第2話 夫婦の休暇と秘密のプール ②


「黒竜の王がようやく当地に戻られたというのに……神殿にも滞在いただけない、われわれともいただけないとは」

 女神官のなげく声が、ななめ上から降ってきた。


「どっちも同じ意味だろうが!」

 リアナを背に負ったまま、デイミオンが毒づいた。「なぜ妻との休暇中に、ほかの女との性交渉をせまられなければならないんだ」


 女神官たちはいきり立ち、口々に王に発破はっぱをかけた。

「なんと軟弱なんじゃくな!」

雄のなかの雄アルファメイルなら、ひと晩に女の五人や十人は満足させられるものです!」

「妻、妻と嘆かわしい!」

「しかも、日陰で育てた竜髭菜アスパラガスのようななまっちろい女を」


「ちょっと! 失礼ね!」夫の背から、リアナは憤慨ふんがいした。健康的に日焼けしない肌を、自分でも少し気にしているのだ。


「もういい、相手にするな。疲れるだけだぞ」

 なおも崖をくだりながら、デイミオンはうんざりした調子で言った。ロープがわりにしている蔓は太いが、いつ裂け落ちてもおかしくない緊張感があった。


 女たちはデイミオンを捕まえるべく、一列になって階段を降りはじめていた。だが足場が不安定なうえ、間違っても王を落下させてはいけないという危機感もあり、その歩みは鈍い。この分だと、むしろ降りてからのほうが捕まる危険が高まるかもしれない。


 リアナがそう案じていたとき、また頭上がかげった。


「陛下!」

「リアナさま!」

 二人を呼ぶ男の声が、ほとんど重なって聞こえた。リアナはぱっと笑顔になった。「ロール! サンディ!」

 金髪のロールはリアナの随身ずいしん(護衛)、黒髪のサンディはデイミオンと同じエクハリトス家の貴公子で、どちらも若くハンサムな竜騎手である。立派な黒竜の背に二人で乗り合わせ、女神官たちに向かって勢いよく炎を噴き出した。先頭に立つリーダー格の女が、勇ましく盾で炎をふせぐ。


「若君! 邪魔だてされるおつもりか!」盾で頭をかばいつつ、女神官が吠えた。


「王に恩を売っておきたいんだ、悪く思うな!」

 みごとな黒髪をなびかせつつ、サンディが堂々と打算を吐露した。背後のロールがあきれてため息をついている。


「なんたる惰弱だじゃくな! お家を守る神官として嘆かわしい!」

「その精神、衷心をもって鍛えなおしてさしあげます!」

 怒りの対象がサンディに向かったようで、神官たちは向きを変えてわらわらと崖上に戻りはじめた。



「サンディたち、竜に乗ってるわ」

 リアナは不思議に思った。アーダルが威嚇して飛竜が近づけないなら、黒竜の雄も同じはずだ。

「ニーベルング号は若い雄で、成人したばかりだからな。テリトリーに入っても、まだアーダルに目こぼししてもらってるんだ」

 デイミオンが解説した。要は、子ども扱いされているわけだ。おかげで注意をそらしてくれ、助かった。


 これで、なんとか逃げきれそうだ。だが、ほっとしたのもつかの間。

「デイ! 蔓が……!」

 夫の腕の先を見て、リアナは悲鳴をあげた。二人分の体重を支えてきた蔓が、ついに真ん中から裂けはじめている。すでに白い部分が露出して、それが一気にちぎれた。


「きゃああ」


 落ちる! そう思ったリアナだったが、実際に落下したのはほんの数インチだった。すでに、ほとんど湖面に近いところまで降りてきていたのだ。ばしゃん! と大きな音が続いたが、すぐにデイミオンの腕に引っ張りあげられる。


「ほら、捕まって」

「よ、よかった」


 追っ手からのがれ、リアナはようやくひと息ついて周囲を見まわした。湖面はブルーグリーンの美しい色合いで、差しこんだ光が水面にゆらめいている。岩壁からはシダやツル植物が水面近くまで垂れ下がって、水に濡れてあおあおと艶めく。


「上から見たときには、井戸の底みたいだったのに……すごくきれい!」

 さっきまでの緊張も忘れ、感嘆しながら手で水をすくった。「水が透きとおって、宝石みたいだわ。冷たくて気持ちいい」


「底が深い部分もあるからな。ここに座って」

 デイミオンは彼女を持ちあげて岩棚に乗せると、チュニックを脱いで近くに放り、「ちょっと泳いでくる」と離れていった。


 ずいぶん暑い日だったが、岩壁に守られた泉はひんやりと涼しく、快適だった。ばしゃばしゃと音を立てて、夫のたくましい肩が水面にあらわれたり消えたりするのを見まもる。……一年ものあいだ、デイミオンは愛竜アーダルのために深い眠りに就いていた。今はこうして無事に目ざめ、自分の前にいてくれるだけでも嬉しい。たとえ、その代償にリアナと過ごした十年の結婚生活の記憶が抜け落ちているとしても。



