第28話 永遠にわたしのもの


「リアナ」


 寝台の上のフィルが、彼女の名を呼んだ。ヘッドボードの脇にはシジュンが立っていて、なにかあればすぐに制止できる体勢をとっている。それでも、いまのフィルに近づく危険は意識しないわけにいかなかった。


「これは幻覚なのか? あなたは、掬星きくせい城にいるはず」

 フィルの言葉で、かれの意識がまだ混濁していることがわかった。おそらく、シラノでの最初の治療のときに記憶が巻き戻っているのだろう。だが、それは大したことではない。


「あなたはいま、キーザインにいるのよ」

 フィルはあいまいにうなずいたが、彼女の言葉を理解したようには見えなかった。ただ、リアナがいるということはわかっているらしく、しきりと悔やんだり謝ったりした。


「俺はなんてことを」と、フィルは言った。「あなたと約束したのに。もう緑狂笛グリーンフルートは使わないと」


「そうね、あなたは約束を破った」

 リアナは首肯した。「でも、だから何だっていうの? テオだって、シジュンだって、何度も治療に戻ったじゃないの。どうして自分だけ特別だと思っているの? ……失敗したなら、もう一回、最初からはじめるだけよ」


 それからしばらく、介抱だけに集中した。汚れた衣類を脱がせ、汗を拭き、清潔な服に着せ替える。フェリシーがパン粥を持ってきたので、それを食べさせた。ずいぶん弱っているようで、やわらかい食事なのにうまく飲み下せないでいる。フェリシーが言うには薬を使用しはじめたのは最近らしいが、それにしては離脱症状が重すぎる。老人のようにだらしなく汚した口もとを、リアナはぬぐってやった。


 ケイエの城を出てすぐに、シジュンがスタニーからの伝令を受け取った。それですぐにここに駆けつけられたのだが、フィルがずいぶん危ない橋を渡っていたことを知ってリアナは愕然がくぜんとした。政治情勢の不安定なキーザインに単身で乗りこんでいったのもそうだが、医師の許可もなく、またあの薬を使っていたなんて。


「苦しくて耐えられない」

 シジュンに寝台に寝かされながら、フィルは苦悶くもんの表情を浮かべた。「耐えた先になにもないとわかっていて、どうしてやり遂げなければいけないんだ?」


 そう言い残して、フィルはまた浅い眠りに落ちた。


 ♢♦♢


 昼にニシュクの本家からアマトウがやってきて、フィルをてくれた。各種の数値からみて、フィルが望まない形で高濃度の緑狂笛グリーンフルートを摂取しただろうという見解だった。スタニーから聞いたあれこれと考えあわせると……。およそ推測の結果は、歯噛みしたくなるようなものだった。


「キャンピオンが生き残っていたなんて。こんな形で、フィルに復讐したのね」

 リアナは爪を噛んだ。スタニーは今すぐに老科学者を捕らえるつもりはなく、泳がせておくと言っていたが、できることなら自分の手でくびり殺してやりたいほどだった。


「あの薬包を、隊長に飲まさないでいてくれたらよかったのに……」

 シジュンが呟いたが、リアナは首をふった。

「……彼女を責められないわ。フィルは依存症のことも、なにも打ち明けていなかったんだもの」

 もっとも、それを知っていたのは元部隊員たちをのぞいてはリアナとデイミオンだけだった。自分がもっと目を配っていたら、とリアナは悔やんだ。


「すこし落ち着いたら、ニシュクの屋敷に移しましょう」

 と、アマトウが提案してくれた。「うちなら術師の目も届きますから、ご心配なく。われわれ西部の者たちは少なからず、フィルバート卿に恩があるのですから」

「ありがとう。最終的には王都に移したいけど、当面、そうさせてもらうわ」

 リアナはほっとした。

 それから、アマトウには停止していた〈竜の心臓〉の再活性化も頼んだ。これで竜たちのグリッドからは逃れられなくなるが、古竜の力を使えるようになる。

 スタニーにフィルの状態を聞いたときから、うっすらと考えていることがあるのだった。

「フィルの治療について、こういう方法を考えているんだけど……どう思う?」

 リアナのある提案に、アマトウは目を見開いた。

「考えてみたこともありませんでした。……ですが、デイミオン王の前例がありますからね。エンガス卿とも相談してみましょう」

「ぜひお願い」

 アマトウはニシュクの屋敷に来るようにと彼女を誘ったが、リアナは丁重に断った。

「でも、エンガス卿の顔を見にそちらに立ち寄るわ。すぐには無理だけど、近いうちに、かならず」


 ♢♦♢


 夕方、スタニーが伝令竜バードのしらせを携えてやってきた。すでに、王が黒竜アーダルを駆ってケイエのすぐ手前まで迫っているらしい。さすがに南部公の城をただ素通りすることはできないだろうから、少なくとも数刻は滞在するとして……ケイエからここまでは数刻の距離だ。〈竜の心臓〉も動いている今、いつ夫に捕捉ほそくされてもおかしくなかった。

 昼にはやや落ち着いていた症状が、夕方からまたひどくなりはじめた。フェリシーは怖がったが、なだめたり脅したりして仕事を申しつけ、外に出させずにおいた。フィルの病状にしてもリアナの滞在にしても、いま彼女に口を滑らせてほしくなかったからだ。

