第6話 月の裏

 次の日、背筋を伸ばした紺のスーツ姿のミカが昼前に遼の職場に訪れた。


 部長クラスになると彼女が営業一課のチーフ兼と知っているので態度が慇懃いんぎんだが、総務の課長は彼女を営業の人間、それも、という認識のようだ。


「山田さんを夕方頃までお借りします」


 有無を言わさぬ態度に課長は少し憮然としていたが、部長が「わかりました」と答えているので黙っている。部長には事前に根回しがしてあるのだろう。



「さ、乗って」とミカに促されて春色のシャツにカーディガン、グレーのパンツ姿の遼はエレベーターに乗せられた。

 階上の会長室に行くのかと思いきや、2人は地下の食堂に着いた。まだランチタイム前なので人が少ない。


「こっちだよー」と女性がすみっこの席にいてぶんぶんと千切れんばかりに手を振っている。60代後半で少しぽっちゃり気味な体型に白シャツに濃いグレーのパンツというシンプルで活動的な服装だ。いまにも飛び上がりそうで、元気の塊のように見える。


 席にはすでに定食が3つ並んでいた。気が短そうだ。


「最上化成の会長で、私の母よ」とミカが紹介した。


「総務課の山田遼です」と彼女が会長に自己紹介をすると、


「山田さんは魚定食で良かったわよね?私のことはユカさん、って呼んで」と言う顔にも見覚えがある。声も聞いたことがある。それもここでよく…?


「食堂のおばちゃん…」


 ミカの母親は最上化成の食堂のおばちゃん兼会長だった。




「ごめんなさいね、厄介なことになってしまって。申し訳なく思ってる」とユカは遼に頭を下げた。

 彼女はカーネルサンダースの女性バージョン、とでもいえばいいのか、とにかくニコニコして愛嬌がある。とても会社の重鎮には見えない。


「あの…失礼ですが、会長ってミカさんのおじい様だと思ってました」


 そう遼が言うと、ミカが笑って説明した。


「祖父は外向きに会長の役目をしてるだけ。本当は母が食堂のパートに入りつつ、会長をしてるの。父は社長だけど対外交渉ばかりで、実際は私がすべて決済してる。最上化成は科学者だった亡き祖母が始めた女系企業なのよ。会社の歴史は知っているわよね?」


 もちろんだった。戦後に女性科学者が始めた企業なんて珍しいなと興味が湧いたのがきっかけで入社した。

 なるほど、会長・社長ともに女性だなんて、働きやすいはずだ。女性だからトップになれない、ではなく日本では女性だと面倒なことが多いから対外的なトップには男性を出すという合理的思考もある。見より実をとるという考え方は遼の好むところだ。


 あまり驚かないどころか納得している遼を見て二人は笑う。


「山田さんは動じない人だとは思ってたけどやっぱりだわね」とユカは笑いながら言った。


「ユカさんは私を知っていらっしゃったんですか?」


 遼は驚いた。上場企業の会長が一社員を覚えているものだろうか?


「もちろん入社からね。最近なぜか大き過ぎるダイヤを付け始めたことも。私自慢じゃないけど人の顔と名前は一度聞いたり見たら忘れないの」と可愛く上目遣いをして言ったので、遼はネックレスを握って赤くなった。

 自分の事など誰も見ていないと思っていたのに、堀といいユカといい、そうでもないようだ。


「で、あなたはその資料をどうしたいと思っているの?」とユカは優しく聞いた。


「…出来る範囲で自分で調べようと思ってます」と言う遼の目が泳ぐ。大事おおごとにはしたくなかったが、昨夜自宅のパソコンから短時間探っただけでまずい情報をたくさん手に入れてしまったのですでに持て余していた。


「もう九州支社の横流しの件と該当者の見当はついてる、ということね。さすが優秀なわが社の社員」とユカがあっさり言ったので遼は目を見開いた。


(知っていたのか?!自分の身内のことだから…もしや私の身が危うい?)


