第22話 地下墓所のデイミオン

 ♢♦♢ ――リアナ――


 着席してまもなく、茶が運ばれてきた。リアナの来訪を知らなかったとは思えないほどすばやいが、ちょうど茶を飲む時間なのだとエサルは言った。供されたカップからは、華やかな果実の香りがする。


 茶をふるまうことで自分のペースに持ちこもうとしているのだろう。そう考えたリアナは、口をつけるとすぐに本題を切りだした。

「デイミオンと、離婚しようと思ってるの」


 それを聞いたエサルは、大げさに驚いたりはしなかった。鷹匠ファルコナーというあだ名を持つ彼は情報に通じているので、今回の騒動もいくらかは耳に入っているのかもしれない。

「それはなしらせだが、なぜ俺のところに持ってくるんだ?」

 カップを顔に近づけ、匂いを嗅いだ。侍従に向かってうなずいてみせる。茶の具合はこれでよいという合図だろう。


「あなたが喜ぶと思って」リアナは言った。

「まさか」

 エサルは大げさに肩をすくめた。


「お腹の子の父はフィルだけど、親権はデイミオンにある。これから先、エクハリトスとゼンデンの家のあいだで子どもが増えれば、脆弱ぜいじゃくな〈血の呼ばい〉に代わって王権が誕生してもおかしくない――」

 リアナは、そこでもったいぶった間をおいた。「と、あなたは思っている。でしょ?」


 当然のことながら、エサルはその言葉を肯定したりはしなかった。ただ意味ありげに茶をすすって音をたてる。

 リアナは続けた。

「わたしがデイと別れれば、その心配はなくなる。わたしの後釜に自分の身うちを推薦することもできる。その代わり、わたしが無事にキーザインに到着できるように援助してほしいの。できれば、も」


 赤竜公は、その提案に心ひかれたようには見えなかった。むしろ、うんざりしたようにわざとらしいため息などついてみせる。

「あなたの動きは、いくらかはこちらも把握していた。……が、いったいなぜ離縁など? 言ってはわるいが、王の翼の下にあるあなたが、ばたばたと羽を騒がせているようにしか思えん」

 その言葉はリアナの癇にさわった。

「別に、あなたにわかってもらわなくてもいいわよ」

 不機嫌に言う。「でもわたしはデイミオンのつがいで、雛鳥じゃないわ。雛を気にして羽ばたきをやめるようなことはさせたくないの」


「王の力をぐほどのなにかが、あなたにあるというのか?」

 エサルの質問は抜け目なかったが、リアナは隠しごとはしないつもりでいた。

「デイには……たぶん、歴代のどの王にもないほどの力がある」

 神事での、夫の威容を思いだしながら続ける。「アーダルとたやすく同期できることも、常人でない〈呼ばい〉の力も、わたしは側で見てきた。でも、その力を放出しないように、ずっと抑えこんでいる。わたしのために」


