白竜の王妃リアナ③ ロング・ウェイ・ホーム (リアナシリーズ6)

西フロイデ

第一幕

序章 黒竜たちの生まれるところ【東部・シグナイ】

第1話 夫婦の休暇と秘密のプール ①

 ♢♦♢ ――リアナ――



 ひと組の夫婦が、背後を気にしながら、乾いた大地を走っている。


 空気は熱をはらみ、体中の水分が今にも汗になってしまいそうだ。日差しを避けるためのベールがなければ、四半刻もせずに干上ひあがってしまうかも。ちらりと後ろを見ると、飛竜が数頭、影になっているのが見えた。……まだ、追われている。


 リアナと同じように急ぎながらも、夫デイミオンは足を速めているだけで、ほとんど汗もかいていなかった。彼女を引っぱってくれる大きな手はさらりと乾いている。涼しげなクリーム色のチュニックが、日焼けした肌と黒髪によく似合っていた。


「抱えていくか?」

 緊張をはらみながらも落ちついた低い声が、そう尋ねた。リアナは息をきらしながら、「だ……大丈夫」と答えた。


「でも、こっちは徒歩だし、あっちは飛竜だもの、すぐ追いつかれちゃう」


「心配ない」

 デイミオンは妻の手を引き、悔しくなるほどハンサムな顔で笑った。「……こっちだ」




 二人が急いでいるのは、そそりたつ岩山にはさまれたれ谷のような場所だった。寒冷湿潤な王都タマリスを離れること、東南に百八十マイル(飛竜にて二日)ほど。ごつごつして乾いた土地は走りにくく、草木の一本も見当たらない。おまけに頭上からの日差しも強くて、妊娠中の身体にはこたえた。逃げてきた場所――黒竜神殿からは半マイルも離れていないのだが、そろそろ疲労が限界だった。


 ――やっぱり抱えてもらおう、どうせデイは苦にしないわ。荷運び竜ポーターみたいに体力があるんだもの。


 リアナがそう思ったとき、急に視界いっぱいに緑がひろがった。「……わっ」


 ついさっきまで、草木の一本も生えていない岩山と大地だったのに、その一帯だけがあおあおと緑をしげらせている。目に入らなかったのはゆるやかに下っているせいだが、一面の砂地から急にあらわれた緑には驚いてしまう。


「なんなの、これ!?」

 面食らって声をだすと、デイミオンは声をたてて笑った。「そんなに目を見開いたら、大きな目玉がこぼれ落ちそうだな」


 余裕ぶった夫の態度に腹を立てることも忘れるほど、その光景は圧倒的だった。

「ずっと砂漠だと思ってたわ! いったいどこに水があったの!?」


「もちろん、これから見せるとも」

 デイミオンは上機嫌で言った。「逃避行というのも悪くないものだ。予定とは違うが、どのみちあの水場には連れていくつもりだったし。おまえは汗だくだし、ちょうどいい休憩になりそうだな」

「まったく、こんな状況なのにのんきなんだから。水場があるの? ……あっ」


 視界がさっと暗くかげり、リアナは上空をあおいで飛竜の影をみとめた。くるりと頭上を旋回するも、すぐには降りてこないようだ。その理由に、リアナはすぐに思いいたった。


「アーダルがいるのね。だから、飛竜たちが怖がって近寄れない」

 これなら、すこしは時間を稼げるかも。


 デイミオンは笑ったままでもう答えず、彼女の手を引いたまま進んでいった。



 このオアシスが遠目に見えなかったわけはすぐにわかった。涸れ谷の、さらに底に向かって誘いこむように緑が続いていく。肉厚のするどい葉が群集し、触れたら肌が切れてしまいそうだ。低木ながら木もあり、そこにもみっしりとツル性の植物がからみついている。森というにはまばらだが、影のおかげでひんやりと涼しい。水場はまだ下なのだろうか? ……そして、追っ手から逃げる道はあるのだろうか?


