第2話 夢見月

 毎週月曜日はいつもより1時間早く出勤する。都心から少し離れた静かな場所にある株式会社最上化成の本社ビル。そこが彼女の勤務する会社だ。いろんな意味で働きやすいので気に入っている。


 ノートパソコンを総務課にある自分専用の鍵のついたロッカーから取り出し、ビル5階にある開放的な広い空間にハチの巣のように放射線形に並んだフリー作業スペースに向かった。

 適当な半個室を選び、デスクに丁寧に置いて立ち上げる。ここでなら邪魔されずに集中して作業ができるのだ。


 併設されているカフェコーナーでいつものように飲み物を入れた。

 今日は月曜日、メールがたまっているだろうから、目が覚める程の濃い目のブラックを選択する。午前中で一気に作業を終えるための月曜の儀式だ。


 彼女の総務の仕事は範囲が広く、全国・海外の支社から送られて来る質問に答える、つまりは何でも屋だ。彼女はこの仕事が嫌いではなかった。誰かの役に立っている、会社で必要とされていると感じることが出来るのだ。


 一件ごとにメール内容や相手が添付された資料等を読み込んで返答・対応する。


 彼女の仕事は正確でかつ迅速である。彼女は総務の究極のAIだと言われている。つまりは普通では3日かかる量の仕事を半日で処理してしまうが、人間としては欠陥品、という意味だ。


 遼もそのように陰で言われているのを知ってはいるが、迷惑もかけていないのに何が悪い、と早くから開き直っている。両親が亡くなってから山田家に貰われるまでの半年の経験のおかげで、他人が怖くてうまくコミュニケーションがとれなくなってしまった。

 でも常時びびって生きていくのに嫌気がさした高校生の時、相談した2人の友人が『他人にどう思われてもいいと思う』『遼を大事にしてくれる人にだけちゃんと対応したら?』と言ってくれた。

 友人のおかげで開き直ってからは、周りに関心を持たないようにしている。遼には家族と2人の大事な友人がいるからもう十分だった。相手が私をAIだと言うなら、私も相手に無関心になる権利はあるはずだ、そう思っていた。


 作業を始めるとコーヒーはどんどん冷めていくが、彼女の脳はますます冴えわたっていくのを感じる、この瞬間が好きだった。




 昼前、最後のメールに返信して大きく息を吐いた。

 彼女は早急に対応しなければいけない物件が残っていないか素早くスクロールして再度確認する。残りは午後の仕事の合間にでも処理したらいい、と彼女は考えているが、普通ならとても仕事の合間に出来るような量ではない。

 彼女の脳に整頓されていつでも取り出せるよう引き出しに入っている広範囲で正確な情報がそれを可能にしていた。


 いつものように冷たくなった濃いコーヒーをとって口にしようとしたら「ハイ、どうぞ」と誰かが机に湯気の立つコーヒーを置いた。

 この社内で遼にそんなことをしてくれる人に思い当たらなかった。無表情で愛想が全く無いので周りから敬遠されている。

 彼女は幻覚かと思い、コーヒーに手を伸ばして確かめた。温かい。


「ありがとうございます」


 頭を下げ、お礼を言ったつもりだったが、かすれて上手く声が出なかった。朝に家を出て半日、一切誰とも口をきいていない。


「おいおい、声が出てないぞ、大丈夫かよ?見てたけど相変わらずすげースピードで仕事してるな。おまえ世界が崩壊してても気が付かないんじゃね」


 そう言って、コーヒーを遼にくれた人は椅子を横に持ってきた。遼の同期入社の澤井朱音さわいあかねだった。

 背は175程で遼の弟のたかしより高くはないが、がっちりした体型を濃いグレーのスーツで和らげてすらっと細く見せている。いわゆる細マッチョというやつだ。髪は短めで、軽薄でない程度に明るくしている。理知的な広い額から続く少し大きめの鼻は優しさを滲みださせている。目は一重の大きすぎないどんぐりまなこで愛嬌があり、唇は厚めで情が深そうだった。


