第27話 わたしの怪物

 ♢♦♢ ――フェリシー――


 目の前の女性を、フェリシーはまじまじと観察した。

 金髪の、自分と同じ節年齢ほどの若い女性だった。草色のワンピースに編みあげのブーツという姿で、上王どころか、貴族女性にすら見えない。これまで、フェリシーにとって身近な貴族女性はフィルの母レヘリーンしかいなかったので、それもしかたがないのだが……。

(そういえば、レヘリーンさまも「上王」だわ)


 だが、黒竜王デイミオンの前にはたしかに、若い女性の竜王がいた。持病がありたった一年で退位してしまったが、いまでは王配として名が知られている女性が。


 上王リアナと紹介された女性は、こぢんまりした住居のなかをうさんくさそうに見まわした。その様子に、フェリシーは反発心をおぼえる。……こんな平凡な女性が、かつての白竜王なの? たしかに、噂にきくスミレ色の瞳はめずらしいものだけど……。


「それで? わたしの夫はどこなの?」

 女性のセリフに、フェリシーははっと制止のそぶりをした。

「待ってください。リアナ陛下――は、王の妻でおられるのでは?」


 リアナ王配は片方の眉をあげた。

「フィルはわたしの、一時配偶者よ。夫と呼んでさしつかえないと思うけど」

 女性二人は、非友好的な視線をかわした。

「一時って……フィルは、結婚は破綻はたんしたって言ってましたけど」

「そうだとしても、わたしは元妻だけど、あなたはなに?」

「婚約者です。お母さまにも紹介してもらいました」

 フェリシーは拳をにぎった。「すごく歓迎してくださいましたわ」

 恋人の元妻は、それを聞いてもさほど感銘を受けたようには見えなかった。

「デイに対するのと同じくらい、あの人がフィルにも関心をもってくれてればと思うわ。平民が領主貴族の妻になるのになんの反対も助言もしなかったとしたら、それは理解があるからじゃなくて、フィルに無関心だからよ」


「お母さまにそんなことを言うなんて。男ならだれでも、自分の母を悪く言われたくないはずです」

「あなた本当に、フィルとあの母親のやりとりを見ていたの? グウィナ卿にはもう会った?」

「グウィナ卿? いいえ、その方は存じませんけど……」

「フィルに肉親の愛情うんぬんを説くのなら、せめて彼女には会わせてもらったほうがいいわよ」

 リアナと名乗る女性は、ほっそりした腕を組んで思案げな表情になった。その姿勢で、自分とさほど変わらない小柄な身体に不自然なふくらみがあることに気がついた。もしかして、彼女は……?


 フェリシーが尋ねようと口を開いたのと、寝室の扉が開いたのは同時だった。二人の女性と一人の男の目がそちらに向いた。フィルバートが扉口に身をもたせるように立っている。


「フィル――」

 近づこうとするフェリシーを、長い腕が制した。有無を言わさぬその身ぶりに驚いて、見あげる。シジュンは全身に緊張をみなぎらせていた。


「陛下、お下がりを」シジュンが指示した。リアナは素直にうなずき、窓際まで下がった。

 ――なにを? なぜ?

 混乱するフェリシーの目の前で、フィルは変貌した。


 ゆらりと身を起こし、なにか不明瞭なことを呟いたように見えた。

「フィル?」

 恋人の目は一瞬、フェリシーをとらえた。近づいてこようとする姿に手を伸ばそうとすると、「呼びかけないで!」とシジュンが命じた。

 

 その命令の意味がわかったのは一瞬あとだった。

 フィルは獣のように吠え、シジュンに殴りかかった。長身の兵士は腰をおとしてかまえ、すばやく拳をよけた。つづく二打目と三打目を手のひらでがっつりと押さえこむ。おそらくふだんのフィルなら、体格差のある相手でも互角以上の勝負に持ちこめるだろうが、意識が混濁しめったやたらに拳を繰りだすだけではとうてい無理だった。

 シジュンの拳がみぞおちに入ると、フィルは嘔吐おうとした。


「なんてことするの! フィルも、あなたも――」

「近づくな!」

 シジュンに強く腕をひかれ、がくんと踏みとどまる。

 がしゃん! と鋭い音がして、思わず身をすくませる。フェリシーが脚を出そうとしたその数歩先に、陶製のポットが落ちてこなごなに割れていた。フィルが振りまわした手が、ポットに当たったらしかった。


「やめて、フィル! どうし――」

 続く言葉は、背後からの手におさえられてしまった。上王リアナの手が彼女の口をふさいでいる。

「注意を引かないで! いまのフィルは、あなたの手には負えないわ」


 元妻の訳知わけしり顔に腹を立てる暇もなかった。フィルが椅子をもちあげ、机にたたきつけたのだ。用意してあった朝食は床にぶちまけられ、椅子そのものもバラバラになって部屋中にとびちった。


