第38話 私をひとりぼっちにしないでくれ


 ♢♦♢ ――リアナ――


 なだらかな緑の丘がつづく景色に、夕陽が落ちかかっていた。うねる波のような丘陵きゅうりょうに陰影がついて、いつまでも眺められそうなほど美しい。

 背後には館があり、その前庭にあたる土地である。もっとも、正面の車寄せあたりに植えこみがある程度で、薬草園のほかに花らしいものもなく、自然のままの景色といえた。見晴らしがよいので、護衛のシジュンも安心してやや離れた場所で竜具の手入れなどしている。

 地平線あたりにはうっすらとニザランの森が見えた。城に引きこもっているという養父のことも気になったが、森を守るために奮闘しているはずの若き女王のほうが、リアナはより心配だった。……デイミオンがやってきたら、ニザランの危機を伝えなければ。


「デイが来たら……」

 そう口に出し、ざわめく胸に答えがわいてこないかと待った。あんな形で傷つけておいて勝手な話ではあるが、夫の顔を見て安心したい。できれば「ごめんなさい」と謝って、なにもかも元どおりにしてしまいたい。たくましい腕にぎゅっと抱きしめられ、全身で彼の庇護を感じたい。


「でも、できない。だってそうしたらフィルは、フィルの気持ちは……」

 もしかしたらもう自分を必要としていないかもしれなくても、やはり、フィルを疎外するようなことはしたくない。

 もう何度も考えた答えのない問いを、またぐるぐると考えている。


「とにかく、報告が先だわ」

 ニザランの危機とキーザインのつながり。それを話しているあいだに、気分が落ちついてくるかも。そうしたら二人で穏やかに、今後のことを話しあえるかも。この美しい夕暮れのなかで。


 したたり落ちるようなオレンジ色の光のなかで、リアナは夫の訪れを待っていた。デイミオンはきっとアーダルを駆ってやってくる。竜の心臓がない今の自分でも、巨竜のはばたきと影はすぐに感じ取れるはずだ。おそらく、もう、すぐそこに……。


 不意に、「ぽとり」と軽い音がして、リアナは空に向けていた目を足もとに落とした。ななめに差す強い光にまぎれて見えづらいが、夕陽とおなじ色のなにかが、べちゃりとつぶれて広がっている。


「……オレンジの実? まさかね」

 暖かいアエディクラでよく採れる果実は、オンブリアでも南部の温室などで栽培されている。だから貴重な果物というわけではないのだが、地面に落ちているのはめずらしい。

「こんなにれて……飛竜がどこかから盗んで、落としたのかしら?」

 ごちそうを食べそこねた間抜けな飛竜を見つけようとしたが――リアナの前にあらわれた影は、飛竜とはちがうものだった。


 酸味のまじったみずみずしい柑橘の香りに、思わずはっとする。地面に落ちた果実ではなく、目と鼻の先に新しいオレンジがある。やわらかく熟して、いまにも水気がしたたるようで……


 オレンジを差しだしたのは、褐色の大きな手だった。なめらかに黒く、爪と手のひらは薄い肉桂シナモンの色で。よく知った肌の色、よく知った手だった。


 ものげなマルベリー色の目が、リアナを見下ろしていた。


「クローナンが死んだ」と、手の持ち主は言った。



 ♢♦♢ ――デイミオン――


 同時刻。デイミオンの目にも、おなじ丘陵が映っていた。


 アーダルの黒光りする鱗に、夕陽が最後のしたたりを落としている。〈呼ばい〉で竜と一体化したグリッドには、さまざまな生き物の気配が濁流のように飛びこんできていた。すぐ後ろを併走するもう一頭の黒竜と竜騎手シメオン。軍用の飛竜とヴェスラン。ニザランの森の気配は遠いが、ゆったりと渦巻うずま流砂りゅうさのような数多あまたの息づかいが感じられる。

 そして――ごく近くに、竜騎手たちがつどう家がある。竜の網には、星ぼしのように明るく輝く強い〈呼ばい〉がある。そこが、ロレントゥスの家だろう。


 本来なら、そこにリアナの心臓もあるべきだった。もし、彼女がそれをフィルに渡していなければ。


 そう思うと、怒りと嫉妬がわきおこった。だが……そうだ、彼女は自分に連絡をよこしてきたのだ。フィルではなく、夫の自分にだけ。


「ニザランに向かわれるご予定だったということですが、なにか、不測の事態が起こったようです」

 伝令竜を受け取ったシメオンがそう報告したのが、つい先ほど。「そこで竜騎手ライダーロレントゥスの実家に逗留とうりゅうされていると」


 報告を受けたデイミオンは、実をいえば、膝から力が抜けるほど安堵あんどした。シメオンの手前、冷静をとりつくろってはいたが。

 妖精の国ニザランは、王国の権威のとどかぬ暗黒地帯だ。そんな危険な場所に、あの無鉄砲のきかん気が向かったというだけで肝が冷えた。不測の事態がなにかは知らないが、思いなおして安全な場所に避難したというだけでも上出来だ。


