3 デイの記憶、リアナの決断【東部・シグナイ】

第14話 黒竜神殿にて

 ♢♦♢  ――リアナ――


 ちゃぷん、ちゃぷんという水音で目をさました。薄手の白いしゃをとおして、太陽光を感じる。むきだしの腕になまぬるい風が触れた。……ずいぶん、遅寝してしまったらしい。


 外で? と寝起きの頭が混乱したが、ここは館の中庭部分だった。かなり広いし、さえぎる建物も近くにないので、屋外という印象もあながち間違いではない。

 景観のためだけにととのえられた美しい長方形の池。そのほとりにもうけられたパゴダの下、四柱式の寝台のなかで、昨晩は眠ったのだった。真っ青な水と青空に、黒檀の柱と天蓋からの白い紗が映えてまばゆい。


 東部の夏はタマリスよりもずいぶん暑い。それでも、水場の近くは涼しいし、遠くの岩地に陽が沈むのを眺めながら夕食をとるのは心おどる体験だった。遠くでは、クジャクが「キオー、キオー」と鳴いていて……。身体に風を感じながら眠るのも素敵だった。まるで竜の背で眠りについたよう。


 朝焼けを見たいと思っていたのに、残念だ。

 そう思いながら身を起こすと、たくましい腕がのびてきて寝台に引き戻された。


「まだ朝になっていない」夫は、眠気の残る声で断言した。

「まちがいなく、ずいぶん朝よ」

 リアナは笑って夫の胸に顔をうずめた。「あなたを起こすのは本当に骨が折れるわね、旦那さま」


 喉の奥で笑うような音が聞こえたと思うと、視界が反転して、また白い天蓋が見えた。デイミオンは彼女の顔にかかった髪をていねいに払ってから、鼻のあたまに口づけた。喉仏が動くのが近づいて、それから頬へ唇へとキスが降りていく。伸びかけの黒髪が鎖骨に触れて、くすぐったい。


潔斎けっさい(神事の前に酒肉や性交をつつしむこと)はいいの?」

 リアナはいちおう尋ねた。

「最後まではしていないんだから、いいだろう」

 それがデイミオンの返答だった。


 ♢♦♢


 東部での休暇も半月を過ぎようとしていた。


 観光に、美食に、予定表のない生活。秘書官から次の謁見をせかされることもない。追われるようにあわただしくはじまったこともそろそろ忘れかけ、リアナはこの生活にすっかり順応じゅんのうしていた。


 朝寝をしては夫といちゃつき、遅い朝食を部屋にはこばせて寝台で食べながら、昼からはなにをしようかと相談する――まさに夢のような生活だ。



 そのようにもっぱら夫婦水入らずで過ごしていたが、今日から数日は、例外になりそうだった。黒竜神殿で恒例の神事がり行われるため、二人は護衛と侍医、それにわずかな身のまわりの者たちをつれて神殿に宿泊する予定になっている。


 館とは真逆の黒大理石がかがやく神殿内を、夫婦は手をとって進んでいく。夏なのに内部はひやりと涼しく、うす暗い。足もとだけがぼんやりとレモン色に線状に照らされている。その人工的な雰囲気は、タマリスの御座所と共通していた。


「本来なら、奥方をお連れすることはできないのですが……今回はやむを得ないでしょう」

 禿頭とくとうの神官長はそう言って、リアナの宿泊を許可してくれた。あの女神官たちに邪魔されるものだとばかり思ってかまえていたので、拍子抜けだ。かれの言う「やむを得ない」の中には、もちろんデイミオンのごり押しが含まれている。妻と離れるのであれば神事には出向かない、半日で済むよう日程を組みなおせなどなど、ずいぶん無茶を言ったようだった。


(こういうところは、前と変わったわね)

 もう何度目になるかわからないが、リアナは嬉しいような複雑な気持ちになった。


 記憶をなくす前のデイミオンは、こういった王や氏族長としての政務にいま以上に熱心だったし、意外にも我をとおす場面はすくなかった。リアナに対しても、愛情深くこそあれ過保護ではなかった。もちろん、今は妊娠しているせいもあるのだが……。

(デイが気にしているのは、記憶のことなのかしら。それとも、フィルのこと?)

