第19話 輝きの夜と、別れ
神殿から自室まで戻るあいだにも、視界のすみでぱちぱちと、炭酸がはじけるような光の断片が流れていった。地面から足が浮いているような浮遊感がある。手のひらを動かすと、ぱりっと電流が走った。
部屋は明かりを落として暗かったが、デイミオンが入っていくと、燭台は王の訪れを歓迎して炎を燃えさからせた。
「デイミオン、あなた、光ってるわ」
近づいてきた妻が言った。「わたしの旦那さまは、竜祖になってしまったの?」
リアナの手が顎にふれて、ようやく実体がこの世に戻ってきたような感じがした。だが共鳴がまだ残っているのか、ふつうなら見えないはずの
デイミオンは妻の顔をはさみ、盲人のように触れながらしげしげと眺めた。アーチ型の眉、細い鼻梁とちいさな鼻、ピンク色のやわらかい唇。こんなふうに初めて間近で見たのは、ケイエから王都への道で、廃城に
(あのときは、まだ、つがいの相手だという確信はなかった)
里を焼かれた悲劇を彼女自身が口に出したことはなかったが、その光景は生涯頭から消えないだろうということが、かれには経験から分かっていた。だが、戦時中は誰もがなにかを失ったのだ。まして彼女は王の子なのだから、死体の山の上に立たされる覚悟があるだろうと思っていた。……あの日、彼女の
あの日、デーグルモールたちの急襲を、リアナはみごとな推察で予知してみせた。
だが、冷静な顔で軍議を続けるあいだも、彼女のなかには焦燥と不安が嵐とうずまいていた。
(いま、考えちゃだめ――)
(でも、子どもたちは――ロッタとウルカの子どもたちが、まだ生きてケイエにいる)
(死なせたくない)
(死なせたくない)
(死なせたくない)
その強い恐怖を、デイミオンは〈血の呼ばい〉を通じて共有した。それでも自身を奮い立たせようと、顔をあげて向きあってきた彼女を思いだす。
『信じてくれる? わたしならできるって。里を守れなかったけど、ケイエはまだ間に合うって』
ケイエに飛び立ったリアナを見おくってから、デイミオンはかれ自身の職務をこなすつもりだった。ケイエ方面からの伝令を整理し、竜騎手団を指揮し、万一にそなえて城の守りを固める。オンブリアでは、王太子は王の代理でもある。だからこそ二人は、万一のためにも離れているべきだった。
だが、執務室から窓を眺め――彼女がなにを見て、どう動くのかと想像していると、なぜか焦燥感に駆られてたまらなかった。
――間に合わないかもしれない。
――彼女が今からケイエに飛んでも、すべてが起こった後かもしれない。
黒竜の神がかった力があっても、間に合わなければ人は死ぬのだ。戦時中に、嫌というほど思い知らされたように。
あの失望と無力感は思いだしたくもない。惨劇が起こってしまったことよりも、「自分がそれを止められたかもしれない可能性」のほうが、激しい苦痛を引き起こすとデイミオンは知っていた。……これまでは、それも竜の主人、王となる者の責務であると割りきって生きてきた。
――だが、そんな苦しみと後悔を、これからも負っていくのか? 彼女も、自分も?