 それに、離脱症状は永遠に続くわけではない。その後はフェリシーにも看護できる状態になるだろう。


 寝室からは、言い争うような声とガタガタッと激しい音が聞こえていた。以前にもあったように、せんもうがはじまったらしい。シジュンが対応してくれているが、自分も手伝いにいったほうがいいだろう。

 おびえるフェリシーに、「この夜を越えれば、ずいぶん違うはずよ」と声をかけた。そう信じたいという希望もずいぶん含まれてはいたが。


 リアナは意を決して、寝室に足を踏みいれた。


 フェリシーは質素ながらも清潔に、趣味よく手を入れていたに違いない。かろうじてそうわかったのは埃のない床くらいだった。木製のドロワーは無残に破壊され、マットレスも一部が引き裂かれて綿が飛びだしている。

 

 どうやら今夜のフィルは、部屋を廃墟となすまで動きまわるのをやめるつもりがないらしかった。亡霊のように歩きまわったかと思うと、急に大声でわめき、止めようとすると暴れる。せん妄状態のときには話は通じないので、収まるまで待つか、寝台にくくりつけるしかない。しかたなく三人がかりで取り押さえ、椅子に縛りつけた。

 口ぎたなくののしり、悪態をついて、フェリシーはおろかリアナのことも認識できていないようだった。目だけがせわしなくぎらぎらと動き、不眠のために落ちくぼんで、異様な形相に拍車をかけていた。

 フェリシーはついに耐えられなくなったらしく、部屋から出ていった。無理もない。


 

 シジュンにおさえこまれてなお、フィルはガタガタと落ち着きなく椅子を揺らしている。

「畜生。アエディクラ軍に捕まったのか」

「放せ! 触るな!」

 そんなことをわめいているが、シジュンもリアナも動じなかった。


「どうして、そんなに慣れてるんですか? おれだって、けっこうおそろしいのに」

 シジュンが苦笑いしながら聞き、リアナは「二回目だからよ」とまじめに答えた。料理以外では一度も刃物をもったことなどないような顔をした柔和なフィルの、その秘めた獣性を見たのはこれがはじめてではない。シラノで最初に離脱症状を見たときには、おそろしくて体が固まってしまった。いまのフェリシーと大差なかったのだ。無知からくる恐怖は大きい。フェリシーも次にはもっとうまく対処できるはずだ。フィルに対する愛情の差ではないと信じたい。


 その場の全員にとって長く、肉体的にも精神的にもくたくたに疲れる夜だった。フィルは食事を毒入りだと信じて断固として受けつけなかった。フェリシーは今夜は兄夫婦のところに行きたいと泣きごとを言った。リアナも夫のところから逃げてきたばかりで、おまけに昨晩からの不眠でイライラしていた。さいわいだったのはシジュンが平静を保っていたことで、かれがいなければひと晩を乗りきることはできなかっただろう。


 フィルは激しく暴れたかと思うと、ぼんやりと一点を見つめたりして一貫性がなかったが、リアナは辛抱づよくつきあった。

 妄言を否定せず聞いてやっているうちに、リアナはしだいに、自分もおなじ地獄のなかにいるような気がしてきた。ヴァデックの泥濘ぬかるみが、敵兵たちの雄たけびが聞こえるようだった。

 奇妙なことに、フィル自身もかつて、リアナの声が戦場で聞こえたと打ち明けたことがあった。あの過酷な雪山越えのときに、それを思いだしたのだと。もちろん当時、リアナはまだ生まれていない。だがこうやって意識だけが行きつ戻りつしているなかで、そのどこかで彼女の声を聴いたのだろう。

 それは、シラノでの最初の治療での出来事かもしれないし、まさに今のことかもしれなかった。時間を超越した、そんな不思議な感覚を、リアナ自身も味わっていた。


(わたしも今、おなじ戦場にいる)

 敵陣に切り込んでいく男を引きとめ、おさえつけた。

 塹壕で寒さと恐怖に震える男の腕をさすって暖め、ここは安全な場所だと言い聞かせた。

 待ちわびた援軍が目の前で総崩れになる絶望を、ともに味わった。

 部下の遺体から髪を切り取ってまわる男を抱きしめた。


「この先はあるわ。フィル、今夜を耐えて、生き延びて」

 男の頭を胸に抱きとめ、リアナは告げた。「あなたは父親になるのよ」



 ♢♦♢


 すっかり疲れきって、三人の誰もが交互にうつらうつらしていた。リアナは床に座りこんで、寝台に頭をもたせていたが、窓から差しこむ朝日で目をさました。このひと晩を乗りきったという充足感が満ちてくる。


「よく耐えたわね。あなたを誇りに思うわ」

 無精ひげがざらつく頬を包んでやると、フィルはうつろな目を開いた。リアナの胸もとには〈竜の心臓〉がほのかに淡く輝いている。その光を不思議そうに見つめてから、顔をあげた。


「……リアナ?」


 徹夜の看病がこうそうしたわけではなく、おそらくは単に朝が来てせん妄が終わったというだけだろう。だがリアナは、フィルが自分を呼ぶのが聞けて嬉しかった。


「そうよ、わたしよ」

「あなたは……シグナイにいると、スタニーが」

 フィルは自信がなさそうに言った。「ここには来てほしくなかった」


 それはいかにもかれが言いそうなことで、疲労にもかかわらずリアナは笑ってしまった。


「あなたがわたしをこばんでも、何度も、何度でもあなたを救いに来るわ。……フィル、あなたは永遠にわたしのもの」

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