 不正入金の流れを追うと、すぐに九州支社長の名が上がってきていた。ユカの次女の婿で副社長を兼任している。取締役の一人だ。

 何で知ってるのか不思議そうにしている遼に、ユカは、


「ああ、数字を見たらわかるわよね。だって合わないんだもの。身内だし娘が悲しむからってちょいと泳がせていたんだけど、最近目に余ってきたとこよ。でもね、先日夫婦仲をつついてみたら結婚生活は破綻してるみたいだし、婿がクロなら切り捨てる」とあっさり言った。


 彼女の言う通り、数字ですべてがわかると言っても過言ではない。ダムの水量も遼の好きな東京タワーの美しさも、宇宙の質量も世界の理でさえも数字に置き換えられるのだろう。


「あなたはどうやって突き止めたの?」とユカは興味深そうに遼に聞いた。


「私も数字です。九州の5年前からの製造コスト高騰に対する売り上げの低下と営業利益の下げ幅や…。あともう一つ方法があるのですが、これは言えません。横流しで利益を受けた人物を特定はしましたが、その方法を申し上げると私がまずい立場に置かれますので」


 遼はある目的の為に中学生の頃からハッキングを独学していた。

 図書館で借りた本でいくつものC言語をマスターし、データベースの構造そのものを理解してセキュリティを意識したWebアプリケーションを自分で作成した。Webアプリケーションの脆弱性を勉強する為だ。

 英語は8歳までアメリカに住んでいたので苦手意識はなかった。記憶力が人より何倍も優れているのが役に立ったのだ。

 ネットワークに対する深い知識を得るために情報工学系の大学に入学し、大学に在学中、とうとう目的を達成させた。それに8年という歳月を費やしていたが、もちろん後悔はなかった。


 ちなみに国家公務員になって内閣サイバーセキュリティ対策専門官としてホワイトハッカーになると年収は1000万円をゆうに超える。でも遼はもう目的を達したためハッキングに対する強い興味は失われていた。

 もともと好きでやっていたわけではないのだが、コンピュータシステムという巨大なカテゴリーで理解のある範囲を増やしたくなってきたのと、サイバー攻撃のトレンドを知っておきたいので、定期的に最新の専門書を勉強したり、Hackme(クラッキング力検定サイト)などで力試しをしたり、ボランティアでセキュリティソフトのホール探しをしたりしている。


 その技術を悪用するような機会が最近はあまりなかったのだが、昨夜久々に使ってみたら、相手がホールだらけの脆弱なシステムを使用していたせいで結構スムーズにいけてしまい、こっそりデータを盗むことが出来てしまったのだ。それも絶対に気が付かれない自信が彼女にはあった。


「さすが優秀なハッカーね」とミカが驚くことをさらりと言い放った。


「うっ!な、なんの事でしょう…」


 物事に動じない遼が焦って眼を泳がせるのを二人は微笑みながら見守っている。嘘は下手なようだ。


「知ってるのよ。あなたが大学生の時、自分の両親を死に追いやった軍需企業の上層部に自作の情報流出ウイルスを送りつけて情報流出させ、スキャンダルで軒並み経営陣を交代させたこと。企業のイメージを著しくおとしめたこと。あと、企業の株価を底まで下げてM&Aに追い込んだ事までかな。世界トップ10に入るほどの大きな会社でセキュリティもその当時にしては万全だったはずだから、よくもまあやったもんだ、としか言いようがないわね。まあ、あなたの両親が亡くなった苦しみを思えば相手を殺さなかっただけましとしときましょ」とミカは言ってニヤリとした。


 相手の弱みを握って優位に立ったと確信している経営者の顔だった。


「さ、これであなたには選択肢はあまりないのはわかったかしら。昨日の約束は必ず守るから、私達に協力して頂戴。もちろんそのゴージャスなネックレスと指輪くらいのボーナスもはずむわ。資料を九州支社に売りつけるって手もあるけど…でもこれはおすすめしない、身の危険があるからね。信用出来ないかもしれないけど、私たちの方がクリーンよ」


