第4話 あいつの夢を見た


 ♢♦♢ ――デイミオン――


 大地の裂け目のような、深い谷をのぞきこんでいる。風のうなりにまじって、同胞を呼ぶ竜の声がする。見渡すかぎりの岩山と砂地のなかに、竜たちの生まれる場所があった。

 見ていると吸いこまれそうで、魅了されると同時におそろしく、デイミオンは父の長い脚にしがみついていた。目線がありえないほど地面に近く、どうやら、自分は子ども時代の夢を見ているらしかった。


『ぼく、下に降りてみたいよ』

 舌足らずの子どもの声が、真上から聞こえる。父の腕に抱かれた弟の声だった。『竜を近くで見たいんだ』


『ライダーになったらな、マル。デイ、おまえもだ』

 男の低い声を、一瞬、自分の声かと思ってしまった。見あげた角度のせいか、父の顔は逆光になり、ほとんど影のようにしか見えなかった。自分はしだいに、当時の父の年齢に近づきつつある……。


 この光景を覚えているのは、父と外出する機会がすくなく、めずらしかったからだろう。両親はともに多忙で、不在がちだった。もっとも、母レヘリーンが子どもたちに構わないのは多忙ではなく無関心のせいだったのだが。

 そのせいだろうか。自分にまとわりついてくる小さい弟は、うっとうしいけれど放っておけなくて、自分が兄だということが誇らしいような気分にもなった。この頃は、いつも弟を連れていたという気がする。


『古竜は、ライダーだけを同胞なかまと認識できる。それ以外の者は、踏みつぶされてしまうのだよ』父はそう言った。


『ぼく竜に乗りたいなあ』

 弟の無邪気な願いを覚えているのは、叶わなかった未来のせいだろうか。


 ……


 目の前の光景がふっと掻き消え、なじみ深いこの館が映った。自分は広大な館のなかを歩きまわり、ドアを開けては室内を確かめている。どこかに、あいつがいるんじゃないかと……だが、どの部屋も空だった。



『竜の巣に、ヤギの仔はいられませんわ。その子にとっても不幸だもの』

 おっとりと優しげな女性の声がした。母レヘリーンが、誰かと話している。相手が父ではないことはすぐにわかった。


『自分たちを竜だと思っているのですか、あなたは?』

 落ち着いた男性の声。吟遊詩人のようになめらかなのに、父のような決然とした男も感じさせる不思議な声だ。

『だってそうではありませんこと? リカルド卿。わたくしたちは竜の心臓をもち、竜を使役する者。竜の同胞ですわ』

『われわれはみな人間だ。たとえ彼らよりはるかに長く生きようとも、竜を使役する超常の力があろうとも、すくなくとも竜そのものよりは人間に近い。私は、あなたたちのその認識は傲慢だと思う』


 今となれば、どちらの言い分もわかる。

 だが当時、そんなことを言う者は、この黒竜の地には誰ひとりいなかった。おかしな大人だ、とデイミオンは思った。

 まさかその大人、リカルド・スターバウが弟を永遠に連れていってしまうとは、思っていなかったのだった。


 どの土地のどの城にいても、デイミオンは王の子で、黒竜の化身のようにあつかわれた。だが、おなじ黒竜の仔のはずの弟は、いつのまにか自分の家から消えてしまった。この竜の王国で、どこにいても崇拝され、群れにあっても本質的には孤独だった。つがいになる女性があらわれるまでは……。


 ♢♦♢


「……という内容だったな、今朝の夢は」


 デイミオンは、医師ドリューにそう説明した。指示されたとおりに寝椅子カウチに横たわり、思いつくままにつらつらと内面を語っている。邸内の、ドリューが滞在する客室である。

「それで? なにか、記憶に関する手がかりになりそうか?」


 自分の位置からは見えないが、ドリューはカウチの背後にある自分の椅子に深く腰掛けている。

「残念ながら、今のところはありませんね」

 女医は、こつこつと軽く机をたたきながら返答した。「……陛下の、つがいに対する強い執着へのヒントにはなりそうでしたが」


「弟の不在がか? どうだろうな」

 デイミオンは疑わしい顔つきになった。「こうして夢に出てくるくらいだから、幼心に衝撃ではあったんだろう。だが、成人して名前が変わってからは時々会うようになったし、関係は悪くないぞ」


「弟君――フィルバート卿についての、今の評価は?」ドリューがたずねた。


「信頼に足る男だと思っている」

 デイミオンは眉を寄せて答えた。「戦時中のはたらきもあるし、ハートレスたちの地位向上に大きく貢献した。それに、スターバウの家の仕事もきちんとこなしているようだからな」


「悪感情はないと?」

「ああ」

「眉間の皺がずいぶん深くなっておいでですよ」

 ドリューに指摘され、デイミオンはさらに渋面を深めた。

「いや……嫌ってはいないはずなんだが。正直、ここ一節ほどはあいつに関する記憶もあまりないんだ。おそらく、リアナの護衛をしていたからかも」


「それに、あなたが選んだリアナさまの第二配偶者でもある」ドリューは淡々と続けた。「おそらくリアナさまとの結びつきが強いので、記憶が紐づけられているのでしょうかね」


