第21話 逃げるリアナの胸のうち

 ♢♦♢  ――リアナ――


 岩山と砂地の、味気ない景色が広がっている。夫に手を取られて神殿から逃げたのは、つい数日前のことだ。リアナは頭を振って、なるべくそのことは考えないようにつとめた。


 魔法のような力をもたない飛竜が、古竜にくらべて優れている点といえば、まずは従順で乗りこなしやすいこと。そして飼料が得やすく、古竜ほどの大食らいではないことだ。

 それでも水を飲ませるための二、三度の休憩は必要で、そのあいだは追跡者にとっては見つけやすい状態になるため、リアナは注意しながら周囲を見はっていた。相棒のレーデルルがいないのも寂しいが、彼女は長旅を嫌うから、連れてこなくて正解だったかも。ピーウィはきれいなエメラルドグリーンの飛竜で、南部生まれなので熱と砂地を喜んでいるようだ。音を立てて水を飲んでいる様子に、ささくれた心が癒される。


「風もなくて、順調ですねぇ」

 間食おやつなど食べつつのんびりと話しかけてきたのは、ハートレスの兵士、シジュンである。先日の北部行で同行したものの、これまでの接点はあまりなかった。兵士というより、善良な農夫にでもなったほうが向いていそうに見える大男だ。

 デイミオンをしのぐ長身で、もじゃもじゃとした銀髪に顔半分をおおう顎ひげ。この逃避行のまえに切って整えるよう命令するつもりだったが、変装が必要なときにでも切ったらよいと考えをあらためた。それくらい、印象が変わりそうなもじゃもじゃ具合だ。


「この分だと、今日はあと一刻も飛べば、目的地に着きますよ」


「あまり猶予ゆうよはないわよ」

 リアナは釘を刺した。「夜までには、エサル公の屋敷に着かないと。そして、公の協力を得て明日にはキーザインに移動する。これしか、デイミオンの追跡を逃れる方法はないわ」


「だけど、大丈夫なんですか?」

 シジュンが聞いてきた。「エサルって人は、はんおう……なんとかって聞きましたけど」


派」リアナは訂正してやった。「あのね、政治の世界に永遠の敵も味方もないの。ナハーラたちと組んでいないなら、いまのエサルは中立のはず。それにわたしは、デイからわたしをかくまうメリットを提示できる。問題ないわ」


「はァ。おれにはよく、わかんねえですけど」

 要領の得ない相づちを打ちながら、シジュンはにこにこと笑っている。別に当意即妙の返答を期待しているわけではないが、なんとなく肩透かたすかしをくらったような気分だ。


 リアナは、シジュンを連れていくと決めたときのことを思いかえしていた。それは、この東部行きの直前になる。


***


「ライダーとハートレスの兵士が、一人ずつ必要だと思うの」

 リアナがそう告げた相手は、ほかならぬハートレス部隊の現在の長、テオだった。部隊はリアナの直属になるので、この内容が夫に知られる心配はない。


 フィルがいるはずの西部領キーザインまで、飛竜をとばして二日。王の精鋭たちから逃げるのには策も目くらましも必要だろう。そう考えての計画だった。


 連れていける兵士の選択肢は多くなかった。デイミオンの怒りにさらされることを思うと、将来の有望な若者は連れていきたくない。ハートレスを連れていきたい理由はふたつあった。ひとつは護衛。そしてもう一つは、万が一自分がデーグルモール化したときの血液提供者として。


 想定したくもないだが、備えないというわけにもいかない。

 だから、ケヴァンやミヤミは連れていきたくなかった――身勝手な希望だが、二人はリアナにとって弟妹のような存在だったので。


「もし、ハートレス部隊から誰か一人を連れていくなら、誰?」


 リアナの問いに、テオは「シジュンでしょうね」と即答した。

「経験が長く、俺の指示がなくてもある程度自分で動ける。身寄りがなく独身で、技術的にも代替がきく」

 その冷徹な評価は、テオが部隊の長として困難な判断に慣れていることをしめしているようだった。


 いきなり命を狙われるような危険は想定しなくてよいだろうが、見返りの少ない任務にはちがいない。それで、リアナはみずから、シジュンに説明に行った。断られれば、それでしかたがないというくらいのつもりで。


 それなのに、当人はアホのようににこにこして「了解っす!」とうなずいたのだ。


「いざとなったら、わたしの食糧になるかもしれないのよ」リアナは念を押した。

「わかりました!」

 なにがわかったのか不明だが、とにかく返事の声は大きかった。


**


 そんなことを思いかえしていると、そのシジュンが急に「おれ、コケモモを食べてるんです」と言った。目が隠れるほどのざんばら髪のせいで、口だけが笑っているような不気味な笑顔だ。


「はぁ? なに?」リアナは不機嫌に問い返した。「なんでも好きなものを食べたらいいじゃないの。わたしに報告せず」


 最愛の夫のもとをわざわざ出奔しゅっぽんしてきたのだ。彼女なりに理由があってのことではあるが、上機嫌というわけにはいかなかった。


 竜騎手のロールあたりなら「す、すみません」とおとなしく引き下がる場面だったが、この農夫はぞんざいな返答にもくじけなかったらしい。


「おれの故郷では、豚にコケモモを喰わせるんです。そうすっと肉が柔らかくうまくなるって、豚飼いの男の人が言ってました」


「それがなに??」リアナは眉をしかめた。


 子どもに言い聞かせるような優しい口調で、妙なことを言った。

「だから、コケモモを食うと、おれの血もうまくなるんじゃないかなぁって」


「はぁ??」

 なにを言ってるの、この男は? 