 もし後者なら、不安にさせていることが申し訳なくもある。


 武器の持ちこみができないことで、またひとしきりもめてから、デイミオンはようやく男衆の待つ控えの間へと向かっていった。


「男性だけの神事なのね」

「はい。黒竜の雄と、男性ライダーだけが集まって、夜を徹して行います。みそぎをおこない、舞を奉納したあとで託宣を受けるという流れですね」

 竜騎手ロレントゥス(ロール)が説明してくれた。ここでは一人だけ竜騎手の制服で、華やかな美貌も少しばかり浮いていた。

 二人は、神殿の離れへと案内されている。こちらは、エクハリトス家の邸内とほとんど変わらない明るい造りだった。


 デイミオンは昨夜から潔斎けっさいのため肉食を断ち、当然ながら同衾どうきんも禁止されている。朝にリアナが注意したのも、そのことである。

 エクハリトス家の一員であるロールもずいぶんしつこく勧誘されたようだが、随身ずいしんの立場ということで断ったと言っていた。本来なら帯刀も禁じられているのを、これも宝剣ということでなんとか持ちこんだらしい。


「夜には巨大な炎の柱が立って、エクハリトスの氏族長が竜とともに舞を奉納します。炎が夜空に映えて、火の粉が舞って、とても美しいですよ」

「女性は立ち入りできないなんて、残念だわ。わたしも見てみたいのに」

 リアナは残念がった。デイミオンの舞……きっと勇壮ゆうそうで、ため息がでるほど美しいに違いない。なんとか忍びこむ算段を考えなければ。


 それに別の心配もあった。「男たちだけで集まって、浮気しないかしら。例の女性神官たちと……」

「神官といえども女人禁制ですよ」ロールが苦笑した。「彼女たちもおなじ時期に、別の場所で潔斎するそうです。しばらくは静かなのでは」


「だといいけど」リアナは疑わしい顔つきになった。

 なにしろ、彼女たちのデイミオンへの執着ときたら常軌じょうきいっしている。すぐれた第一の竜アルファメイルの子種が欲しいという理屈は、夫婦の絆を大事に思うリアナの志向とはまったく相いれないものだ。



「デイミオン陛下は、ずいぶん信心深くおなりですね」室内の安全を確認しながら、ロールは言った。


「記憶が戻るきっかけにでもなれば、って言ってたわ」

「神事とどのような関係が?」

「わからないけど、アーダルのなかにはわたしの記憶があるらしいの」


「アーダル号のなかに、リアナさまの記憶が?」

 ロールは首をひねった。「どういうことでしょう」

「ほら、古竜とライダーは精神を共有するでしょ? それが一種のバックアップになって、アーダルの中に残っているんじゃないか……って、エピファニーたちは考えてたの」

 リアナにも今ひとつ理解できていない部分はあるが、受けた説明をそのまま伝えた。

「神事では、竜との舞が一種の精神同期状態になる……それをきっかけに、記憶が戻るかもって。よくわからない装置に入って一年も眠るよりはいい、とデイは言うのだけど」


「ふむ」リアナ同様、ロールも半信半疑のようではあった。


「記憶が完全に戻らなくても、わたしは気にしないのに……」リアナは一人つぶやいた。


 ♢♦♢


 神事の本番は明日だし、デイは今日はみそぎを終えて夜になるまで戻らない。リアナは暇をつぶす方法を考えなければならなかった。

「一人で外出するのはデイミオンが嫌がるし、なにをして過ごそうかしら」


「そういえば、ご来客の予定がありますよ」

 荷ときをしていたロールが、思いだしたように言った。「昨晩、館に着いたと連絡があったのですが……それにしては遅いな」


 来客の謎はすぐに解けた。扉のないむきだしの入口から、数名の神官につきそわれて、見知った中年男性が入ってきたからだ。

 恰幅かっぷくがよく、腹回りがすこしゆったりしていて、しゃれたドレスシャツとひざ丈でふっくらしたズボン。濃い茶髪はリボンでくくって背に流し、タイツに底のあるパンプスと、いかにもイーゼンテルレ風のしゃれた商人姿だ。

 

「ヴェスラン!」

 リアナは顔を輝かせた。そういえば、彼が訪ねてきてくれる予定になっていた。王都からの非公式の伝達を運ぶ役割でもある。商人なら、買い付けという名目で王国を自由に移動できるからだ。ただ彼自身も忙しい商人なので、もっと先になると思っていたが……。

