第2章

第1話 新月

「山田せーんぱーい」


 季節はもう6月で初夏になっていた。アジサイが淡い青やピンクで咲き誇り、日々人々の服装が軽くなっていく。


 新入社員の江上満えがみみつるが遼の後ろを追いかけるようになって1か月ほど経った。

 細身で背が少し低めで顔が小さく色白、髪は栗色でサラサラ、目もくりくりしたアイドルのような顔立ちの江上は、4月から総務課に配属されていた。

 彼は女性社員から熱い視線を受けている。それは総務課に来る女性の明らかな増加でわかった。彼が受付するのを目当てに用事を作ったり奪ったりしてやってくるのだ。


 遼がいなかったおかげで4月は異常に忙しく、誰も系統立った指導を彼に出来なかった。5月からは復帰した遼から指導を受けている。

 今回の事件で懲りた課長は、遼がいない時に備えてある程度は仕事を分担する方向に舵取りすることにしたようだ。その分遼の手が空いた。

 初めに遼が新人教育担当の話を打診された時、


「え…私ですか?正直なところ、私なんかでは教育係メンターは無理かと…余計に皆様にご迷惑をかけそうです」と自信があまりにもなくて断ったが、課長は、


「いや、最近の山田君なら大丈夫だよ、僕が保証する」と自信満々で言った。


(何をどう保証するというのか…)


 遼には不安しかなかったが、実際江上を指導してみるとなかなか面白く、自分の再学習にもなることがわかった。

 それに何と言っても、


「山田せーんぱい、これってどうしたらいいですかねえ?」とあたりにはばからぬ大声で聞く江上は、空気は読まないが驚く程業務の習得が早かった。

 一度教えたことは二度と聞かれることはないし、さらっと読ませた資料でも覚えている。


(似てるから課長は私に任せたのかも…)


 始めは総務課で教えていたが、江上が余りにうるさいのと、距離感があまりに普通と違い過ぎて遼がいたたまれなくなり、仕方なく個室を借りて二人並んで教えながら仕事をするようになった。


「ああ、これは…」と遼のパソコンで参考資料の場所を教えようとすると、顔をくっつけんばかりに同じモニターを覗き込む。


 最初は「近い」と注意していたが悪気はないようだし、これについてはいつまでも学習しないようなので、遼は早々と諦めた。

 害はないのだから、弟だと思えばいい。実際遼の双子の弟と同じ年だった。


 彼にはパーソナルスペースというものがないのか、身体もやたらくっつけてくる。いくら遼でもこれでは皆がいる前では指導できない。下手したら女子社員からセクハラしてると言われてしまうだろう。


(ああ、こういう空気が読めない・読まないとこも私と似てる。客観的に自分を見れるいい機会だ)


「おまえら…会社の個室でなにやってるんだよ!ベタベタすんな!!」と朱音がいつものように偵察に来て怒りながら入室すると、


「あー、先輩、入室禁止の札かけてありましたよね。僕たち仕事中だから入ってきたら邪魔ですよ」と逆に素で大声で注意するので、遼は思わず口角があがってしまう。

 もちろん朱音が怒り、二人はいつも言い合いになった。




「なー、どうにかならないの?」


 朱音が肉定食の冷しゃぶを水菜と一緒に口に運びながら聞いた。ポン酢でなくゴマダレ派のようだ。


 彼女はめくりあげた白いシャツの袖から出た朱音の筋肉質な前腕をちらりと見る。遼は彼の少し焼けた腕を見るたびに九州でなんの間違いか肌を重ねた一夜を思い出す。その腕が何度も自分を強く抱きしめたのを思い出すと、昼間から何とも言えない快感が身体の芯を支配する。