 彼は頭が飛び抜けて切れる上に対人スキルが高く、営業成績が抜きん出ている。同期で一番の出世頭だ。彼のことを嫌う人など遼は見たことがなかった。

 仕事もスポーツもできて語学も優秀で、入社2年目でいきなりアジア担当に抜擢された彼は、今はシンガポール支店にいる…はずだ。

 朱音は遼がこの世で一番会いたくない人だった。


 ネックレスを付けた遼の顔が思わずゆがんで引きつった。


だな、そんな顔して。本社も久しぶりだから、一緒にランチでもどうかと思って、ずっと隣で仕事しながら様子伺ってたんよ。でも仕事に夢中でオレのこと全然気が付かないんだもんなぁ」と朱音はねたように言った。


(相変わらず馴れ馴れしい)


 朱音の対人テクニックだ、と遼はため息をつく。


「お断りします、他の人と食べれば。コーヒー頂きます」


 遼はそう言って温かいコーヒーを口に付けた。なぜか自分が淹れたものより美味しく感じる。成分は同じはずなのに不思議だ。


「相変わらず冷たいのぅ。この3月に転勤したばっかだから、お友達いねーんだよ。でしょ、オレが繊細で一人でご飯食べられないの知ってるくせに」とたまに出る大野弁に愛嬌をにじませて言う。


「26歳にもなってバカなの?誰と食べても一人でも栄養は一緒だよ」


 本社には、いや、どこにでも友達がたくさんいるくせにそんなウソをつく朱音に遼は冷たく言い放ったが、朱音は真面目な顔で言い返した。


「遼こそバカだな、誰かと一緒に食べたほうが美味しいに決まってるし、身体にもいい。知らないのかよ」




 食堂で朱音は遼の隣に自然に座った。


(入社したての頃もこうだった…こうやって私の心の壁を壊していつの間にか大切な人になっていた)


 意外な二人が一緒にランチをしてるので周りがざわつく。

 彼らが席に着いたら、二人の男性が「お疲れ様です」と言って向かいに座った。


「おう、お疲れ。こいつ、オレの同期なんだ。優秀で有名なあの総務の山田」と遼の事を得意げに朱音は彼らに紹介した。


 二人のうち小柄な方の男性は、驚いたように目を見開いた。


「え、この人が『総務の山田』さん?女性だったの?まじかー!あ、先月困ったときにメールさせてもらったんですが、的確な返信をすぐに頂いて大変助かりました。パソコンにかなり詳しいようだし、『山田遼』ってあったし、文面がかっちりしてたのでてっきり仕事出来る男性だと勝手に妄想してました…いや、セクハラとか悪い意味じゃなくてカッコイイです。そっかー、朱音先輩の同期なんだ。僕は営業の堀です。こっちは」


「同じく山本です」と彼女に興味なさそうに頭を下げてぶっきらぼうに続けたのは朱音より一回り体の大きな男性だった。凸凹コンビだ。

 彼女は一応挨拶をした。


「山田遼です。私邪魔なら外しますが」


「ここにいて下さいよ、僕たちが山田さんの邪魔に来たんだし。へー、朱音先輩は本社に帰ってすぐに山田さんに声をかけてるんだ…ふーん」と意味ありげに堀が朱音と遼を見比べた。


「ちげーよ、用事があるの。せっかく内緒の話を二人でしようと思ってたのに」といたずらっぽく言う。


 朱音は昔より自信が付いて楽しそうに見える。そんな彼を遼は密かにまぶしく感じつつも、ランチの魚定食を黙々と口にした。今日はアジフライだ。ここのタルタルソースは手作りでとても美味しい。


「おいおい、オレの話聞いてる?ほんと、おまえといると自信なくすのぅ」と朱音から大野弁が出ると、堀が遼を見て言った。


「いやー、実は僕ずっと山田さんの存在が気になってたんですよ。いっつも普通に一人でつるまずに堂々としていてカッコいいなって。その上、最近は素敵なアクセサリー付けてるから、彼氏ができたんだな、って密かに思ってました」


「え?彼氏?」「彼氏ですか?」と朱音と山本が同時に大声を出した。その声が食堂に響くと、周りがざわめく。


 本社イチ根暗で総務の究極のAIと呼ばれる女、山田遼と、海外勤務経験があって将来の幹部候補とまで言われている営業の次期エース、澤井朱音。それに営業一課の若手独身男性社員二人が一緒にご飯を食べているのだ。

 その上、山田は最近高価そうなネックレスをして会社に来るようになっていて敏感な、つまりは意地悪な女性の間で噂になっていた。


『間違いなくイミテーションでしょ、大きすぎ』という人と『本物でしょ、だってお金全然使ってなさそうだし』と2つに意見が分かれていた。どちらも悪意がある噂ではあったが。


 その山田に彼氏?


