第3話 弱る月

「すげーな、ナニしてんの?」


「ひゃっ」


 背後の至近距離から話しかけられて遼は椅子から飛び上がった。気が付くと世界はもう真っ暗で、部屋もモニターだけが輝いている状態だった。机の上のコーヒーは完全に冷え切っているだろう。


「悪いけど、玄関の鍵空いてるし返事がないから心配で勝手に入った。なあ、遼、腹減ったろ?もう6時だ、なにか食べに行こうか」と言う彼を、まだ覚醒できていない遼はぼんやり見つめている。


 まだ彼が怒っているのかは暗くて表情があまりわからなかった。




 遼は階下に降りて自分の家の冷蔵庫を見た。ブロックベーコンがあるからチャーハンに決める。忠が社員旅行で買ってきてくれた四国の玉ねぎスープがあるはずだ。


 材料を台所の机にのろのろと並べると、「オレが作る」と朱音が手際よくニンジンや玉ネギをみじん切りにし始めたので、遼はフライパンを出して油をひき、皿にレタスを敷いたり、玉ねぎスープの用意をした。

 久しぶりに長くネットに潜っていたせいで、遼の一部はまだに置き去りにされている。


「はい、どうぞ」


 朱音が皿に出来立てのチャーハンを盛り付けてキッチンテーブルの上にトンと小気味いい音を立てて置いた。湯気が立ってとても美味しそうに見える。


「ありがと…頂きます」


「食べろよ」と心配そうに遼の顔をじっと見る。


 遼がひと口食べると、現実の食物が体内に入ることで一気にこっちに意識が引き戻された。食べ物の力はすごいと再認識する。


「美味しい」


 遼の眼に光が宿ったのを見て彼は安心したようだ。


「そっか、良かった。オレも頂きます」


 しばらく二人無言で食べていると、ふいに、


「遼、昼休みは悪かった」と朱音が謝った。遼はそういえば謝罪メールを貰っていたことを思い出した。


「私こそ、ごめん。なんて返したらいいかわからなかった…」


「…前回で懲りたはずなのに、また大事なことをメールで送ったから怒ってるのかと…」


(そこ?普通はあんな風に会社で怒ったことを謝るもんだと…)


 遼は微妙に朱音がずれてるので小さく笑った。


「なんだよ、なんで笑ってるんだよ…」と朱音は不思議そうな顔をした。よくわからないが、もう怒ってはいないようだったので、遼は安心した。




「で、遼は何してたんだ?江上が関係してるんだろ」


 食堂から遼の部屋に移ってコーヒーを飲んでいた。朱音は言い方を考えながら口を開いたが、どうしても江上が絡むと思うと乱暴になってしまう。そもそも朱音は他人にそんな口をきかないのに、遼にだけなぜかうまく話せないでいる。

 でも遼はそんなこと全く意に介さず、あの高機能PCを見られたから観念して説明した。


「…今回は最上化成のウエブシステムをハッキングした。もちろんミカさんと会長には許可をもらっているから安心して」と答えた。


「か、会長も出てくるのかよ、大事おおごとだな。で、どこに江上が関係してくるんだよ」


「うん…まあざっくり言うと、彼が入社前に最上の社内イントラネットに侵入してたことがわかったものだから、彼が作ったバックドアのプログラムの削除とシステムの修正、あとシステムで脆弱ぜいじゃくな部分がないか個人的に探してた」


 さすがに入社試験の点数の改ざんや、配属先を総務になるよう操作したこと、ましてや遼の個人情報を手に入れていたことは言わなかった。


「あいつ、あんな顔でそんなことしてたのかよ…」と朱音が言ったので遼は思わず笑ってしまった。彼のアイドル顔が頭に浮かぶ。


「顔、って…ふふふ、顔関係ないよね。朱音は何考えてるの」


 朱音は拗ねた様にふいと横を向いた。


「だってあいつ、女性社員に人気なんだ。それにおまえは気が付いてないけど…あいつといる時すごく楽しそうで…オレは嫉妬してる。昨夜も今日も今も、ずっと…最近スカートをよく着てるのさえ、あいつの為かもなんて…」


(…だから食堂で怒ってた?交友関係が広い朱音に私が羨ましさを感じることはあっても、されるとは思っていなかったな…)


