6 二人のうち、彼女をさきに捕まえた男が

第29話 思わぬ再会


 ♢♦♢ ――デイミオン――


 キーザイン鉱山を目前もくぜんにして、デイミオン・エクハリトスは悄然しょうぜんとした様子だった。時刻は早朝、目立たないようにと近場で借りた竜車の中である。

 後ろにくしけずられた黒髪が、簡易冠をはめた額に垂れて王の苦悩に色気をそえていた。黒竜神殿の女性神官たちがいれば黄色い歓声をあげそうな、うれいをおびたやつれ具合であった。


 無事に記憶を取りもどし、ようやく夫婦の絆を修復したと思っていた妻に逃げられたばかり。激怒して追ってきたはいいが、その妻は実弟フィルバートのもとにいるという。怒りと失望と嫉妬と、それ以外のあらゆる感情とがいりまじって王を襲っていた。


 おまけに肉体的な疲労もあった。

 話は昨晩にもどるが、ケイエの領主エサル公はおおいに不機嫌だった。王に急襲されてうれしい地方領主などいないし、おまけに前の晩に王配リアナが来たばかりである。公は『痴話ゲンカに巻きこまれて迷惑だ』と言ってはばからなかった。かれの溺愛する姪フラニーに王の代理業務を押しつけた負い目もあり、デイミオンは下手したてに出るほかなかった。なんとかなだめすかして、ひと晩をここで過ごしたというリアナの様子を尋ねるのに骨を折った。


 さらに、儀礼上のあれこれもあった。王として領主の館をたずねておいて、用件がすんだからとさっさと去るわけにもいかない。エサルとデイミオンは、二人ともまったく乗り気でないまま正餐せいさんをともにした。通夜の席のような食事を終え、はやる気持ちをおさえて出立しゅったつを告げると、今度は思わぬ伏兵に行く手を阻まれた。公の義弟――つまりフラニーの父親である。ふだんは妻ブリギットの添えもの程度にしか認識されていない中年男の鬼気迫るいでたちに、デイミオンはたじろいだ。


『たとえ陛下といえども、ひとりの父親として、娘を泣かせた男をむざむざ立ち去らせることはできません』


 ……もっともな話である。フランシェスカの名誉のため決闘を申しこまれれば、デイミオンはそれを受けないわけにはいかなかった。責められるべきは、この場にいない妻である。そもそも第二配偶者の話は、かれに内密にリアナが勝手に進めていたものだったのだから。

 しかし、それで済む話ではないのが貴族の名誉だ。デイミオンはしぶしぶと勝負を受けた。(ちなみに、勝負の題目は古式ゆかしく相撲レスリングだった)


 相手は背だけは標準ほどにあるが、長衣ルクヴァがだぶついて見えるほど貧相な体格の優男だ。当然、どんな試合であろうが、体格でも場数でも勝るデイミオンの圧勝のはずだった。しかし……

 どちらかが意識を失うか、敗北を認めて投了するまでという決闘のルールが、皮肉にもデイミオンに不利にはたらいた。フラニーの父親は、外見の軟弱なんじゃくさに反して異常に打たれ強かったのだ。いくど投げようが絞めようが向かってくる中年男に、王は手を焼いた。おまけに試合場面は南部貴族たちにかこまれ、やっかみと面白半分にヤジられる。唯一の味方かと思われたヒュダリオンさえ、父親の愛に胸うたれたとかで滂沱ぼうだと涙を流し、まったく助けにならなかった。

 ようやくエサルが仲裁に入ったときには、すでにデイミオンは疲労困憊ひろうこんぱいで、さすがに仮眠を取るほかなかった。


 そして――結局、朝になってしまった。


 徹夜で妻を追うつもりだったデイミオンにとってはおおいに痛手となったが、朗報もないではなかった。明け方、黒竜アーダルの巨大なグリッドに、リアナの心臓の動きが引っかかったのだ。西部領主家からの伝令は、癒し手ヒーラーでもあるアマトウがリアナの〈竜の心臓〉を再活性化したと報告していた。つまり、これで妻を取り逃がす心配はなくなったのだ。


 あとは、どういう顔でリアナの前にあらわれるかという点だけだった。

 夫である自分を裏切って別の男のもとに逃亡したのだから、当然、黒竜の怒りとともに立つべきだった。だが……


「そんなことは、あいつは見こしているんだろうな」


 デイミオンは力なくつぶやいた。かれの知るリアナは悪辣あくらつではないが、必要なら自他が傷つくことを仕方がないと決断するタイプだ。この燃えあがる怒りさえ、彼女は利用するつもりだろう。後戻りするための橋を焼き落とし、自分と離れるために。