 エサルは「ふむ」と相づちらしき声を漏らした。リアナはさらに続けた。

「かれにはあれほどの力があるのに、わたしのせいでどこにも行けない。氏族たちの追及から、わたしをかばいつづけなければいけなくなる。それを見たくない」


 エサルは茶器から口をはなし、湯気ごしに彼女を見た。真偽を見極めるような、人を落ちつかなくさせる琥珀の目だ。

「で? 黒竜王の羽根の下を出て、どこへ赴かれるつもりだ?」

 リアナが黙っていると、当ててくる。

「〈竜殺し〉か? なんでもキーザインにいるらしいが」

「……そうよ」

 予想していた問いだったので、リアナはためらわずにうなずいた。


 予想していなかったのは、エサルの回答だった。「断る」と短く告げられ、思わずカップを持つ指に力がこもった。

「断るですって?」

「忘れたのか? 『西部には近づくな、王都にいろ』と進言申しあげたはずだが」エサルは念を押した。

「そうだったかしらね」

 リアナは涼しい顔をした。もちろん、鷹の姿であらわれたエサルに忠言されたことを忘れてはいない。ただ、したがうつもりがなかっただけの話だ。


「つくづく、忠言を受けれてはいただけないらしい。そういう部分は、ご母堂に似ておられるな」

 エサルはこめかみのあたりを指でんだ。「あの人も、臨月まで戦場に出ていた」


「わたしだって、好きで危険地帯におもむくわけじゃないわ。そこにフィルがいるんだから、しかたないでしょ?」


 今回に限ってはそれは真実だったのだが、エサルはそれを信じてはいないようだ。うさんくさそうにリアナを見て言った。

「『策士策に溺れる』とは言いたくないが、自分の男を相手に策をるのはやめたほうがよかろう。あなたには向いていない」


「わたしがデイミオンにかなわないと?」リアナは片方の眉をあげて不快を示した。


 エサルはあきらめたようにため息をつき、カップを下ろすと椅子に深く背をあずけた。

「そういう意味ではない。あなたは、エクハリトスの雄竜たちのことを分かっていない、と申し上げたんだ」

?」

「あの〈竜殺し〉とて、エクハリトスの竜に違いはないだろう」

 思ってもみない指摘に、リアナは思わず目をまばたかせた。

「フィルはそう思っていないと思うけど」


「あなたがやろうとしていることは、二頭の雄竜をたきつけて争わせるようなものだ。そんなことがしたいのか? 後世に賢王ではなく毒婦として記憶されたいのか?」

 エサルはそう問いかけたものの、リアナが口を開くまえに疲れたように続けた。「そもそも、なぜ俺がそれをさとしてやらねばならんのだ」


 リアナはよくわからなかった。

「夫婦のことは、デイとわたしのあいだの問題でしょ。子どものことはフィルとわたしの。どうしてそこで、わたし抜きで二人が争う話になるの?」


「それはあなたが男ではないからだ」

 エサルは顔をしかめたまま告げたが、その先を解説してくれる気はないようだった。

「とにかく……今夜はわが翼の下にあなたを庇護しよう。だが、そこから先はお断りだ。痴話ゲンカに何度も巻き込まれる、わが氏族と俺の身にもなってみろ」


 エサルには、こちらだって命を狙われた過去がある。お互いさまじゃないかと思うのだが、赤竜公はそれ以上話を聞くつもりはないらしく、竜騎手の護衛とともに体よく追いだされてしまった。



 案内された貴賓用の客室は、おそらくエサルの妻たちによって涼しげに快適に整えられていた。昼には一番ながめのいい場所だろう場所で、かつてデイミオンとフィルとともに眠れぬひと晩を過ごした部屋に違いないものの、雰囲気が変わりすぎていて確信は持てなかった。……あれから、ほぼ一節(竜族の十二年)の時が経っているのだ。


 立場上、豪勢な見知らぬ部屋で寝ることには慣れているつもりだったが、なかなか寝つけなかった。エサルの協力を得られない以上、キーザインまでの道のりには夫の横やりが入るだろう。おそらく、夜通し彼女を追う飛竜の兵士もいるはずで……。〈竜の心臓〉が低活性化して見つかりにくいとはいえ、追いつかれればこちらにはライダーもおらず、なすすべがない。どうすればいいのか……


『目を閉じていろ。眠れなくとも休まるから』とささやく、穏やかな夫の声を思いだしてしまった。目を覆ってくれる大きな手も。……あんなふうに優しく庇護され、なんの心配もなくやすむ夜を、自分から手放してしまったと考えずにはいられない。


(今ごろ、ずいぶん怒っているでしょうね。いえ、憎まれているかも)

 そういうふうに仕向けたとはいえ、夫が自分を憎むという想像は胸が冷えるものがあった。記憶をなくしてしまうのと、どちらがつらいだろうか。しかも今度は、自分が望んでやったことなのだ。