たった一人で。孤独に。
そう考えるうち、居ても立っても居られなくなり、自然と足が竜舎に向いていた。アーダルで駆けつける? ……いや、それでは間に合わない。
「おまえが泣き叫ぶ声が聞こえたんだ。あの日、ケイエで」
『デイミオン、デイ、もう耐えられない』
「俺は……おまえに
『子どもたちを助けるはずだったのに』
『里は間に合わなかったけれど、ケイエは救えるはずだったのに』
涙も声もない乾いた
「……あなたは来てくれたわ」リアナは言った。「すごく怒ってた」
『なぜ助けを呼ばなかった? おまえが苦しんでいるときにそばに行くこともできないなら、〈血の呼ばい〉など何の意味もない』
リアナはかれの胸に頭をあずけた。
「あのとき抱きしめてくれて……あなたがいれば、苦しみを乗り越えられると思った。いつかは、子どもたちを取り返せると……」
彼女の肩を抱く腕の力が強まった。
その結末を、二人はもう知っている。
人間の女性に恋して子どもをもうけた、かつての
『父さんはあんたを我が子みたいに可愛がってたじゃないか! パンを分けてやって! 母さんはあんたの成人の儀の衣装を縫った!!』
『それなのに、なんで、なんで、父さんも母さんも兄弟たちも死んで、あんたは生きてるんだよ!? あんたが死ね、化物!』
「わたしは、ザシャの痛みに気づかなかった。それどころか、かれの処刑にサインをした。あれほどの思いをして取り戻したのに。絶対に守りたいものだったのに」
その憎しみの傷跡は、今もリアナの背中に残る。デイミオンの指が、夜着ごしに傷をなぞった。
「それでも……すべてが無駄だったわけじゃない。この手で救われた命も、たしかにあったんだ」
二人は後悔と喪失の痛みのなかで抱きしめあった。たがいに支えが必要であるかのように、この腕がなければおぼれてしまうかのように。
しばらくのあいだ、二人はそうやって黙っていた。
「ずいぶん遠くに行っていたのね」
リアナの目が潤んでいるのを見ると、自分でもこみあげてくるものがあった。涙をぐっとこらえ、デイミオンはうなずいた。
「そうだ。……だが今ようやく、おまえのもとに帰ってきたんだ」
背をかがめ、さらに強く妻を抱きしめながら、おごそかに言った。「もう離れない」
♢♦♢ ――リアナ――
リアナは夫を、
デイミオンは、気まぐれに地上に降りてきた炎の神のようだった。雄々しくて美しく、力強い炎の化身。まだ金色に輝いたままの目が、よけいにその印象を強めていた。……でも、手が届くし、触れられる。
「これに似た、ガラス張りの……温室のなかだった」
アトリウムのほうにさっと目を走らせた夫は、戻ったばかりの記憶をたぐり寄せていた。
「おまえは外遊中で、フィルのことでケンカ別れになって……エサルをあざむくためにイーゼンテルレを急襲した。会議のあと、今しかないと思ったんだ」
「わたしといちゃつくのが?」
「愛情を確認するのが、だ」
リアナが照れてごまかしても、デイミオンはきっぱりと答えてくれる。
「そうよ、デイミオン」嬉しさで涙ぐみながら続けた。「オレンジの花の、白い花弁が落ちていて……」
「こんな花か?」デイミオンが手のひらを上向けると、炎が小さな花弁の形に燃えていた。熱もなく白く輝く炎の花からは、甘い香りまで嗅ぎ取れそうだった。
リアナは首をもたげ、炎の花に見とれた。「……もっと見たいわ」
「今日は特別だぞ」
デイミオンは笑って、彼女に覆いかぶさった。その背中ごしに炎があがる。オレンジの光が噴水のように流れ、二人の肌をいろどった。あのときは二人とも正装で、
「もう、神事のとき以外には竜の力は使わないつもりだ」
「……そうなの?」
「ああ。だから、おまえはなにも心配するな。〈呼ばい〉のことも、腹の仔のことも」
「あのときの誓いは、不完全だった」
首筋に唇をはわせながら、デイミオンはささやいた。「だが……俺は
夫の声は、雄としての自信と達成感に満ちていた。リアナはそれが嬉しかった。もしかしたら、記憶そのものよりも。デイミオンには、自信に満ちた彼自身であってほしい。たとえ伴侶のためでも、力を抑えた弱々しい姿は見たくない。