「こっちにおいで。足もとに気をつけて」


 夫が呼ぶ先は、切り立った崖のような場所だった。目で見るよりも先に、さあさあと気持ちの良い水音がする。おそるおそる近づいて崖下をのぞきこむと、まるで失敗して空気が抜けたスポンジケーキのような形に水場が広がっていた。あるいは岩山がコップだとすると、その底に水が溜まっているとでも言おうか。目の覚めるようなエメラルドグリーンの、美しい泉らしかった。岸壁は垂直で、申しわけ程度に細い階段が切りだされている。もっとも、それを使う者はオンブリアには少ないかもしれない。


 竜の子孫を自称する竜族たちに、高さは脅威とならない。おそらくあの水場に行きたければ古竜の力を使うか、飛竜で降下するのが普通なのだろう。今は黒竜アーダルの気配があるから、デイミオンがその力を使えば、二人とも安全に降りられる。


 だが……


 デイミオンは彼女に手を差しだして、細い階段のほうへ誘導した。どうやら、竜の力を使うつもりはないらしい。


「デイ……」

 リアナをふくめ、白竜の一族はもともと〈ばいみ〉しやすい。さらに妊娠していることもあいまって、夫デイミオンはアーダルの力を使うことに慎重になっている。まるで、一度でも〈呼ばい〉を使うと妻にひとつふたつとダメージが蓄積ちくせきされるかのように、この休暇のあいだでも、ほとんど愛竜との〈呼ばい〉を使うことはなかった。多大な犠牲を払って、せっかく目覚めさせた王国一の雄竜なのに。


(でも、今は……違うわよね? 追っ手がかかっているんだもの……)

 その心の声を、夫の声がさえぎった。「来るんだ」

 そう言うと、岩壁に手をついてリアナの手をとり、先導しながら降りていく。


 竜の背に乗ればなんということはない高さなのに、自分の足で降りていくと、その高さに圧倒されてしまう。足もとを見ると目がくらみそうになって、リアナはあわてて目線をそらした。握られた手が汗ばんで、夫にもこの緊張がつたわっているのに違いない。デイミオンの親指が、力づけるように手首を撫でた。


「大丈夫だから」


 その、深みのある低い声でうながされると、リアナは弱い。意を決して、そろそろと降りていく。階段は幅が狭いうえに、信じられないほど急だった。……力強い手が肘をつかみ、しっかりと支えてくれる。聞きたいことは山のようにあったが、ひとまずは降りることに集中しなければ……。



「陛下!」


 複数の声が聞こえた。


「あっ」

「リア!」


 背後からの声に気を取られたのがいけなかった。リアナは思わず足をすべらせ、デイミオンの手にぶら下がる形になってしまった。そのデイもリアナを捕まえるために空中に身をのりだし、階段に片足をかけただけで宙に浮いていた。普通なら竜術で浮いている場面だが、デイミオンの腕の先には太いツルがある。


 足もとの小石がぱらぱらと落ちるのを目で追うと、高さに目がくらんだ。……こんな高さから落ちたら……いざとなればアーダルの力があるとは言え……


 そのアーダルはといえば、はるかな上空から興味深そうな気配だけを送ってよこしている。この周囲一帯を自分の領域テリトリーとして、黒竜たちにあらたな序列を叩きこんだのに違いない。


 たくましい腕でぐっと引き上げられ、リアナはなんとか夫の首に自分の腕をまわすことができた。デイミオンは彼女を背負う形で、ツルを縄のようにつかって、降下を続けた。階段の長さから察するに、底となる水場まではあと、五十フィートくらいだろうか。デイミオンの体力はそこまでもつだろうが、はたしてツルのほうが二人分の体重を支えきれるかどうか。

 


「なぜ、アーダル号の力を使わないのです?」

 飛竜を置いてきたらしい、追っ手の声は女性だった。豊かに波うつ黒髪の、体格の良い女性。その背後に控えるのも、髪や肌の色はさまざまだが同じように見事な体格の女性たちだった。短いチュニックとズボンからたくましい腕と太ももを露出させ、手甲てっこうすねあて、長槍と盾とが太陽光を反射して輝いていた。この勇ましい格好は、黒竜神殿が誇る神官兵士たちだ。


「ここは、神聖なる黒竜の王の土地。よもや白竜の前王のために、力を抑えているなどとはおっしゃいませんね?」


「その黒竜の王は私だぞ。よけいな世話だ」

 デイミオンは神官たちに目をむけることなく、落ちついて返した。


 

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