(でも、もう決めたことだわ。わたしは彼の雛鳥じゃなく、つがいなのだから。わたしにだってデイミオンを守る責任はある)


 明日一日を乗りきることだけを考えよう。そしてフィルのことは、キーザインに着いてから……眠れなくても、せめて目を閉じるだけでも。


 逃亡一日目の夜は、そのように不安に過ぎていった。



♢♦♢ ――デイミオン――


 その日はもう遅かったので、デイミオン自身が追跡するのは明朝ということになった。各所からの連絡を待ち、ある程度の確信を得たら西に向かうつもりでいる。文字通りぴりぴりとした電光をはなっていた黒竜王に、おそるおそる叔父が近づいてきた。 


「あー、邪魔をしてすまないが、男たちがうるさいのでな」

 そんなふうに前置きをして言う。「なにも、おまえ自身が彼女を追っていかなくてもいいのではないかという者が多い。なにしろ祭で男手も戻ってきているし、ここに座して報告を待ってもいいのではと。妊婦の身で遠くまでは移動しないだろうし」


 怒りはまだ収まらなかったが、男たちのその意見を予想しないではなかったので、デイミオンは強く反論しなかった。ただ、予定だけを淡々と告げる。

「どのみち、もうシグナイに用はないんだ。王都に戻る途中にを済ませていくほうがいいだろう」


「うむ……」ヒュダリオンはまだなにか言い足りないのか、落ちつかなく脚を組みかえた。


「ヒュー叔父。言いたいことがあるのなら今、済ませてくれ。明日は忙しい」

 デイミオンが命じると、叔父はなおも迷いながら「ああ」「うむ」と無意味な声を出した。


「どうやら氏族の誰ひとり、おまえがリアナ・ゼンデンを連れ戻すことを望んでいないらしいな」

 ヒュダリオンは言わずもがなのことを言った。

「私からおまえを止めるようにと、みな言ってきた。私から見ても、彼女はすこしばかり……その、危なっかしいところもあったし」


「そんなことは最初からわかっている」デイミオンは顔をそむけた。

 一族がのぞむのは健康で多産な嫁、できれば一族の女性だった。リアナが王として、また王配として成し遂げてきたことなど、エクハリトス家にはなんの価値もない。たとえ、デイミオン自身がどれほど彼女を大切に思っていようとも。


「だが……私が言いたいのは……これは言うべきでないのかもしれないが……」

 言葉どおりにためらいつつ、ヒュダリオンは言った。「おまえの父、イスなら、妻を追っていったと思う」


 急に父の名を出され、デイミオンはいぶかしげに叔父を見た。

「レヘリーンはとうてい、良妻賢母といえる女性ではなかったし、われわれも奔放な彼女を扱いづらく思うこともあった。……が、イスは生涯、おまえたちの母を盲愛しつづけた」


「……」


「それに、私もだ。……マリエンがほかの男のもとに出奔したらと思うと……やはり、どれほどの恥をかかされても、彼女の無事を見届けずにはいられない……と……思う」


「そんなふうに女々しい考えだから、あなたは氏族の尊敬を得られないんだ。ヒュー叔父。適齢期の女など、ほかにもいる。もっと従順で、健康で、家柄の都合もいい女が」

 デイミオンは冷たい声で言った。


「そ……そうだな」ヒューは急に、取りつくろうような調子になった。

「おまえがそうでないなら、それでいいんだ。私はおせっかいだな。また、マリエンに叱られる」


 その言葉に、デイミオンは理不尽ないらだちを感じた。ヒュダリオンのつがいは、かれを置いて出奔したりしないのだ。


「俺に意見をする暇があったら、あの分家の養子でも監視していてくれ。リアナからまだ命じられている計画があるかもしれない」

 恐縮する様子の叔父に、なおもデイミオンは宣言した。「つがいの相手はほかに探す。だが、リアナには逃亡の責任を取ってもらう。俺の手で捕まえるのは、そのためだ」



♢♦♢ 


 そう、ヒュダリオンには言ったものの――


 叔父の言葉に、やはり何かしらひっかかるものがあったのだろうか。真夜中をすぎたころ、デイミオンは亡父の墓所を訪れた。代々の氏族長が眠るのは本家の城なのだが、父のイスタリオンは当地に埋葬されることを望んだ。この館を立てたのが当人だからという理由もあるのだろうが、イスタリオンには孤高を好むひねくれた一面もあったから、そのせいかもしれない。