 遼の回答はわかっているくせに、ミカは意地悪を言った。ユカはニコニコして、こんな時もちょっと楽しそうだ。

 遼は彼女たちと話していると先日読んだロジェ・カイユワの「戦争論」を思い出す。きっとこの人たちは色褪せた単調な日々に飽きてしまい、どかんと一発お祭りがしたいのだ。たとえその相手が親族であっても。

 そして破壊から生まれるなにか未知の新しいものに期待している。


 遼はそのお祭りに無理やり付き合わされるようだ。




「いい子ね、じゃあ交渉成立、ってことで作戦会議をしましょう」


 ユカは正午を過ぎて忙しくなってきたので戦闘服である割烹着を着、会長から食堂のおばちゃんに戻った。厨房を覗くと楽しそうに立ち働いている。


「あの、朱音は…」と遼は絞り出すように聞いた。


 捨てられたくせに、そんな男の為に何やってるんだと自分でも思う。

 それもミカはお見通しに違いなかった。


「もちろん外したわよ。彼を嫌いなの?そんなわけないよね、彼の将来の為にならないから外して欲しいと約束させたんでしょ?」


「…彼は将来この会社に必要な人ですから」


「ふーん、会社の為、ってことね?あなたがそんなにこの会社を好きだとは知らなかった」と言って手を伸ばしまた遼のネックレスをいじった。


「失礼します」と定食を手にした山本が遼の隣の席に座った。ミカに呼ばれたようだ。大柄な彼が持つと定食が小さく見える。


 彼がちらりと遼をみたその先には、朱音が不満そうにしてこちらが良く見える、でも遼からは見えにくい席に付くところだった。


「山田さん、これから山本君と組んでもらうわよ」とミカが二人を見据えて言った。




「まあ、そんなことで、しばらくしたらあなたには九州支社に転勤してもらう。その前に一度秘書課に入って訓練してもらうわ。あなたならできるでしょ?」


「ひ、秘書課ですか!」


 遼の顔色が一気に悪くなる。コミュ障気味の彼女には荷が重過ぎると感じたのだろう。


「大丈夫、私の秘蔵っ子の下に手伝いとしてつけるから。明日からよ、服装とかのコードを後で山本君にメールするから準備しときなさい。総務の部長には一時的な移動の事は言っておくわ。あと、九州のデータ、早急にここに送って。あなたが別に昨夜手に入れたものもね」とちゃっかり言って遼に名刺を渡した。


「あ、明日から?」


 急だ。それに秘書課に似合うような服とか靴を一切持っていない。そんな彼女の不安にすぐに気が付いたミカは、


「そうね…山本君に私のカードを渡すから、今日の午後に一緒に買いに行きなさい。フルで春用を3セット用意するの。わかったわね」と命令した。


「はい」と彼は言ったが、顔がまだらに赤黒くなってきた。確かに女性の服とかあまり得意ではなさそうだ。

 ミカは少し考えてから驚くことを言った。




 昼食のあと「さ、行くぞ」と遼を促したのは朱音だった。


「…」


「そんな嫌そうにすんな、仕事だろ」


「…はい、すいません」


 山本には荷が重いのは彼女もわかっていた。仕方なく吹っ切ったように遼が答えるとその様子に朱音は傷ついてしまう。


(ああ、やっぱ山本でよかったのかも…オレこのまま一緒に仕事なんて無理だ、きっとストレスで血を吐いて死ぬ。でも山本と二人でこうやって買い物とか行かれるのはもっと嫌だし…くそっ!)


「じゃ、秘書課のチーフに聞いたとこで買うからな」とタクシーを拾う。嫌々後ろから付いてくる遼を見るのが辛い。


(なんなんだ、これは…仕事でストレスなんて久しぶりだ)


 朱音は生まれて初めて仕事で胃が痛くなった。



 タクシーの後部座席は不自然に真ん中に空間がぽっかり空いていた。昼の渋滞で車は進まず、二人共外を見ている。でもお互い気になるのかちらりと見るとタイミングよく(いや、悪く)目が合ってしまい、また焦って外を見る、の繰り返しをしている。


(あーもう、この時間は電車にすればよかったのに…判断がかなり鈍っているな、オレ)


 朱音は自嘲した。

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