 館で待っていても良かったのに、こちらに訪ねてきてくれるのは嬉しい。


「やれやれ、申し訳ない。持ち物のチェックが厳しくて。護身用の剣も取りあげられてしまいましたよ」

 ヴェスランは手をひらひらさせ、『なにも持っていない』とポーズでしめした。

「あなたは外部の人なのに。神殿って本当にお堅いわよね」


 彼女が近づいていくと、ヴェスランはおそるおそるといったふうに抱擁してくれた。目線が腹部に向けられているので、つい笑ってしまう。「大丈夫よ、つぶれたりしないから」

 そう言ってやっても、ヴェスランの目はまだ腹に釘づけになっていた。「触ってみる?」とうながすと、ずいぶんためらってから慎重にふくらみを撫でた。その不器用な触れかたに友人の愛情を感じた。



 遅れてきたわけを尋ねると、ヴェスランは「そろそろ、王都の味が恋しくおなりではと思ったものですから」と説明した。

「こちらの厨房を借りて、菓子の仕上げをしてきたんですよ。果実とクリームはやはり、新鮮なものでないとね」

「嬉しいわ」


 製菓が趣味だというヴェスらしく、あいかわらず切り分けるのが惜しいほど美々しい果実のタルトやケーキが並んだ。三人では食べきれないから、あとで女官たちにもおすそ分けしよう。

 

 目にも楽しい菓子たちを味わいながら、たがいの近況や王都のうわさ話などで盛りあがる。それが落ちつくと、ヴェスランはおもむろに切りだした。 


「フィルバート卿は、キーザイン鉱山にいます」

 フィルの居場所、それが本題だった。もちろん他の筋からも情報は得られたが、リアナは彼をよく知る人物からの話が聞きたかった。


「キーザインに?」問い返したのはリアナではなく、ロールだ。

 ヴェスはロールに向かって説明する。

「鉱山といえば、昔はハートレスたちが多い場所だったのですよ。肉体労働なら竜の心臓は不要だし、傭兵の需要もあった。だが、最近ではハートレスたちが減り、その穴を埋めるように混血竜族たちが増えてきた」


「ハートレスたちが減っている?」リアナは口をはさんだ。


「傭兵仕事は不安定ですし、悲しいことに混血竜族とは被差別民同士のいさかいが多いのですよ。の地位が相対的に上がったことで、またやっかみが増えた。あなたが王都に職を用意したことで、居を移すハートレスたちも増えましたしね」

「でもそのせいで、鉱山は無防備になっているのね」

 リアナはため息をついた。「良かれと思ったはずの政策が、こういうふうに思いもしない影響をおよぼすんだわ」


「最近よく耳にする、南部と西部のいざこざというのも、このあたりに端を発しているのですね?」

 ロールの質問にヴェスがうなずく。

「戦力になるハートレスたちが減ると、鉱山利権をめぐって南部が口を出すようになりました。閣下がおっしゃるように、以降、きな臭さが増している」


「フィルは責任を感じているのかしら。ハートレスの上に立っていた者として……それで、かれらが抜けたあとの鉱山の戦力になろうとしているの?」


「そうかもしれませんし、そうじゃないかも」

 ヴェスランは歯切れが悪くなった。「意外に気まぐれなところがありますからね、あの人は」


「それで……東部を訪ねてほしいという要望は伝えてくれた?」

 リアナの問いに、ヴェスはうなずいた。

「スタニーからは、『近いうちに拝謁にうかがう』との返事が」


「来ないつもりなのよ、わかってるわ」リアナは嘆息した。もしもそのつもりがあれば、すでにフィルはこちらに来ているだろう。今この場にいないこと……それが彼の答えなのだ。


「だとしたら、わたしは……」

 リアナは拳を口にあて、考える調子になった。


 考えが中断されたのは、がしゃがしゃという金属音とともにあらわれた集団だった。ロールがはっと立ちあがり、手を剣の柄へとのばす。


「ご歓談中のところ、お邪魔いたします」

 入口に立っていたのは、五名ほどの女性神官たちだった。


 リアナとロール、それにヴェスランは、それぞれ顔を見合わせた。

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