗るなんてめてるのかしら…」と心底不愉快そうに眉間に皺を寄せた。


「本当っすよね、遼さんなら1人で2時間もあったら全壊できそうなのに」


「そうね、もう少しはかかるかも…こっそり部分的に書き換えくらいなら30分くらいで出来そうに見えるな…千石さん、良かったら脆弱点をレポートにして出します。もちろん有料ですが」

 

 そう遼がキーボードを叩きながら無表情で言うと、千石がやっと安心したようで、


「それは是非お願いするよ」と答えた。

 

 本当に30分程で『都内各地で一斉逮捕』の連絡が来た。

 千石は自分たちで作った偽のホームページを自分たちで嬉しそうに壊し続ける二人の天才ハッカーをモンスターを見るように眺めた…。




「もう仕事は終わったのか?」


 土曜日の朝8時、遼は一連の報告書を書き終わり、一睡もしないまま朱音に電話をした。久しぶりに興奮したのと、昨夜千石が来て御飯を食べてから攻撃開始の深夜2時までぐっすり仮眠をとっておいたから全く眠気を感じなかった。


「うん、早く片が付いた。週末暇になったけど…会う?」


 本当はご機嫌斜めな朱音の為に、江上に協力してもらって大掛かりな仕掛けを作って早々に終わらせた。

 朱音はまだ眠い目をこすりながらも、珍しい遼からの誘いに嬉しさを隠しきれずにうきうきと返事をした。


「おう。じゃあ、家まで迎えに…」


「いいよ、朱音の部屋に行く」


「…疲れてるだろ、いいのか?じゃあ待ってる」と朱音が嬉しそうに言って切ったそばから来客を知らせるベルが鳴った。


「なんだよ、こんな朝から…部屋を掃除したいのに」とぶつぶつ言いながら、「ハイ?」と聞くと、「山田です」という返事が返ってきた。


 驚いて戸を開けると、小型のスーツケースを引きずった遼が立っている。

 中に入れてもらってすぐに朱音に抱き着こうとした彼女を、朱音が両手で押し留めた。


「怒ってる?」と遼が下から覗き込むようにして聞くと、


「違う。…なあ、遼はオレの事どう思って…いや、違う。オレ、遼が好きなんだ。すごく、とても好きだ。付き合ってくれないか?」と遼をじっと見て言った。


「偶然。私も、朱音の事好きだって言いに来た」


 遼は少し赤くなって答えた。




 朱音の部屋のベッドでいろんな話をする。もう昼近かった。


「どこに行きたいの?」と遼が聞くと、


「そうだな…水族館とか動物園とか…」と彼女の反応を見ながら朱音は答えた。彼は別に特定の場所に行きたいわけでなく、遼と出かけたいだけだった。


「…いいね。でも私は朱音をいつも怒らせてるし嫌にならない?穏やかな朱音が怒ってると、私でいいのかなって心配になる…っ」


 朱音が遼の唇に自分のを何度も角度を変えて重ねた。遼の身体が本物か確かめるように触り、それでも不安そうに唇を離した。


「オレ…遼の事が好きすぎて、いろいろ我慢できないんだ…ごめん。ちゃんと告白もしてないのに勝手に嫉妬して怒ってばかりだったし、嫌われたかと思ってた。今でも、遼がオレを好きだっていうのが信じられないし、お前をいつも笑わせてる江上の野郎に嫉妬してる…」


「江上君?妹だって言ってるでしょ?あっちも私をお姉ちゃんだと思ってる。それに…彼は私にちょっと似てるから、ね」


「ね?」


「朱音もきっと好きになれる」


「えー」と不満げな声を漏らす朱音に、遼がチュッと音を立てて軽くキスをする。


(江上を好きになれる日が来る?)


 そんな馬鹿な、と苦々しく思ったが、嬉しそうな遼を見ると朱音の顔が緩む。

 彼女の表情が忠たちといる時の表情に近くなっている気がして、嬉しかった。




 結局その日は外に出ないで朱音の部屋で溶け合うように何度も重なった。


「遼のこと、追々でいいから、教えてくれないか?不安で仕方ない。あと、もっとオレに頼って欲しい」


 二人はベッドで、甘い疲れを感じながら寝転んで見つめあっていた。


「じゃあひとつ」


 朱音は自分から言い出しながらも、遼の言葉にドキッとして上半身をびくりと起こした。


「なんだ?」


「初夏はダメなの。私が8歳の時、6月に本当の両親を亡くしたから。でも、こうやって」


 遼は寝ころんだまま、朱音のがっしりした首に細い白い手を回して彼の身体を引き寄せた。彼の優しいドングリ眼を至近距離で見つめる。


「好きな人と楽しい思い出を作って上書きしたら、苦手な季節もきっと好きになれると思う…」


 朱音は彼女の告白に衝撃と憐憫を感じて目を伏せた。もしかしたら彼女は自分が思っている以上に辛い人生を送ってきたのかもしれなかった。


「そっか…あんなに怒って…ごめん」と言うのが精いっぱいだった。


「いいんだ。でもね、初夏はダメだって毎年諦めてたけど、朝ここに向かう時、すごく幸せな気持ちになってた」


「でも…あんな不安定な遼が近くにいたら、オレは心配で気になって仕方ない」


「不安定?」と遼が驚いて聞いた。会社ではいつも通りにしているつもりだったのだ。


「特に今週の木曜の朝は寝不足で目に涙を溜めてぼんやりしてさ、会社のエレベーターで遼を抱き締めて何度もキスしたくて…死ぬほど我慢した」


 先日の混み合うエレベーターの中を思い出し、遼はその時と同じように上目使いで朱音を見た。彼の胸に手を当てていた遼も朱音にぎゅっと抱き着きたい気持ちだったのを思い出す。


「キスだけ…?」


「うん…違うな…」


 朱音はその時したかったように、遼にキスしてから、白いうなじに唇を這わせる。ショートカットにしてから彼女の首が外界に解放されて、他の男の眼に付くのが気になって仕方なかった。


(髪の毛、伸ばしてくれないかな…刺激が強すぎる)


 彼女のすべてを占領したい、誰にも見せたくないという独占欲は、付き合えることになっても朱音の身体の奥でじわじわ増え続けていた。

 朱音が触れるだけで遼が気持ち良さそうにしているのを見ると、自分より経験のある他の男とならどうなるんだろうと考えてしまう。


(だめだ、これじゃあ、部屋から遼を出せねーじゃねーか…。一日中部屋で籠ってセックスなんて、十代じゃあるまいし…)


 そう思いながらも、遼の身体に夢中になっていく熱い自分に抗えなかった。

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