 北部領に帯同していたときから、うすうす思ってはいたが――どうやらこのハートレス、頭のネジが数本足りていないようであった。


 ♢♦♢


 東部領のシグナイからキーザインに飛ぶとすると、ケイエは一直線上にあるわけではない。やや国境側に南下する必要があるのだが、飛竜の飼育地として知られるケイエは良い休息所になるだろう。またキーザインの北側は標高が高く、どのみち南側から入ることになる。


 早朝から竜を急がせて飛び、なんとか追っ手にも捕まることなく、日暮れ後すぐにケイエの館に到着した。先ぶれも出さず、おまけにライダーもともなっていなかったので、エサル側にとっては完全な不意打ふいうちだったに違いない。


 当然のことながら衛兵に捕まり、門前まで竜騎手ライダーがあわてて顔を確認しにきた。そこから領主エサルのもとに案内されるまでは早かった。『ゼンデンの目』と言われる特徴的な紫の虹彩が、本人確認に一役買ったらしい。


「変わった目の色も、たまには役に立つわね」

 竜舎にけん引されていくピーウィを見おくりながら、リアナはつぶやいた。かれはケイエの生まれである。古巣だとわかっているのかどうか、フンフンと興味深そうに鼻先をひらめかせていた。

 シジュンはそれには答えず、いかにもハートレスの目つきで城内を観察しているようだった。銀髪長身の多い北部領では存在が薄かったが、南部では飛びだした釘のように目立っている。


「それにしても、ここの館に来るのも三回目だわ。不思議な因縁いんねんね」

 〈血の呼ばい〉を受けたばかりのころ、そして国境沿いで戦端が開かれようとしていたとき。かつては要塞として使用されていたため、他の城に比べると堅固で無骨な印象を受ける。エサル公その人にも似た城だ。



 そのエサルはふだんのウールではなく、夏らしくリネンの長衣ルクヴァを着て彼女を迎えた。

「リアナ陛下。俺の城にいったい、どんなご用向きだ?」

 堂々とした張りのある声。デイミオンの第二妻の件では煮え湯を飲まされたことになるが(リアナとしてはその意図はなかったが)、さすがに政治家らしく表面上は穏やかに、手ぶりで椅子をしめした。

 

「そう警戒しないで。あなたにも悪い話じゃないから」

「『悪い話じゃない』というのは、だいたい、切りだした側にとって一番都合のいい話と相場が決まっているな」

策略さくりゃくけた人物の言うセリフは、さすがに重みがあるわね」

 二人はひとしきり嫌味の応酬をしてから、たがいに向かいあって腰を下ろした。



 ♢♦♢  ――デイミオン――


 ほぼ同時刻の東部領シグナイ、エクハリトス家の館にて。

 デイミオン・エクハリトスは氏族たちを前に怒り狂っていた。



 自分に一言の相談もなく出奔した妻に対しても、それを手助けした者たちも、それから元凶であるフィルバートにも。記憶が戻った今となっては、リアナと実弟の婚姻関係が自分の差配さはいだということはわかっていたが、さらなる裏切りはとうてい受け入れることはできない。黒竜王の腹の底で、怒りと嫉妬は岩漿マグマのように煮えたぎっていた。


「子どもの父親と暮らす、だと……!? リアナめ、言うに事欠いて……」


 おまけにエクハリトス家の全員の男たちに、それを聞かれたのだ。妻から軽視されているということを、一族の者たちの前でつきつけられる。王にとって、氏族長にとって、これが屈辱と言わずしてなんというのか。


 怒りのあまり頭が真っ白になる、というのを、おそらく初めて経験したらしい。地鳴りはおさまらず、柱にはヒビが入って、熱風がぶわりと頬を撫でていった。指先には火の粉がちらつき、比喩でなくいまにも周囲を焼きつくしそうだ。


「どうぞ、おしずまりを……」親族のひとりが、託宣たくせんう神官のように震えながら奏上そうじょうした。


「デイミオン、おまえ、竜祖をろしてしまったのか? 青く光ったままだが」空気を読むということをしないヒュダリオンが、おかしな指摘をした。


 デイミオンは男たちのそんな声に応答することはなかったし、ほとんど聞いてもいなかった。……これほど怒れば光もするだろう。ライダーの怒りは、竜の怒りなのだから。


「よかろう」

 デイミオンは立ちあがり、地をうような低音で宣言した。

「そこまで俺を虚仮こけにするのなら――望みどおり離縁してやる」



「だが、のうのうとフィルと再婚できると思うなよ。その前に捕まえて、出産まで二度と外の空気は吸えなくしてやる。……もちろん、子どもは渡さないからな」

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