第2話 青い月
「山田せんぱーい、おはようございますっ。あれ、ちょっと寝不足ですか?どうしました?」
江上が少しからかうような目をして聞いた。
ほんのりブルーの
「大丈夫。ごめんね、心配かけて」と無表情で答えた。
江上は遼を掴み切れなかったようで、少し笑っているような困っているみたいな顔をした。
今までに見せたことのない表情だった。
午前の仕事を終え、「食堂で定食おごるよ」と遼が言うと、江上は嬉しそうに白シャツとグレーのふわりとしたスカートの遼に付いてきた。
髪がショートになってからというもの、忠がスカートをやたら着るよう勧めてくるので昨日の勿忘草色のシャツと一緒に購入した。夏着物のリメイク商品で、織の斜め格子柄が細かく入っている。
秘書課や総務課での評判はいいが、朱音は遼がそれを会社にはいてくるとなぜか微妙に嫌な顔をした。
江上は肉定食の牛丼定食、遼の魚定食はイカのトマト煮込みだ。
「頂きます」「どうぞ」
しばらく午前の仕事の話をしていたら、ふいに江上が、
「昨夜は澤井先輩と居たんですか?」と聞いた。
(なるほど…)
「じゃあ、EMAは何してたの?」
食べ終わった遼は、開けた白シャツの胸元から見えるネックレスを無意識に弄びながら質問に質問で返した。
「でえっ!?」と江上が叫んで立ち上がり、椅子がバダンと床に倒れる音が食堂に響いた。
「さ、じっくり話しましょうか。ここからは会社は関係なし、対等、ってことで」
遼と江上はいつものイタリアンレストラン、レノンで向かい合わせに座っている。
また仕事の後に二人で会いたいと朱音からメールがあったが、今夜は江上と約束したと返信したら連絡が返ってこない。昨夜会ったばかりだし、最近営業一課は暇なのだろうか、と思ってしまう。
「…ごめんね、僕あいつらから誘われて怖くなって…」と江上が神妙に言ったけど、遼は全く信じてなかった。
「ウソ、EMAがそんなの怖がるわけないの知ってる。私を試しただけでしょ。それよりなんで最上に?」
「もちろんRYOを追っかけてさっ。僕の知ってる中で最高にクールな憧れのクラッカーだもの。いつも『hackme』とかのハッキングサイトでも名前を変えてランキング上位にいるでしょ。やり方のクセでわかるんだ。僕は入りたい会社もないし、したいこともないから、どんな会社にRYOがいるのか調べて同じ総務に入れるように人事部のPCに侵入して操作したんだ。あ、入社試験の点数も少しだけね。筆記はいいんだけど、僕面接とかダメなの、わかるでしょ?」と茶色の髪を遼に見せつけるように触った。
悪い事をしてるとは全く思っていない様子にさすがの遼も呆れた。
侵入経路を詳しく聞くと、本社はガードが固いので、北海道支社の取引先にマルウエア入りのメールを送り付け、そこから本社に感染させてネットワークのバックドアからアクセスした、と悪びれず言った。最近流行の手口だ。
(マジか…これはミカさんに報告しとかないと)
「でもさすがRYOだね、昨夜メール開いたくせに、もう僕まで辿り着くなんて!2、3日はかかると思ってた」と目を輝かせた。
「お褒め頂いて嬉しいけど、もう私はクラッカーじゃない。EMAも止めときなよ、ホワイトハッカーになるなら最上のシステム部に移動願い出せるのに…EMAの実力ならセキュリティエンジニアで年収も上がるはずだよ」
「うそ、つい2か月前に銀行や潰れたM商事をクラックしたじゃん、知ってるんだよ。でも相変わらず軍需産業嫌いなんだ。潰しちゃうなんてRYOらしい、ふふふ、しびれるなぁ」とニコニコしながら言った。
「な、なんで知ってる…?!まさか時間をかけてログを追ったの?本当に止めてよ」
「暇だったから。でも入社してすぐにRYOが事件に巻き込まれて入院したって聞いてびっくりした。だめだよ、僕らは現実世界では力がない最弱者なんだから」と注意した。どちらが年上かわからない。
「はー」
(本当に呆れた…とんだ私のファンだわね)
「で、EMAはこれからどうしたいの?」と呆れながら遼が聞いた。
「うーん、あいつらにしつこく付きまとわれるとキモイから断りたいけど、大きなお祭りがどんなか気になるから断るのももったいない、ってとこ。RYOもそうでしょ?」
遼はドキッとした。そうなのだ、確かにとても気になってる。
「…そうだね、その通りだ。お祭り会場を知ってから考えてみようかな、もしお誘いが来たらだけど」
「そうだね、楽しくなってきた!あいつら自信過剰のへっぽこだし、RYOがスゲーって知ってるから、絶対連絡来るよ」
江上がやたら嬉しそうに言うので、遼は大きくため息をついた。
取りあえずは、ミカにシステムの脆弱性の指摘をしないとな、と彼女は考えながらビールに口を付けた。
そして、江上と最近のウェブシステム構築とクラッカーの傾向を話し合った。後輩とはいえ同じようにプログラミングの趣味を持つ友達がいるのもいいな、と思いながら。
「機嫌いいな…昨夜江上との御飯がそんなに楽しかったのか?」
会社の食堂で隣り合わせで定食を食べながら、朱音はいつもと同じように見える無表情の遼を刺すように見つめた。
(う…なんでわかるんだろう?昨夜の話の内容を見透かされてるみたいだ)