夢のような光景に、口づけられる間も目を閉じられなかった。
部屋中に七色の炎がおどった。まばゆい新緑、夏の午前のような空色、フューシャピンク、カボチャの黄色、スカーレット、プラムの紫、藍色。壁に、天井に、自分たちの睦ぶ姿が影となって映る。
唇も、太く長い指も、リアナの悦ぶ箇所をすっかり思いだしていた。
引き締まった腰に手をまわすと、デイミオンの緊張が伝わってきた。押しつけられる昂ぶりと、夫が自分に欲情しているという事実そのものが、二重にリアナを興奮させた。
「これが欲しいか?」
尋ねる声はすでに確信に満ちていたが、リアナはかすれた声で「ほしいわ」と返した。デイミオンにとっては、この儀式が重要なことなのだと分かっていた。完全なアルファメイルとして、伴侶に求められるということが。
そして、かれが入ってきた。
夫に身をまかせることに不安は感じなかったものの、最初の交わりはかなり激しく容赦がなかった。二人ともせっぱ詰まってもいたから、おたがいの快感にまで思いをめぐらす余裕もない。それでも夫に求められているということに深い満足感を覚えた。……
交わりは夜が明けるまで続いたが、二度目、三度目と交わりを重ねるあいだに、いまのリアナが気持ちよくなれるように工夫をしてくれるようになった。二人はその合間にもとめどなくしゃべり、戻ったばかりの記憶を確認した。
リアナもこれまでのことを話した。フィルとの結婚生活の終わり、目ざめたばかりのデイがアーダルとともに消えた衝撃、北部領への旅、三老人たちのたくらみと攻防、ついに彼を取り戻したときのこと……
「しあわせよ、デイミオン。あなたを愛してる」
二人の結婚生活は長く、なにを言えば相手が喜ぶかもおたがいに分かっていた。だからこれはデイミオンを満足させるために言ったのだが、やはり、リアナの本心でもあった。
神事のあとは雨が降るという。炎で空気が温められ、雲が発生することが多いためだが、やはり明け方に軽い雨が降った。
つかの間の雨が通り過ぎるころ、デイミオンは眠りに落ちた。
リアナは寝台を出て、着替えを済ませた。今朝は、早くから女祭のほうに顔を出すと伝えてある。夕方までかかると聞いて夫はいい顔をしなかったが、これも親戚づきあいとなんとか説得したのだった。
だが、その服装は神事には似合わない旅装だった。草色の地味なワンピースに、レギンス、砂の入りにくい細身のブーツ、日差しを避けるショール。
準備は事前に終えていたから、やることはほとんどなかった。
ただデイミオンと離れがたく、いつまでも寝台を眺めおろしてしまう。短くなった黒髪に触れ、高い頬骨や骨ばった顎に触れる。それからキスを。
満ち足りた深い眠りにある、美しい夫の顔。どんな夢を見ているのだろうか。
直線的な眉に、男性的な鼻梁に口づけ、薄くひらいた唇にもそっとキスを落とした。起こさないように、静かに、優しく。
「いま、記憶がなくなればいいのに。そうしたら、デイにつらい思いをさせずにすむ」
閉じたまぶたに向かって、リアナは小さくつぶやいた。
かれが目を覚ますのを、どれほど待ち遠しく思ったことか。うるさいくらいよく響く声も、思わず見とれてしまうような青い目も、大きな手もなにもかもが恋しかった。
ようやく目覚め、やっと彼女を思いだしたのに、もう離ればなれ。そう考えると気持ちが揺らぐ。
「でも、竜の翼を折るようなことはしたくない。あなたはわたしなしでも完全な雄竜だわ。王国も……できる手は打ってきた」
それから、護衛として隣室に控えていた竜騎手ロールを呼んだ。かれもすでに準備を終え、主人の荷物を手にしていた。竜騎手らしからぬ旅装で、いつもは上半分だけを結っている金髪も、ざっとくくって背に流している。
「ここを出るわ。打ち合わせのとおりにお願い」リアナは告げた。
美貌の竜騎手は覚悟を決めたのか、もう主人をとがめることは口にせず、ただうなずいた。
「御意に」
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