 でもそんな素振りなど全く見せない彼女はいつもの無表情で、


…もしかして江上君?」と聞いてから、アナゴのてんぷらに塩を付けてほおばった。今日の魚定食だ。


 夏が近づくと、アナゴやウナギが魚定食になる確率が高くて遼は密かに喜んでいる。彼女はアナゴとウナギに目がなかった。


「…江上あいつしかいねーだろ?」


 朱音は不機嫌そうに答えた。確かに二人は正反対だと遼も思う。

 でも、江上に悪気がなさそうなので箸を置いて援護した。遼は弟のような江上にすでに情が移っているし、少し自分に似ているせいか否定されると辛く感じてしまう。


「彼、私に似て空気が読めないし、人との距離感が少し…いや、かなり違うけど、でも覚えが早いんだ。見苦しいのはわかるんだけどもう少しだけ我慢して欲しい」と遼は頼んだ。


 彼女はブルーの薄手の麻のブラウスとグレーのワイドパンツを履いていた。ブラウスの下の見せるインナーが気になってたまらない朱音は、申し訳なさそうに自分を見つめる遼にたじろいで目をそらした。

 少しだけ伸びた真っ黒のショートヘアが良く似合っている。孝がこまめにカットしているようでいつ見てもどこか雰囲気が違う気がしてドキドキさせられる。実際は寝ぐせだったりするのだが。


(見苦しい、なんて言ってねーよ!羨ましい、っての!!)


「あいつが少し前に経理の若い女性社員に言い寄られてるとこに出くわしたんだけど、クールに断ってたぜ。遼の前でだけ違う気がするんだよなー、なんかやたらイイ子って感じで…」


 そこがまたムカつく、とは朱音もさすがに言えなかった。


 朱音はその時の江上の様子を思い出す。

 スマートに断った後、女性がいなくなってから『ちっ、めんどくせえなあ』と小さくつぶやいたのを聞いてしまった。


「そんなわけないじゃない、何のために?」と遼はあまり信用していない様子で聞いた。朱音が反感で話を盛っていると思っているようだ。


「や、それはわかんないけど…なんか嫌だ」と言いながら、朱音は今すぐに遼の手を握って、『オレはおまえが好きだから、あいつとじゃれて欲しくない』と言えたらどんなに楽になるだろうと考えていた。


「まさかモテる新入社員にヤキモチ?営業一課の未来のエースが?」と遼は冗談を無表情で言ってから、定食を食べるのを再開した。


「そんなわけねーだろ」とバカにするように言い放った朱音は、『そうだ』って言うチャンスだったのに…こんなに素直じゃない自分を呪う、と心でつぶやいていた。


 本当は遼が後輩を指導するなんて成長したなと感動していたし、江上と朱音のやり取りで笑う遼が見られるのも悪くないと思っていた。会社で微笑む遼はとてもレアなのだ。

 しかし、今彼が最も引っかかってるのは、自分の身勝手な嫉妬から遼を傷付けてしまった九州でのあの夜のことだった。


(謝りたいってずっと思ってるのに、どうしても言えない。もう2か月もっちまった…)


「…なあ、話したいことがあるんだ。今夜空いてないか?」


 一瞬遼の顔が『また?』となった気が朱音にはした。遼が本社に戻ってから何度も二人きりで食事に行っている。


(またか、何だろう、って顔してる。そうだよな、オレ達付き合ってもないのに…)


「空いてる。じゃあ、店で」と遼がクールに答え、携帯を見た。もうすぐ休憩は終わりだった。


「おう」


 二人はトレーを持ち、返却口にお礼を言って戻した。





「で、話ってなに?」


 遼はいつもの席に着いて切り出した。

 開けられたシャツの胸元のダイヤのネックレスが揺れる。九州から帰ってからは指輪はしていない。女性狙いの強盗に襲われないかと忠が心配しているから外している。


(既視感がすごい…先月からここに朱音と来るの何回目だろう?いつもミカさんや山本さんたちの話をしてるけど、別に会社で昼休みに話すればいいのに。もしかしてを気にしてるんだろうか…?)


「今日のシャツ、初めて見た。綺麗な色だな、誰が選ぶんだよ?」


「ああ、これは勿忘草色わすれなぐさいろだって。忠が選んでくれたの、珍しいでしょ?」


 長かった髪を切って遼がショックを受けていると思い込んだ忠と孝が、やたら遼に服や物を買い与えていた。朱音も最初は遼が落ち込んでいるかと気を使っていたが、髪が短いのも楽でいいと思ってるのがありありだったので心配するのを止めた。


「勿忘草…」と朱音がぼそっと言ったので遼ははっとなった。


(もしや…勿忘草の意味を考えてる?)