 逆に言えば――、

 プライドを捨てて彼女を許せば、やり直す道はある。そうすればリアナを取りもどせるだけでなく、離婚という彼女の計画をくじくこともできる。


 ごとごとと走る竜車のなか、どちらの道を取るべきなのか、デイミオンは考えあぐねていた。



 ♢♦♢ ――フィルバート――


 一方のフィルバートは、生まれ変わったような爽快そうかいな気分だった。


 緑狂笛グリーンフルートの地獄のような離脱症状を脱し、寝台で目ざめたばかり。すっかり食欲ももどり、フェリシーが運んできたオートミールの粥をもりもりと食べていた。


 早朝のおだやかな光のなか、フィルはこのうえない幸せにつつまれていた。


 昨晩は、夢にまで見たリアナがやってきて、かれを看病してくれたのだ。

 もちろん、内戦の危機があるこんな場所に、彼女に来てほしくはなかった。リアナに告げた言葉も嘘ではないが、同時に自分に会いに来てほしかったし、だからこそぐずぐずと出発を先延ばしにしていたのだと今ならわかる。

 そして、彼女はやってきた。夫のもとを離れ、こんなへき地まで、たった一人でフィルに会いにきてくれた。(シジュンのことは、都合つごうよく忘れていた)

 離脱症状の苦しみからかれを救い、ひと晩中つきそってくれたのだ……。



『あなたは、永遠にわたしのもの』

 そう言ってくれたリアナの優しい声と、抱きよせてくれた胸のやわらかさを、フィルは陶然とうぜんと思いかえしていた。その言葉が、人生の目的をうしないかけていた自分の心をどんなに軽くしてくれたことか。あれこそ、自分が欲しい言葉だったのだ。

「ん? ……そのまえになにか、大事なことを打ちあけてくれたような」

 木匙を見つめて思いだそうとしたが、すぐには出てこない。昨晩は朦朧もうろうとしていたのでしかたがない。あとで、リアナにもう一度尋ねようと思った。



 食事を運んできてくれたフェリシーはあいかわらず笑顔で優しかったが、どことなくよそよそしいそぶりでかれに接した。

具合ぐあいはどう?」

「すごくいいよ。生まれ変わったような気分だ」

 フィルは満面の笑みで答え、それから尋ねた。「リアナはどこに?」


「ええと……」

 フェリシーは微妙な表情で答えた。「リアナ王配さまなら、アマトウ卿のところに呼ばれていったみたい。あなたの治療のこととか、いろいろ打ち合わせがあるらしくて。それにほら、食事もまだだったし」

「そうか」

 フィルは笑みを深めた。「はやく戻ってこないかな」


 食後、皿を下げにきたタイミングで、フェリシーはさりげなく「言いづらいことなんだけど」と切りだした。

「やっぱりあなたは、普通の女性の手には負えないと思うの」


 その言葉に、フィルはぱっと顔を輝かせた。「俺もそう思う」


 フェリシーのつくり笑顔と、フィルの満面の笑みが向かいあった。

 二人のあいだに、なんとも言えない沈黙が流れた。

 

 沈黙をやぶったのは、肉食獣の気配に耳をすませるシカのようなフィルの動きだった。やや離れたところにまった竜車の音をハートレスの耳でひろったのだが、フェリシーはけげんな顔で話をつづけた。

「それでね、アマトウさまのお屋敷であなたをてもらえるって。こういう……治療って、やっぱり人手が必要でしょ。うちも兄夫婦はいるけど、昨日みたいなことがあったときのことを考えると……ね?」

「……」

「もちろん、私はあなたにずっとここにいてほしいんだけど……現実的に……」


 フィルは彼女のほうではなく、扉に目をやって「ちょっと待って」と制止した。

 来客を告げるノックが聞こえたのは、その時だ。


「リアナかな」

 フィルは快活に声をはずませ、寝台から起きあがった。体中に活力がみちていて、なんならいまから剣の稽古ができそうなくらいだ。彼女が戻ってきたら、もうぐずぐずと泣きごとを言ったりしない。抱きしめて、俺の人生の目的はあなただというんだ……。


「フィル。まだ寝ていないと……私がお迎えするわ」

 だが、フェリシーがあわてて声をかけたときには、フィルはすでに寝室を出て戸口に立っていた。病後と思えないすばやさだ。



「リアナ……」

 とろけるような笑みを浮かべてドアを開けたフィルだったが、そこに立っていたのは、思ってもみない人物だった。


 自分よりたっぷり3インチは高い身長、がっしりとした肩幅、全身黒に銀の縫い取りのある豪奢ごうしゃ長衣ルクヴァ


 リアナの帰宅を期待していたフィルは、驚きも忘れてぱちぱちとまばたきをした。「……デイ?」


 デイミオンはといえば、当然自分がここにいると調査してやってきたに違いないのに、フィルとおなじくらい驚愕きょうがくしていた。


 黒竜の王は弟の鎖骨あたりに目をおとし、ぼうぜんと呟いた。「なぜ、おまえが持っている? ……リアナはどこなんだ?」


 兄弟は、あまり似ていない顔を向きあわせた。


「え」

 フィルは思わず、素の顔で問い返した。

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