「『結びつき』?」その言葉は気に入らない。「期間限定の契約結婚だぞ」

「ご不快を感じても当然でしょう。配偶者を共有するというのは、一般に強いストレスを感じる出来事と言えます」

「俺は実弟に嫉妬するほど狭量きょうりょうな男ではない」


 自分が不在だったあいだのリアナの結婚生活について、そしてフィルバートについて語るのは、どうも好きではない。自分の制御下にないものは……。


「なんなんだ、この記憶喪失というのは」デイミオンはイライラと言った。「もの心もついていないような子ども時代の記憶はあるのに、なぜ自分が選んだつがいのことだけ忘れるなんてことになるんだ?」



「記憶というのはわれわれのはかり知れないものですから、もちろん推測でしかありませんが……」

 ドリューが冷静に答えた。

「通常、最近の出来事を中心に欠落するものです。また、時間の経過とともに自然と回復することが多い。しかし陛下のケースはこれに当てはまりません。……お心の過度な負担が記憶を失わせる現象というのも知られています。ですからこうやって、思いつくままにお話いただいて可能性を探っているわけですが」


「やはり、アーダルとの精神同期が影響しているのか?」

 デイミオンは自問自答した。「エンガス卿は、リアナの存在自体がライダーにとっての不具合とみなされ、修正されたと」


「その仮説は現象をよく説明していますが、検証に足る材料はありません」

 ドリューは指をとんとんと鳴らした。

「記憶の欠落は不幸なことですが、生死にかかわるというものでもない。リアナさまとの関係も良好だとお見受けします。いったいなぜそこまでして、記憶をお求めになるのです? ……わたくしはむしろそちらのほうが、より深い問題のように思えますが」


「どういう意味だ?」デイミオンは鋭く問い返した。


「これは皮肉ではないんですよ、治療上の問いかけです」

 ドリューは王の口調に動じることなく告げた。「では、続きはまた明日に」


 ♢♦♢


 治療に意味が見いだせない。デイミオンはいら立ちもあらわに、大股で自室に戻るところだった。使用人たちがぎょっとした顔で、あわてて端に寄っていく。それを見て、どうやら自分は恐ろしい形相をしているらしいと気づく。


 もともと、自己の内面のようなとらえどころのない事柄についてしみじみふり返る性格ではない。ほかに解決法がないから、しかたなくやっているのだ。「思いつきを自由に話すのに意味がある」とドリューは言うが、これまでのところ、だらだらと雑談を重ねて時間を無駄にしているとしか思えない。


「なぜ記憶を取り戻したがっているかだと?」

 王は一人つぶやいた。「そんなもの、わざわざ理由を考えることか? 当たり前のことじゃないか」


 せっかくの休暇なのに、こうストレスを溜めるようでは意味がない。やはり治療はあきらめるべきなのか……。眉間のしわをほぐしながら自室へ足を踏みいれた。



 明るい窓際にいる妻の姿を見つけて、デイミオンはほっと安堵の息をついた。


 リアナは王宮からの書類などを確認しているようだった。仕事は持ちこまないようにと言い聞かせているのに、仕方のないやつだと思う。しかし自分もそうやって仕事をしている自覚はあるので、怒れない。


 抱きしめて持ちあげると、桃とダマスクローズの混じったような甘酸っぱい匂いがした。香料を好まないので、いつも彼女自身の匂いがする。この匂いを嗅ぐだけで興奮して、好物を前にした犬のようになってしまう。

 ふわふわした金髪を一本の太いかんざしでまとめていたが、髪質のせいかところどころが肩にこぼれ落ちている。――この簪を抜いて髪のなかに手をうずめたい。邪魔をするなと怒られるだろうな。


「髪留めを変えたのか?」ふと思いついて、尋ねた。


「目ざとくなったのね。前のあなたは、そういうことに気がつくタイプじゃなかったわ」

 腕のなかでリアナが笑った。「前のもののほうが、留めやすくて気に入っていたんだけど」


 そうだ。たしか、木製でバネがついていて、仕事中にその髪留めを使っているのをよく見たような気がする。これは、確実に記憶の断片といえるものだった。記憶をなくす前の、二人の生活の記憶……。だがその先を思いだそうとするとまた頭が痛みだして、妻に止められるのが常だった。


「城にあるなら、届けさせようか」

「いいの、たぶんなくしてしまったんだと思うから」

 リアナの口調には、どこか夫に追及されたくないという後ろ暗さがかいま見えた。いつ、どこで? 一緒にいたときに使っていてなくしたんだ? ……それを自分に知られたくないのではないか?


 その猜疑さいぎ心が、記憶を取り戻すことに執着してしまう原因なのだと、デイミオンは気づきはじめていた。

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