「フィル、もうやめて!!」リアナの手が離れたすきに、フェリシーは叫んだ。

 自分のしゃぶつにまみれ、目を血走らせて部屋中を破壊してまわる男。その異様な姿は、英雄とも、青年貴族ともとても呼べなかった。


 フィルは足をすくませ、なにごとかを叫んだ。ろれつが回っておらず、フェリシーにはただ獣が吠えているようにしか聞こえなかった。こんなふうに、まるでこれから屠殺とさつされる家畜のように暴れまわるなんて。だが、かれをおさえこむ兵士には意味がわかったようにみえた。

「いいえ、ここはヴァデックじゃありませんよ、隊長」

 シジュンは悲しげに首をふった。

「よく見てください、雨なんか降っちゃいない。あなたが脚をとられているのは泥濘ぬかるみじゃなく、過去そのものですよ」

 かつての上官を腕にかかえ、元部下は諄々じゅんじゅんさとした。「おれたちみんな、あなたに救われたのに。あなただけがまだ、あの地獄にいるんですね」


「こんなの、私の知ってるフィルじゃない! 怪物だわ」フェリシーは誰にともなくつぶやいた。


「シジュン! 殴って気絶させて!」

 リアナが彼女の背後から命じた。シジュンは「もうやってます」と手短に答えた。言葉どおりに、彼の腕にはくたりと身体を折ったフィルがもたれている。


 背後にいたはずのリアナが、いつのまにか自分より前に出ていることにフェリシーは気づいた。

「たとえ怪物だとしても、わたしの怪物よ。あなたのじゃないわ」

 背中を向けたまま、リアナはそう言った。そして手を前にだして顔をかばいながら、フィルのほうに近づいていった。シジュンはそれを容認するようにうなずき、「脱水がひどいです」と報告した。


 そこでようやく、リアナはふり向いてフェリシーを見た。

「経口補水液を準備して。蜂蜜ハチミツと塩と水で作れるから。割合は……」

 言いかけたリアナの声を、フェリシーは金切り声でさえぎった。「ここは野戦病院じゃないわ! 病院でやって!!」


「今は動かせないでしょう! あなたにできることを、わざわざ頼んでるのよ!」

 リアナの一喝は、思わず身をすくませて相手を従わせるような力があった。フェリシーはしぶしぶ台所に向かった。


(あの薬……かなかったんだわ。あんなにひどく暴れるなんて)

 もちろん薬局のあるじを演じるキャンピオンが渡した薬包は頓服などではなく、緑狂笛グリーンフルートそのものだった。純度の高い緑狂笛が離脱症状で弱っていたフィルの身体に強力に作用し、急激な覚醒と興奮状態を起こさせたのだ。キャンピオンには本人なりのゆがんだ復讐の美学があり、毒物を使わずに純粋な処方だけでフィルを破滅させることに喜びを見いだしていたのだった。


 だが、それらはもちろん、そのときのフェリシーは知らないことだった。


 手が震えて、蜂蜜の小ビンを落としそうになる。反論がのどまで出かかったが、今は、あの場を離れられたのをありがたく思うべきなのかもしれない。なにか手を動かすことがあるのを感謝すべきなのかもしれなかった。



 ♢♦♢ ――リアナ――


 シジュンの介抱は手慣れていた。リアナが寝室に入ったときには、フィルは毛布と布切れをうまく使って寝台に固定されていた。手のとどくところに物はなく、部屋の隅に簡易便器が用意され、囚人といったほうがよさそうな扱いだ。だが、これが看護者にも本人にとっても一番安全な方法なのだとリアナは身をもって知っていた。薬が抜けきるまで、まだ幻覚も興奮も起こりうる。

 

 リアナはシジュンと協力して布をとき、身体を起こして糖分と塩の入った水を飲ませた。フィルは焦点の合わない目でコップを見つめ、むせながらその水を飲んだ。


「……ここで止まるわけにはいかないんだ」

 憔悴しょうすいしきった声でフィルは言った。「敵の進軍はもうカンザスに届いたと報告があった。ヴァデックの住民の退避は、まだ完了していない。おまえたちには、苦しい行軍を強いるが――」

 どうやら、見えない部下に向かって語りかけているらしい。

「あなたは間に合ったのよ、フィルバート」

 かれの耳に届いているとは思わなかったが、リアナは声をかけてやった。前に治療につきそったときと同じように。

「ヴァデックの住民はみんな無事よ。兵士の犠牲も出ていない」

 前半はともかく後半は嘘だったが、気休めにでもなればとそう言った。かれの獅子奮迅のはたらきにより、ヴァデックが守られたことは史実だったから。その鬼神のごとき戦いぶりはイティージエンで恐怖とともに語られ、かれは〈ヴァデックの悪魔〉と呼ばれるようになったのだ。……かつて悪魔と呼ばれた男は、もごもごとなにか呟いた。


「わたしはここにいるわ」リアナは男の手を握ってやった。

 フィルの手はされるがままで、長いあいだだらんと力を失っていた。おそらく、正気を取り戻すにはまだしばらく時間がかかるだろう。そう推測していたが、鼻をすすりあげる音につづいて、思ったよりもしっかりした声で名を呼ばれた。


「……リアナ」



 涙に濡れたハシバミの目が、彼女だけを見ていた。

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