「そうなんだ。まあ確かに楽しいのは本当。なかなか趣味が合う人っていないから」と遼が正直に言うと、


「…オレといる時より楽しいのかよ」と憮然として聞いた。


(子供みたいだな…朱音が今夜は可愛いく見える。脳が疲れてるのかも)


「もちろん…」


 遼は朱音の上にふわりと乗って彼にキスで返事をした。彼女が軽過ぎて朱音は夢かと不安になった。




「ハッカーってね」


 遼はベッドでまだ熱さの残る朱音の身体の筋肉を確かめるように触りながら説明を始めた。彼のいい具合に付いている筋肉が好きなのだ。


「ある機構の古い定義に『高度の技術をもった計算機のマニアであって、知識と手段を駆使して、保護された資源に権限をもたずにアクセスをする人』ってのがある。私はこの世の中の事象のすべてはハックできると思うの。こやって、朱音という存在を捉える、それもハックといえる。例えば、動かないでいてくれる…?」と言ってキスしながら、彼の身体を丁寧に触った。


 言われた通りに彼はじっとしていると、遼の手の動きに反応してまた触られた部分が熱くなる。


 遼はすべて説明する気になっていた。この勢いで過去からの自分のことを話してしまったら楽になる。嫌われて二度と会えないかもしれないが、それでもいいとこの時は思っていた。


「ね、こうしていると私が朱音をハックしてる気がしない?あなたというシステムを私が捉えている、ってこと。つまり、ハッカーとは『事象をシステムとして捉えることのできる人』なの。システムとして全体を捉えることができれば、脆弱性や痛点が見えてくる。そうなれば、その痛点を解消する手立てや利用する手立てを考えることに自然につながっていく」


 遼の身体もだんだん熱くなってきたが、反対に頭は冴えてくる。もっと隅々まで彼のすべてを捉えたいと思うのだ。


「古典物理の根幹をためらいなく壊したアインシュタインもハッカーだと言えるわ。彼は古典物理の脆弱性や痛点を解消するために相対性理論を作った。

 現代のハッカーたちは、探求心からコンピューターのシステムの奥深くに潜り込んで、システムの構造を理解しようとするの。理解をすると、システムの痛点を発見して、その痛点を解消する新しいシステムを作り始める。そうやって強いシステムを作っては壊したりしてる。完璧な美しいものを探す求道者のように。

 でもそこには正しい心を持たないハッカーがいる。クラッカーと呼ばれてる輩ね。

 そいつら似非ハッカーは、なにもハックしていない。ただ、他人の作ったおもちゃで遊んでいるだけで何も美しいものを生み出さないの。こんな似非ハッカーが高じると、他人が発見した脆弱性を利用したり、他人が作ったウイルスやマルウエアを利用して、企業などに脅威を与えて金なり情報を手に入れようと考えるようになる。

 そして私も…」


『両親を殺した企業に復讐するためクラッカーになった』と遼が言おうとしたら、朱音は急に遼を抱きしめた。


「もう言わなくていい。わかったから、泣くな。…きっとお前は悪くない」


 遼はいつの間にか涙を流していた。

 彼の温かい手が彼女の短い髪を優しく撫でたので、遼はダムが決壊したかのように泣いた。この家で声を出して泣いたのは実の両親の仇を討った時と、山田の両親が亡くなった時だけだった。

 両親を殺した企業がのうのうと存在していることにどうしても納得ができず、山田家に申し訳ないと思いながらも法を犯して復讐してしまったこと、それによって見えないたくさんの正しい人の人生をも傷付けたであろうこと。