 墓所は館の地下にあり、ふつうの者が夜におとずれたいような場所ではなかった。だがもちろん、黒竜の一族にとって夜に明かりをともすことはたやすい。壁に備えてあるはずの蝋燭に、手を触れずに火をともそうとしたとき――指先が青く光った。昨夜の祭事から、おかしなことが続いている。

 昨夜、リアナはそれを見て――

 彼女がなんと言ったか、思いだすまいとつとめた。無意味だ。

 考えるのもめんどうで、デイミオンはそのまま、鬼火のような青い火を明かりにしながら奥へと進んでいった。


 地下の墓所は広く、大理石の巨大な柱と彫像が奥までいざなった。実際に埋葬されているのが父一人だということを考えれば、贅沢な墓だ。望むならこの先数代の当主と配偶者たちを納めることもできるだろうが、デイミオン自身は、ここに眠りたいと思ったことはなかった。おそらく自分は、死後は本家の城に埋葬するよう遺言するだろう。人生において、王であることと同様にエクハリトス家の長という立場を重要に思ってきたので。


 たったひとつだけ置かれた巨大な墓石を前に、デイミオンはしばしもの思いにふけった。もしかして父は、将来的に妻レヘリーンの墓をここに置くつもりだったのではないかと思った。叔父の言うとおり、イスタリオン・エクハリトスにはややロマンチストの一面があった。そう考えるにつけ、ちぐはぐな夫婦だったと思う。こんな孤独な墓所を、あの母が望むとは思えない。



「ここまで俺を虚仮にする方法しかなかったのか? 氏族たちの前で恥をかかされれば、離縁以外の道はない。そうまでして俺と離れたかったのか?」


 デイミオンは独白した。墓石には、亡父が横たわった姿が彫刻されている。エクハリトス家の男らしく長身で、組んだ手の下には剣をたずさえて。自分そっくりの父の似姿に、まるで死んだ自分に話しかけているような気がした。


「あいつは、そのことを知っていてこれを仕組んだんだ。……こんなふうに、俺の身動きが取れないようにして……なぜなんだ?」


 弱められた〈呼ばい〉、用意されていた飛竜と兵士、ナハーラたちへの口裏合わせ。そのすべてが、彼女の計画を裏づけていた。

 いや……さらに前、ロレントゥスを誓願騎手にしたときから、この計画を考えていたのだろう。リアナは、里を焼かれた遠因が自分の母にあることを気に病んでいた。もう、誓願騎手は欲しくないと言っていたはずだ。

 その信念を曲げてまで、自分に忠実な兵士が欲しかったとすれば――その理由は、王からの逃亡という、この計画以外にない。


 そこまで周到に計画をして、自分の前では普段通りの顔しか見せず、愛情を疑わせもしなかった。そのことが、デイミオンを深く傷つけた。もし〈血の呼ばい〉がまだ二人をつないでいるなら、竜の心臓ごと彼女を破壊しつくしたいと思うほどに。


「つがいの責任を果たすために、俺は最大限に努力してきたはずだ。なぜ、こんなひどい裏切りを?」


 片手で顔を覆ったまま、くぐもった声でつぶやく。

「リアナは、母とは違うと思ってきた。だが、結局は彼女も自分勝手な女なのか? つがいの責任も愛も棄てて、別の男に走るような女なのか」


「答えてくれ、父上、せめて何かの……」


 だがもちろん、イスタリオンの彫像はなにも息子に語りかけることはなかった。

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