「リアナ陛下さまの居場所がわかって、よかったですな」とシメオンが言った。「ニザランの森を這いつくばって、すみずみまで探すはめになるかと覚悟しておりましたが」


「さすがのお転婆も、妊婦の自覚はあると言うことだろう」と、デイも返す。

「陛下に追ってきてほしかった、という女心でしょうな」

 シメオンは独身なのだが、わかったようなことを言ってうんうんとうなずいている。


 デイミオンは口端をあげた。「ここまでして俺の愛をためすとは、まったく妻にも困ったものだ」

 そう、シメオンに軽口をたたく余裕もあった。


 ニザランを探すという前提で、ハートレスの兵士ヴェスランを連れてきていたが、どうやら不要になりそうだった。もちろん、そうなればニザランの動きを探ってもらってもよい。熟練の兵士であるはずのかれがフィルの味方として動いていないだけでも、ありがたく思うところだった。


「では、リアナ陛下を連れて、王都にお戻りになるということですな。離縁なさるとか言っておられましたが」

 顎ヒゲをしごきながら、シメオンがよけいなことを尋ねた。

「とにかく、無事にリアナを確保するのが先だ」

 デイミオンは明言を避けた。「もちろん、夫を侮辱した罪はつぐなってもらうが……」

「罰をお与えになると?」

「……」

 王は露骨に目をそらした。「じゅうぶんに反省していれば、離縁は取り消してもいい」

 ずいぶん腰砕こしくだけな話もあったものだ、とシメオンが思ったかどうかはわからない。が、とにかくこのときのデイミオンには、怒りよりも安堵あんどが大きかったのは事実だ。


 なだらかに続く丘陵に夕陽が影をおとし、竜の背からは大きな黒い数珠つなぎにみえる。目的地はすぐそこだ。小ぢんまりした領主館の、伝令竜用の尖塔が目じるしになった。緑の土地に長い影を落としている。

 老齢の雄竜が一柱、竜舎のなかでまどろんでいるのがデイミオンにはわかった。アルファメイルの気配に委縮いしゅくするのを感じた王は、〈呼ばい〉を送ってなだめてやった。同時に、竜の主人ライダーに到着を伝える。……竜騎手ライダーニービュラが歓迎と恭順きょうじゅんの〈呼ばい〉を返してきた。


 さらに降下すると、その風圧で草をなびかせる。館からすこし離れた場所に、丘陵を眺めるように立つ女性の姿が目視できた。

「リアナ」

 デイミオンは、思わずつぶやいた。

 風がミルクティー色の髪をはためかせ、やわらかく渦まかせている。草色の質素なワンピースを着ているので、隠れ里で出会ったばかりのころのように見えた。スミレ色の大きな目でかれを見あげ「万年王子様」などと小憎らしいことを言っていたころの少女に見えた。


 ほっとして緩みかけた口もとをおさえ、なるべく厳粛げんしゅくな顔をつくる。着陸の命令を送ると、アーダルはばさりと翼をおさめ、ゆったりと草地に肢をおろした。ほぼ同時に、かれ自身も竜の背から飛び降り、竜の力を補助に軽やかに着地する。


 巨大な羽音に、リアナがふり返ったのが見えた。その動きに、デイミオンはふと一瞬の違和感をおぼえたものの、原因はすぐにはわからなかった。


 なにかに気を取られたように、リアナは一度こちらに向けた頭を、また西へと戻した。

 あとから考えれば、違和感の正体はここにあった。アーダルほどの巨竜が降り立ったのに、リアナは直前までそれに気づかなかったようにあわててふり向いた。そして、夫を確認するよりも早く顔を戻した。


 彼女の注意をそらしたのは、なんだったのか? 

 おもむろに伸ばした細い腕は、なにに向かって伸ばされたのか?


 デイミオンの目には、リアナが見たオレンジは映らなかった。かわりに、彼女には見えないものが見えていた。白竜のライダーがまれに使う、光をもちいた幻術だ。


 は、たそがれの平原に煙のようにあらわれた。おそらくはデイ自身とおなじほどの長身、褐色の肌、銀色の長い髪。


「――マリウス卿!」

 デイミオンは、思わず叫んだ。


 もし、この場にいたのがデイミオンではなく弟フィルバートだったら、それがかつてのマリウス卿ではなく〈くろがねの妖精王〉と呼ばれる男だとわかっただろう。


 妖精王がなにごとかを話しかけ、リアナが答えた。首を横に振り、後ずさる姿が拒否を伝えていた。


「妻から手を離せ!」

 デイミオンの怒りが、瞬時に黒竜をめぐり、炎と化した。たそがれの中、見えないなにかが燃えて虹色の水蒸気をあげはじめている。


 妖精王はちらりとデイを見たが、リアナを腕に囲ったまま、さっと身をひるがえした。

「デイ――」

「待て!」

 制止もむなしく、二人は音も姿もなくかき消えた。ただ一言、男がリアナにかけた嘆願の声が聞きとれた。



「悲しくてやりきれない。一緒に来てくれ。私をひとりぼっちにしないでくれ、リアナ」


 後には、落ちて潰れた鮮血色の果実だけが残されていた。



(第三幕へ続く)

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