 遼の犯罪行為はもちろん法律上は許されることではないが、ただ一人、朱音にだけ許してもらえたら生きていけると遼は思った。




「おうおう、あいつ堂々とお泊りしてったのかよ!」と忠が朝からパジャマで怒っている。


 朱音は朝早くに家を出たが、いなくなってから言うのが可愛いらしい。忠は朱音を前にすると弱気なのだ。


「ちょっと昨夜はいろいろあって…。ごめんね、これからはもうないから」


 朱音は初めて声を出して泣く遼を見て心配になったようで、迷った末に泊っていった。


「いや、いいけど…どうしたんだよ、体調悪いのかよ?…ああ、そっか」


 忠ははっとした。遼が毎年この時期に弱いことを思い出したのだ。


「…6月だからね、いろいろ思い出して不安定になってるけど、慣れてるし大丈夫。それより忠、最近帰ってくるの遅いわね。ご飯ちゃんと食べてるの?」


 遼は毎年6月になるとドスンと井戸に落とされて居るべき場所に二度と戻れないような感覚に陥る。本当の両親が殺された月だった。

 最初は遼もこの不安定さに戸惑っていたが、段々馴れてきた。今では、望まないけど毎年会いにくる知人のようだ。

 でも今年はいろいろあってすっかり忘れていて、朱音をえらく心配させてしまったようだ。


「食べてる。あのさ…今夜帰ってからゆっくり話したいことがある。ご飯作って待ってるから、いいかな?」


「へ…?忠のご飯?」


「嫌なのかよ…」と口をとがらせて不満そうに忠が聞いたが、もちろん遼は嬉しかった。




「山田先輩…」


 朝一で薄いブルーと白のストライプのシャツを着た江上が心配そうに寄ってきた。もしや、遼の両親のことなどいろいろ調べたのかもしれない、と思ったが、さすがにEMAでも一日では無理だろう。純粋に心配してくれているのだ。


「もう大丈夫。少し弱ってた」


「はあ…ならいいっスけど」と遼に聞こえないくらいの声で江上はつぶやいた。


「さ、午前は個室とってあるから行こうか。君は覚えるの早いから、もうそろそろお役御免かな…」と遼が言うと、彼は、


「まだダメです!さ、行きましょう!」と彼女と自分のPCをさっさと持って遼を部屋まで先導した。涼しげな麻の黒いスーツを着た遼がちゃんとついてくるか何度も降りかえる姿は、散歩中の子犬みたいだった。



「はい、ミルク入りコーヒー。休憩しましょう」と遼が江上に勧めると、彼はさらさらの茶色い髪をかき上げてぱあっと嬉しそうにした。


(確かに可愛い…女性社員が騒ぐのもわかるな…)


 今までの遼なら『自分の分は自分で好きなものを好きなタイミングで作った方が効率がいい』とはっきり言っていたが、最近少し違うような気がしていた。

 微妙に好みと違うものでも、誰かに心を込めて入れてもらうと美味しくなる、と知ったのは朱音のおかげだった。


「ありがとうございます、山田せんぱ~い」とお礼を言いながら首に抱きついた。


 最初は驚いたが、こういうのにもいつの間にか慣れてきた。するといつも間が悪い朱音が来て、怒りながら入室する。


「こら、江上!いい加減にしないとひねり潰すぞ!」


「もう、せっかく山田先輩と二人っきりだったのに…本当に邪魔だな、澤井先輩はぁ」とため息をつきながら離れたので遼はプッと噴き出した。相変わらずの言い方だ。


「おっまえー!ほんっとに先輩に向かって生意気なやつだな、人事に言って海外に転勤させてやるぞ!!」


「出来るならやってみてください」と江上は鼻でふふんと笑った。


 彼なら速攻で人事のPCに侵入して書き換えそうだ…。いや、朱音を代わりに転勤させそうで怖い。


「そうだ、前から聞きたかったんですが、先輩たちってもしや付き合ってるんですかぁ?」といきいなり爆弾を落としたので朱音が吹っ飛びそうになった。


「のっ、何でそんな…」


 朱音が赤くなって口ごもる。


「だって、昨日一緒に駅まで帰った女性社員たちが、食堂で二人が痴話げんかしてたって噂してましたよぅ。本当ですか?」


「う…」


 朱音が遼をちらりと見た。遼はどう思ってるのだろう、と考えていたら、


「もちろん、付き合ってない。…よね?」と遼があっさり答えた。


「決まってるだろ、確認するな!」とクールを装って遼に言いながらも、朱音は目じりに涙がにじむのを止められなかった。


(そっか、遼とオレは付き合ってないんだ…そうだよな、昨夜遼の家で泊って浮かれて忘れてたけど、ちゃんと告白もしてない。遼が他の男のとこに行っても文句は言えないし、江上にとられても仕方ない。…じゃあ、オレって遼の一体なんなんだろう…?)


 そんないろいろ思い悩んでいる朱音に、


「良かったー!昨日は山田先輩が落ち込んで帰ったので、付き合ってるのかと心配してました。これから堂々とアタックできますよぅ」と江上は朱音の心を読んだように笑いながら言い放った。


(遼の前で…確信犯だな、こいつ!なんて憎たらしい…それにいつも堂々とアタックしてるじゃねーか!!)


 朱音は密かに泣きそうだった。

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