「朝から大変だったけど……退屈しなかったわ」

 リアナは一人くすくす笑い、朝からの出来事を思いかえした。


 ♢♦♢


 デイミオンとリアナ、竜の国の王と王妃である二人が、東部領の南西にある保養地をおとずれて十日ほどが経っていた。

 『黒竜の生まれる谷』と呼ばれるシグナイは、また竜祖信仰が強い土地でもある。その日二人は朝から、エクハリトス家の祖先をまつる廟をおとずれていた。王都の御座所よりはるかに壮麗な神殿に着くと、神官たちが総出で国王夫妻を歓迎した。リアナは黒大理石で作られたすばらしく巨大な竜たちの像に感嘆し、夫とともに、かれらの祖先であるアルナスル王とその竜デウカリオンに祈りをささげた。

 そこまでは予定通りだったのだが……


 参詣を終えた二人は、その後にもうけられた酒席の慫慂しょうよう固辞こじした。要するに、リアナの妊娠を理由に宴会を断ったのである。それが、デイミオンを崇拝する女性神官たちの逆鱗げきりんに触れることになろうとは。

 危機を察知したデイミオンが、文字通り妻の手を引いて神殿を逃げだし、神官たちが追ってきて、冒頭の状況にいたる。



「デイはわたしがトラブルメーカーみたいに言うけど、自分だって相当なものよね」

 足を水につけてかきまわしながら、リアナはぼやいた。「あんなに大勢の女に迫られて……きゃっ」


 ふと足に感じた違和感に、愚痴が中断された。

「……くすぐったい! なにかいるわ。……魚!?」

 リアナはこわごわと水面をのぞきこんだ。「小さな魚につつかれてる」


「なにも害はない」

 いつの間に戻ってきたのやら、デイミオンが笑って説明してくれた。「どころか、古い皮膚を食べてくれるので、女性には人気があるらしいぞ」


「そ……そうなの?」

 そう言われると、好奇心のほうが勝った。いつのまにか、魚たちは小さな群れになって彼女の足をつつきまわしている。我慢できないほどではないが、足の指のあいだなどをつつかれるとくすぐったい。


「ひゃっ」思わず、きゅっと目をとじて変な声を出してしまった。その様子を、夫に凝視されている。


「おまえは敏感だな」

 水音をたてながら近づいてきたかと思うと、熱い声でささやいた。「興奮してきた」

 抱き寄せられた腰に、本人の言葉どおりの昂ぶりが押しつけられる。そのまま腰を持ちあげて水中に下ろされ、もみ合うように愛撫された。その勢いに、小魚たちが逃げていくのが見える。

 まぶたに鼻に口づけられると、夫の髪からしたたった水でリアナも濡れた。口を開けたままのキスは真水の味だった。


「さっきの女神官たちのほうが、よかったんじゃないの?」

 唇が離れると、リアナはすねてみせた。「日焼けして健康そうだし。お尻も大きかったし」


 記憶を失う前のデイミオンなら、「こんなにモテる俺はすごい」とアピールしたり、「焼きもちをやいて、かわいいな」と妻をからかったりする場面だった。


 だが今の夫はそうではなかった。彼女の頬をすくいあげ、まじめな顔になる。

「おまえでないとダメだから、こうしてここにいる」

「本当に?」

 リアナは笑いながら尋ねたが、デイミオンの返答は真剣そのもので、からかう色はみじんも感じられなかった。


「親族たちにも邪魔はさせないし、あの女たちからも逃げてきた。俺は、おまえへの愛情をちゃんと行動で示している。……とは違う」

 それが誰を指し示すのか、二人のあいだではわかっている。

「デイミオン……」

 夫の声にひそむ冷たさに、リアナは返す言葉を見つけられなかった。


 二人のあいだに気まずい空気が流れると、デイミオンはわざとらしく話題を変えた。

「気に入ったか? ここはいい場所だろう? エクハリトス家の、秘密のプールなんだ」

 リアナもあえて話題を蒸し返さなかった。「ええ。神殿でじっとしてるより、ずっといいわ」

「さっきの崖の上から飛び降りて肝試しをするのが、子どもたちの通例でな」


「あんなところから?」

 リアナは自分たちが降りてきた崖上をあおぎ見た。下から見るとそれほどの高さには見えないが、上からだと足がすくむのはさっき経験したばかりだ。


「ほら、見ろ」

 デイミオンが顎で指した先に、太陽を背にした二つの濃い影があった。よく確かめるまもなく影のひとつが崖下に飛び降りる。なんと、先ほどまで竜に乗っていたはずのサンディとロールだ。どうやら、神官たちを首尾よく追いはらうことができたらしい。


 まずはサンディが、空中でくるくると前転して、いきおいよく湖面に飛びこんだ。さらに続けて、ロールらしい影も。……古竜の水浴びのようなさわがしい音と水しぶきがあがった。

 水面から顔を出してはしゃいでいる青年ライダー二人に、リアナは目を丸くした。


「エクハリトス家の男の子たちは、やんちゃねぇ」

 そう言って、無意識に自分のおなかを撫でた。最近ようやくつわりがやわらぐようになり、ふくらみもわかるようになってきたところ。

 

 子どもの父親――フィルバートにいつ妊娠のことを伝えられるのかと、リアナはまた不安になった。デイミオンがこの調子では……。

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