遼が後ろ暗さでふいっと目を逸らしたので、朱音は思わずカッとなった。そこが会社の食堂であることを忘れて、彼女の箸を持つ右手首をぎゅっと掴む。プラスチックの黒い箸が机に落ちた音で周りが振り向いた。
「朱音、痛いんだけど…」と小さく声を出す彼女の様子を彼はじっと観察している。
(朱音が怒ってる…?なんで…)
「質問に答えろよ」と言って彼女を握る力を強めた。遼の端正な顔が痛みで歪んだ。
「こんなとこで何してるんですか、先輩!」
朱音の手を食堂に来たばかりの山本が慌てて外した。
『悪かった』
午後の仕事が始まってすぐに朱音からメールが入った。それを見た遼は彼女にしてはかなり困った顔をしていた。周りからはよく見たら微妙にわかる程度の表情だが。
こういったときにどうしたらいいのか見当もつかなかったのだ。
(『いいよ』と送るのが正解だろうか?いや…なんで朱音が怒っているのかもわからないのに、いいよ、もないな…)
悩んでいたら江上にすぐさま気が付かれてしまった。
「どうしたんですか、山田先輩?午後からおかしいですね」
遼より少し背が高い江上が遼の顔を覗き込んで軽く声をかける。
相変わらず距離感がない彼の顔が目の前にある。近すぎて彼の髪の毛がふわりと遼の頬に触れた。軽い口調とは裏腹に、真剣に心配してくれているのは空気で遼に伝わった。
(あなたとご飯を食べに行ったせいだよ、とは言えないな。違う、これは私のせいだ…)
彼女の過去したことをすべてぶちまけるわけにはいかなかった。それを言ったら殺された両親の話からしなければならないだろう。
朱音や家族に万が一でも迷惑が及ぶのだけは避けたい。いつかこの居心地のいい状態が自分の罪のせいで終わるのは仕方ないにせよ、もう少しだけ楽しい時間を続けたかった。
「いや、何でもない。ちょっと頭が痛いだけ」
それを聞きつけた課長が、
「調子が悪いなんて珍しいね…山田君、今日は無理せず帰りなさい。顔色も良くないし」と優しく声をかけた。
3月の半ばから4月に遼がいない際、よっぽど困ったのだろう。総務課に帰ってからは過保護と遼が感じるくらい大事にされており、同僚に申し訳ないくらいだった。
(ミカさんとも少し話をしたいしな…)
「ではお言葉に甘えて、仕事にひと区切りついたら帰らせてもらいます。申し訳ありません」
そう遼が頭を下げて言うと、課長は責務を果たしたという顔で満足そうに席に戻って行った。江上は少し心配そうに遼を見ている。
遼は早速ミカに『話したいことがあるので15分下さい』とメールした。
「えー、それはダメだねぇ。システム部と上層部に
ミカは人のいない食堂で遼の話を聞いた。彼女は遼のメールにすぐに返信してきて、ここで待ち合わせとなったのだ。
相変わらずフットワークが軽いし鋭い。そこに食堂の仕事を終えたユカもやってきて、コーヒーを遼たちに差し出した。ミカが声をかけたのだろう。
「社内イントラネットシステムの脆弱さは以前から気になってたの。ただ、あなた級のクラッカーだとどんなシステムを構築しても歯が立たなさそうだわね。そうだ、山田さんが総務とセキュリティエンジニアを兼任するのはどう、給料倍出すわよ。あなたなら出来るでしょ」と会長は笑った。
(笑い事じゃない、それでは家に帰れないじゃないか)
「そうですね、午後からお休みを頂いたので家からシステムに一度侵入してみて、気になる部分を報告させてもらいます」と後半は無視して返事した。
セキュリティエンジニアはゆくゆくは管理職になっていくから、人付き合いの苦手な遼には全く向いていない。朱音のように対人関係が得意な人物が適任だ。
「あら午後から休みなんてどうしたの?あの彼氏とケンカ?」とユカがニヤニヤしながら遼を見た。ミカがそれを聞いて嬉しそうに目を輝かせる。
「見ていらしたんですか?でも朱音は彼氏ではないです…」
遼の顔が赤くなった。
「目立ってたからねぇ。若いわねー、いいわねー」とユカがからかうと、ミカも、
「そっかぁ、だから午後から朱音の様子がやけにおかしかったはずだ!そわそわして心ここにあらずでゴミ箱とか倒してた。いいこと聞いた、さっそくいじめてこよっと」と言って一気にコーヒーを飲み干して立ち上がった。
(なんなんだ、この人たちは…全く!面白がってっ)
「絶対やめて下さい。朱音の仕事の邪魔になりますから」と遼が怒りを込めてミカを見た。彼女は、
「ちぇ、山田は怖いな。わかったわよぅ、会社が潰されそうだから」と子供のように口を尖らせて食堂を出ていった。
ユカと遼は顔を見合わせてから、思わずプッと噴き出してしまった。
帰宅すると3時過ぎだった。
「ただいま」
当然だが家には誰もいない、皆仕事に出ている。先ほどまで無人だった家はまるで他人のような顔をしていた。弟たちがいないこの家の無意味さと寂しさを感じながら、遼はシャワーを浴びた。
いつかここには自分以外誰もいなくなるかもしれない、そう思うと古代の真っ暗なほら穴にぽつんと独りでいるような気になってくる。
さっぱりした遼は濃いコーヒーを淹れ、PCを立ち上げた。コマンドを打ち込んでwindowsの画面をGUIからCUIに切り替え、さっそく最上化成のウエブシステムにハッキングを始めた。
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