第3話 変貌する月

 朝から遼が会社内を歩くと人がけて道ができる。心なしか今朝から周りがざわついてる様に感じた。


(モーセの十戒じっかいの真似…?なわけないか)


 昔見た海が割れる映画をぼんやり思い出した。



 昨夜孝に髪を切ってもらった。そして今朝はコートの下の黒いシャツのボタンを上から3つまで開けて着ていくよう厳命された。

 なのになぜか目立って仕方ない。


(そんなにおかしいのか?)


 昨日は忠にお任せして寝てしまったのでちゃんと髪形も見ていない。これからは朝に鏡を見る習慣をつけようと思う。

 と、ふいにある可能性に思い当たった。


(もしや…シャツの胸元が開いているからちゃんとしたブラジャーをしてないと変に見えるのかもしれない…)


 弟たちに恥ずかしい思いをさせないよう身なりをちゃんとすると決めたのだが…難しいな、と痛感してため息が出た。


(仕事の方がずっと楽だ。とりあえず週末に新しい下着を買いに行こう…)




 遼が昼休みに食堂の列に並んでいると、「ようっ」と言いながらすっと隣に朱音が寄って来た。朱音と割り込み両方に小さく舌打ちすると、


「こら、女性が舌打ちするもんじゃないよ」と馴れ馴れしく遼の髪を触るように軽く叩いた。


 昨日より距離が近くなっているような気がするのは自分の気のせいだろう、今日は周りから見られている気もするし、自意識過剰になってると遼は思う。


「割り込みしないで」と遼がにらんだ。


「ハイハイ、相変わらずの真面目ちゃんだな」と笑って朱音は列の後ろに並んだ。


 遼はいつものように魚定食を頼み、空いている席に一人座って手を合わせた。いつも一人のランチに慣れっこになっていたのに、誰かが遼の向かいに座った。


「失礼します」と遠慮がちに言ったのは、昨日紹介された大きくてガッチリした体つきの営業部の山本だった。ラグビーをしていたと言われても驚かないガタイの良さだ。


「どうぞ」と遼は軽く会釈して、サバの醤油煮込み定食に手を付けた。彼も同じ魚定食だなと思いながら食べていると、


「同じですね。昨日もアジフライ定食でしたし、魚がお好きなんですか?」と山本におずおずと聞かれた。


「いえ、健康のためです。あの、山本さん。朱音か私に気を使ってかは知りませんが、お好きな場所で食べられたらいかがですか?私一人で食べるのに慣れているので」


 遼がそう言うと、山本がひるんで赤くなった。やはり同情して気を使っていたのだろうと遼が思っていたら、


「おいおい、オレの後輩をいじめるな。おまえと違ってこいつは繊細なんだよ」と言いながら、遼の隣に朱音が図々しくも座った。肉定食、今日はトンテキだ。キャベツが多い。


「いえ、あの…」と慌てて手を振る山本に、「そうね、ごめんなさい」と遼は素直に頭を下げて謝った。確かに気を使ってもらったのに悪かったのかもしれない。でも他人ひとに気を使わせるのは苦手だった。

 

「違います…俺はここに座りたくて座ってるだけで、誰にも気を使ってません。山田さんが嫌でなければいいとは思いますが…。あと、あの…今日はとても綺麗ですっ」と山本が最後の方は小さな声でうつむいて遼を褒めた。


「なに、おまえ…」と朱音がそれを聞いて絶句する。


「ああ、そうなの。私は気にしませんので、ご自由にして下さいね」


 遼が後半をスルーして平然と答えると、


「おまえも…本当に冷たい女だな」と朱音が呆れたように言った。でも山本はホッとしたようで、嬉しそうに定食に口をつけた。朱音は理解できない、という表情で二人を見た。そして、


「で、なんで今日はそんななの」と遼に聞いた。


 山本が急に顔を上げて遼の顔を見たが、直視できずに朱音に視線を移した。


「そんな?…ああ、昨夜髪切ったの。やっぱり髪下ろすとヘンかな、なんだかお化けを見るみたいに周りに見られてる気がする」と眉間に皺を寄せて遼が答えると、


「…ふーん、ネイルもしてもらったんだ?だってさ、山本」と朱音は不満そうに言った。


「みんながじろじろ見るのは山田さんがとてもきれ…ぐむっ」


 前のめりで遼に説明しようとした山本の口に、朱音が「やる」と言ってトンテキをひと切れ押し込んだ。男たちの騒動を前に、遼は定食をゆっくり時間をかけて咀嚼そしゃくしていた。




 いつもと違う周りからの視線を浴びながら、遼は定時に仕事を終えて階段を降りる。ここを降り切った時にふっと気が抜ける瞬間が一番好きだ。


 今夜は定時だしちゃんとご飯が作りたいな、と思って弟4人にメールを送っておいた。


(どうだろう、スーパーで買い物する頃には返信があるといいのだが)


 遼の誕生日からは、週末以外は食事は各自ですると決められてしまった。でも平日でもたまには作らないと、身体に悪いのではないだろうか?…いや、違う。自分が寂しいから彼らに作りたいだけなのだ、と依存を自覚する。


 ふいに「遼」と至近距離で声をかけられて、階段から踏み外して転びそうになるのを、朱音のがっちりした腕が支えた。


「うっわ、びっくりした。何、急に?」


 遼は腕に食い込んだ朱音の手を嫌そうにはがした。


「そんな顔するなよ。しかし相変わらず運動神経が死滅してるな、おまえ。昨日話したいことがあるって言ってたろ?」


 遼は昨日のランチを思い出した。正直とても嫌だ。


(そう言えばそうだった。でもなんで朱音と話さなくてはいけないのか。いや、総務に関する仕事のことか?)