 けっして彼女には自分から話しかけたりしないプライドの高い女性たちは、自分の価値が不当に下げられた気がして悔しい思いをした。


 あのネックレスの上に彼氏だと…?あのスーパー地味根暗ブス女に?


 3人が山田をじっと見ると、遼は『何を言っているのかわからない』という風に首を傾げ、眉間にしわを少し寄せた。

 まるで大事な食事の邪魔をするなと言わんばかりで、朱音は入社当時と変わらない彼女に思わず苦笑した。




 遼が午後の仕事を済ませると、もう夜の8時を回っていた。


「今日も遅くなったな…」


 相変わらずの一つまとめのボサボサの毛先を前に持ってきて確かめる。ちゃんとすると約束したのに申し訳ない気持ちになる。触れるととても痛んでいた。

 カツカツと低めのヒールを鳴らしながら会社の階段を降りていると、「遼」と柔らかい聞きなれた声が聞こえた。


 階段に座って待っていたのは弟のたかしだった。


 彼はたまにこうやって遼を突然迎えに来る。勤めている美容院が近いのだ。

 なぜか孝と忠は家の外や人前では姉の事を名前で呼ぶ。『ねえちゃん』と呼ぶには恥ずかしいのだろうか、昔からだった。

 相変わらず背が高くて美容師だけにお洒落人だ。

 周りの女性の目が彼に釘付けになる。そんな彼と一緒にいるのが地味すぎる遼だと知ると、女性たちはあからさまに足から頭のてっぺんまでじろじろ真っ黒の服装ですっぴんの遼を値踏みするように見る。そして、あんな女と付き合ってるなら大した男じゃないわ、と悔し紛れに毒を吐くのだった。


「お疲れ様。もう限界だよね、おいで」


 孝が遼の手をとって歩き出す。

 二人は地下鉄に乗り込み、2駅離れた彼の勤める美容院に着いた。今日は月曜日で定休日だが、孝は午後からコンテストの為の自主勉強をしていた。

 彼は彼女の長い真っ黒の髪の毛を丁寧に洗う。カラスの羽の様に艶やかだ。


「ねえちゃんさ、土日は俺が忙しいからって絶対に切りに来ないし、かといって仕事終わってからだと間に合わなくていっつも有給取るまで切れないでしょ?だから待ってた。さ、座って。これ、焼きたらこおにぎり。ご飯食べてないっしょ」


「うわ、ありがとう…ごめんね、気を使わせて」


「何言ってるの?さ、どうする?」と遼の肩にあごを乗せて鏡を見ながら聞く。

 彼は昔から姉の匂いをこうやってこっそり嗅ぐのが好きだった。柑橘系の匂い。最近遼は孝がプレゼントしたグレープフルーツのボディソープを使っているようだ。


「えーっと、このネックレスが似合うようにしたいんだけど…私でもなれるかな?」と遼が遠慮気味にネックレスを触りながら聞く。半月身に着けているが、まだしっくりこないようだ。


「もちろん。じゃあ、少し短くして、軽くしようか。今は髪が多すぎて、髪をおろすと目が髪にいっちゃうものね。これからは結ばないで髪はおろしてて。出来たらカーラーで少し巻いて」


「うっ…わかった。宜しくお願いします」


 彼女はおにぎりを食べてすぐに電池が切れたようで寝息を立て始めた。孝はそんな彼女の為に素早く髪を切る。


「遼は仕事し過ぎ…」


 髪を切ってから、寝ているのでついでに練習中のネイルもしてみた。


「お、いい感じじゃん…俺天才」


 あまり派手でなく、ネックレスと指輪を目立たさせる雪の結晶柄の乳白色のネイル。まだ3月に入ったはかりだし、そんな柄もいいだろう。彼女は雪が好きなのだ。


「ねえちゃんにいいことがありますように…」


 そう言って手の甲に軽く唇を付け、孝はかわいそうに思いながらも遼を起こしにかかった。もう夜の10時を回っていた。

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