「注文するね」


 遼が店員を呼んでいつものメニューを注文する。それを朱音は考え込みながらじっと見ていたが、店員がいなくなってからおもむろに話し出した。


「あのさ…、あの九州でのことだけど…」と言ってからじっと黙り込んだ。


勿忘草Forget me not…私を忘れないで、か。私はもちろん忘れてない。でも朱音は忘れたいのかもしれない、な…)


「あの夜の事は忘れて。私が泊まらせたんだし、朱音は気にしないでいい。ごめん、ずっと気にしててくれてたんだ」


 朱音はそれを聞いてびくっと身体を震わせ、誰もいない隣の席をじっと見た。そして、そのままの姿勢で、


「だ、大丈夫なのかよ…」と遼と眼を合わせずに聞いた。


(…妊娠してるか、ってことか…?)


「うん、大丈夫みたい。あ、料理来た、食べよう」


「おう…」


 口数がめっきり少なくなった朱音はあまり話もせずに帰って行った。


(どうしたんだろう?謝りたかったのか…?)


 帰りの電車に一人乗りながら遼は考えたが、全然わからなかったので考えるのを止めた。




 その夜、遼のパソコンにメールが届いていた。


『RYO様


 お久しぶりです、EMAです。

 あの最高に楽しかったお祭りから6年になりますが、RYO様はお元気ですか?


 MVでの仲間が本格的なクラッカーになってるようで、大きな仕事が近々あるから組もうと誘われています。

 私はホワイトになるつもりもないですし、もちろんブラックもないなと思ってます。

 が、しつこいのでRYO様が参加するならいいよ、と返事しておきました。

 もうすぐ懐かしい人から連絡が来るかもしれません。


 ではまた連絡します。


EMA』



(これは…)


 朱音と会った後に帰宅してぼんやり風呂に入ったが、PCに来たメールを読んだら目が覚めた。


(EMA…懐かしいな。あの時は幼い感じだったけど、今は何歳くらいなんだろう?)


 6年前のお祭り、とはチームを組んで軍需企業のシステムをクラッシュした時のことを指すのだろう。もちろん、その後の企業の成れの果ても知っているはずだ。

 遼は成功した翌日に契約より多めの報酬を振り込んでMVはきれいさっぱり解散した。

 やり取りに幼さを残したEMAは能力が高く、遼が若さの勢いで付けた『非破壊組織MV(マルチビタミン)』なんて馬鹿げた名前のチームに軽いノリで参加して協力してくれた恩人でもある。正直EMAがいなかったら作業はきつかった。


(でもこうやってまたメールがくるとは…EMAは何を企んでいるのだろう?私を仲間にしたい?それに大きな仕事って…そんなの気になるじゃないか…)


 昔と違って今の世の中はすべてが複雑に入り組んでいる。関係ないと思っていてもどこかで関係があって株価がどっと下がったり上がったりして会社に大きく影響を与える。

 下手をすると材料が入らなくて工場の生産が止まってしまうこともある。そうした場合の損失は計り知れないのだ。営業が半分になっても会社は傾かないが、工場はそうはいかない。最上化成はモノを作る現場が一番の基本だった。

 だからこそ最上は普段から余分に材料や部品を持つように会長が指示してる。中小を在庫置き場のように奴隷勝手に使って利益を上げている大企業を見て、最上が時代遅れだと指摘する社内の声もある。しかし遼は在庫はリスクマネジメントとして当然だと思っていた。他人に手綱を握らせるな、それは物がない戦中からの厳しい時代を生きた先達である創業者の教えでもある。

 しかもメールには大きな仕事とあるので、バタフライ・エフェクトでいう蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱かくらん程度ではなさそうだ。


(うーん…)


 彼女はしばらく考えたが、相談できる相手が思いつかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る