第26話 かれを連れていかせない
フェリシーは、古びた鏡にわが身を映して笑顔になった。
鏡のなかには、誰もがふり返りそうな若奥さまがはにかんでいる。濃いブルーのデイドレスに、栗色の髪はゆるく結いあげて
「お茶会のときにでも、着ていらしてね」
と言われ、フェリシーは天にも
「靴とバッグがあればなぁ。……でも、さすがにそこまで厚かましいお願いはできないわね」
鉱山の手伝いですこしばかりの現金収入はあったし、兄も婚資を貯めてくれているから、それくらいは買いそろえてもいいかもしれない。なんといっても、自分は領主夫人になるのだし。
もう就寝の時間だから、身体に合わせるだけですぐに着替えるつもりだった。でも気が変わって、やっぱりフィルに見てもらおうと思った。夜の見回りに出たかれが、そろそろ戻ってくるだろう。
ふわりとすそをひるがえし、「フィルは気に入るかしら」と呟く。もちろん、どんな服装でもかれは
直す部分がないか裾をつまんで確認していると、ドアがノックされた。扉を開くと、驚くことに見知らぬ男がフィルを抱えて立っていた。
「ちょいと失礼しますよ。……かまいませんね?」男はそう言うと、引きずるようにしてフィルを部屋のなかに入れた。
「フィル!」
男の肩からずるりと落ちそうになっているフィルを、慌てて抱きとめる。「どうしたの!? ひどい汗……」
それに、吐しゃ物のすえたような匂いがした。フィルの服は、おそらく自分で吐いたもので汚れている。
「いったい、なにが……」
「離脱症状ですよ。
男は事務的な口調で説明した。「ここに来る途中から、ひどく出はじめてね。薬が完全に抜けきるまでは、地獄の苦しみだ」
男の指示で、二人がかりでフィルを寝台まで運んだ。
「あなたは……? どうしてフィルと……」
そう尋ねると、男はスタニーという名を名乗った。中肉中背で癖毛の黒髪の、特徴にとぼしい男だ。もちろんその地味な容姿が諜報任務に適していることなど、フェリシーは知るよしもない。
「元部下ですよ。ヤボ用で探していたところを、薬局の近くで見つけて連れてきた」
「部下のかた……」
「この人には
「それは、わざわざ……ありがとうございます」
フィルは、かつて部隊の長をしていたと聞いたことがある。おそらく、その時代の部下なのだろう。
「すみませんが、もう行かないと」
寝台のフィルがきちんと横を向いているかチェックしてから、スタニーと名乗る男は言った。
「じき、ここの問題を解決しにおえら方たちが来る。そしたら、この人の治療にも手が回るでしょう。それまでは、看病をお願いできますか」
「もちろんですわ」フェリシーは笑顔で
だが、去り
「ひとつ、助言しておきますが……」
と、おもむろに男は釘を刺した。「
「え……?」フェリシーは笑顔のまま、動きをとめた。そのときには、すでにスタニーと名乗る男は出て行ってしまっていた。
♢♦♢
フィルはひどく汗をかき、水分をたくさん欲しがった。彼女の寝台で糸が切れたように眠っているが、ときおり苦しそうなうめきが聞こえる。先ほど、汚れた衣服を着替えさせたが、このままでは服が足りなくなるかも。朝になったら人をやって、兄夫婦の手を借りたほうがよさそうだと思った。
(そうよ。ロイも
フェリシーは
(フィルはここに必要な人なのに……私と結婚するのに)
「おえら方って……黒竜の王? それとも、前の奥さん?」
思わず、そう呟きがもれる。
あの使いこまれた髪留めは、高価なものではなかった。貴族女性なのに、あんな木製の装飾具を大切にしていたのは、どんな人だろうかと思ったものだ。仕事熱心で、服飾には興味がない女性だったのだろうか。もしそうなら、自分とはちがうタイプの女性だ。フィルはどうして私を……。
考えだすと不安になってくる。
フェリシーは鏡台の前に立った。
(王都にはきっと、元奥さんがいる……そうじゃなくても、きれいな貴族女性がたくさんいるんだわ)
(でも、フィルの治療のためには……部下の人の言うとおりにすべきなのかしら)
嫉妬と恋慕のあいだにはさまれて、心が乱れてどうしたらいいのかわからなかった。うろうろと歩きまわる彼女の目に、鏡台の引き出しが映る。迷いながら、取っ手をつまんだ。……奥から、一包の薬があらわれる。
『
いつも薬を受け取っている薬屋の店主は、薬についてかみ砕いて説明してくれた。強い薬なので、中断すると苦しむことがあるということも教わった。
そして、店主はこの薬を手渡してくれた。『もし、薬をやめたいとおっしゃったら、これを飲ませるといい。離脱症状をやわらげてくれますよ』と。
不気味な身なりだが親切な老人で、『フィルバート卿には昔お世話になりましたから』と言っていつも割り引きしてくれる。町の者たちにあれこれ噂を流すこともないので、フェリシーにとってはありがたかった。その店主がくれた
寝室から、またうめき声がした。フェリシーははっと薬を握りしめた。
「フィル、ずっとここにいて。王都に戻らないで。どこかに行くのなら、私も連れていって」
半透明な紙につつまれた薬包からは、かすかにミントの匂いがした。そのことになにか引っかかりを感じたが、首をふって不安をはらった。
「ちゃんと看病してみせるわ。誰が来たって……かれを連れていかせない」
♢♦♢
それから朝まで、フィルはほとんど目を覚まさなかった。額の汗を拭いてやりながら、フェリシーはほっと息をつく。不安は、どうやら
不意の来客があったのは、早朝のことだった。
今日は採掘場に行く日だが、看病があるので休ませてもらうつもりだ。近所には使い走りをしてくれる子どもがいるので、三軒隣りのその家に頼みに行こうとしていると、扉がノックされた。
「早朝から申し訳ありません」
落ち着いた、ていねいな口調の男性の声が、ずいぶん上から降ってきた。
「スタニーから連絡を受けて、フィルバート卿がここにいると教えてもらったのですが、住所はこちらで合っていますか?」
男は見あげるほどに背が高く、整えた銀髪をうなじできっちりとくくっている。
「あの……?」
突然の訪問に驚いていると、男は一礼して名乗った。
「私はハートレス部隊の所属で、サイジューニスと申します」
「ハートレス……フィルの部隊のかた……」
そう聞いて、フェリシーの警戒がゆるんだ。昨夜のスタニーというやさぐれた男とはずいぶん違うタイプに見えるが、かれもフィルの味方なのだ。
「どうぞ、シジュンとお呼びを。フェリシー殿」
男は、思わず目を奪われるような笑顔をみせた。きれいに
「シジュンさん。フィルはたしかに、ここにいますわ。すこし具合を悪くしていて……」
フェリシーはドアを傾けて、男がなかに入れるようにした。かれが看病を交代してくれるなら、そのあいだ、すこし眠れるかも。
だが、シジュンと名乗る男は笑顔でドアをおさえたまま、すぐには部屋に入ってこようとしなかった。
「フェリシー殿。たいへん申し訳ないのですが、そちら側に数歩下がっていただけますか」
「? ええ」
彼女が言われたとおりにすると、シジュンは巨体をさっとずらし、うやうやしく一礼した。「どうぞ、陛下」
『どうぞ、陛下』? ……なにか、聞きなれない言葉が出たような気がする。おそるおそる目をむけると、そこには一人の女性が、
「それでは、あらためて――こちらにおられますのが、上王リアナ陛下です」
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