「帰り道でなら話せる。私今日は早く帰りたいから、良かったら残業してる他の総務課のスタッフを紹介するけど」


「…デートかよ」と朱音が不満そうに頬を膨らませて聞く。何で朱音にそんな顔されなきゃならないのか、と思いつつ、


「いや、ごはんでも作ろうかなって」と言った遼の手元にある携帯が丁度振動した。


 見ると、『各自でするからいいって決めたろ』という忠からの怒りの念を含んだ断りメールとスタンプが入っていた。

 がっかりした遼を見て、朱音は、


「お、もうよくなったみたいだな」と言ってニヤリとした。




「で、話って?」


 以前二人でよく来たシックなイタリアンの『レノン』で、遼はコートを脱いで壁のお洒落なフックにかけた。ふわりと柑橘系ボディソープの香りが漂う。

 黒い細身の黒シャツに包まれたほっそりした身体と大きすぎない形のいい乳房の谷間が現れると、朱音は思わず頬が赤くなるのを感じる。


(おいおい、ボタン外しすぎだろ。それになんかいい匂いがするし)


 彼は遼から目を逸らして、ウエイターを呼んだ。


「えっ…と、とりあえず頼もうか。今日はお酒なしで、ペスカトーレとシーザーサラダ、マルゲリータでいいだろ?」


「へ?う、うん…」


 遼の好きな食べ物を朱音が覚えている事に彼女が驚いているのを見ると、彼は不思議に思う。彼が昨日から持っている違和感がますます大きくなった。


 別れて3年近く一度も会っていない。会わないようにしてきた。

 最初は突然の別れに茫然としていたが、段々強い怒りの感情が日々を支配していた。そして、諦念が彼に訪れてからずいぶん経っていた。

 本社に戻ってきて10日、もう遼を許せているだろうと昨日勇気を出して話しかけたが、彼女は朱音を一方的に捨てたくせに罪悪感を全く見せなかった。むしろ朱音が彼女を捨てたかのように彼を扱った。律儀で真面目過ぎる彼女の性格上、それはおかしなことだ。


 彼女は付き合っている頃と全く変わっていなかった。

 ストレートな物言い、周りには興味がなくマイペースで身なりも性格も飾らない。そして高い知能と情報処理能力。周りに気を使ってばかりの朱音にはないものを持つ彼女に、初めて合った時から強く惹かれていた。

 昨日会って3年前と変わっていないとなぜか安心している自分がいたが、今日の変貌は朱音を酷く狼狽ろうばいさせた。


 昨夜会社の前の階段の下で彼女をずっと待っていたら、8時過ぎになってやっと出てきた。でも階段途中で座っていた若い背の高い男が立ち上がり、先に彼女に声をかけた。

 どうせに断られるのだろうとこっそり見守っていたが、彼女はやつにオレに見せたことのない気安い表情で微笑みかけ、若い男は彼女の手をとって嬉しそうにいつもと違う駅の方角に消えた。朱音はしばらくの間そこを動けなかった。


(ああ、これは…まだ、彼女を忘れられてないんだ、オレ)



 朱音は昨夜を思い出して息を飲み込んだ。が身体のなかに沈んでいくのがわかる。


「で、仕事の話だよね。どうぞ」と彼女は警察の取り調べのように促した。なんだかな、と朱音は思いつつも、


「そ、そうなんだ。シンガポールから帰ってきたら上司が酷くてさぁ…」と営業一課の話を始めた。


(ああ、こんなことどうでもいいのに…。昨日の若い男はなんだよ?ネックレスやお洒落なんかして、彼氏なのか?営業の山本のことはどう思う?いや、まずは何で3年前に急に俺を捨てたのか、だ。いや、それは今は重いな…)


 心の中とは裏腹に、朱音は最近の困った話を面白おかしく話した。遼がほんのたまにクスリと笑うと彼は身体が芯から熱くなるのを感じる。


「朱音は相変わらずだね、全然困ってないくせに。朱音はいるだけで困難な状況を少しずつほぐしていい状態に持っていく才能があるから、いつも通り誠実にしていればいいと思う。上司も周りも朱音の頑張っていることをわかってくれてる」と生真面目に答える彼女は、3年前と変わらない。いや、もっと魅力的だった。


「お…あ、ありがと。そうだ、遼の連絡先教えろよ」


「ああ、はい」


 彼女はオレンジの名刺入れを小さな鞄から出して、朱音に一枚渡した。もちろんそこには総務課の電話番号とFAX番号が記載されている。


(おいおい、これはまさかの名刺だよ。ツッコんでいいのかわからん…いや、遼は至って真面目だ)


「あ、ありがと…」と微妙なお礼を言って、朱音は自分の携帯の番号を告げた。


「ん、わかった」


(本当かよ…全くかかってくる気がしない…)


 朱音は結局何も聞けないままで食べ終わってしまい、彼女は迎えに来た昨日の若い男と帰っていった。彼は、送らせて、とも言えなかった。

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