第6話 きみの腕の中が、俺の帰る場所だよ
ふり返ったのは、若く美しい女性だった。ブラウスとスカートという素朴な服装だが、革のボディスが腰のくびれを強調している。栗色の髪はやわらかく艶があり、灯りの下では光の輪ができて見えた。
「すごくいい匂いだ」
フィルは背後からフェリシーの身体を抱きこみ、くんくんと鼻を動かした。「ローリエかな。それとも、きみの匂いかも」
「台所でいたずらするのはやめて」
フェリシーは笑いながら身をよじった。「熱いスープをひっかけちゃうわよ」
「羊みたいにおとなしくしてるよ」
そう言いながらも、フィルは彼女の背後から離れなかった。
さっきの侵入者騒ぎは残念だった。兵士たちを生かしておけなかったこともそうだが、ロイたちに邪魔されたせいですぐに片が付いてしまったことのほうが大きい。ひさしぶりに戦闘の興奮を味わえると思ったのに、中途半端な高揚が残ってしまった。
こういうときは女性の肌が恋しくなる。両手がふさがっているので鼻で彼女の髪をかきわけ、うなじに口づけた。かれの位置からは、ボディスに押しあげられた乳房のふくらみがよく見える。
「そうだ。ロイと会ったよ」フィルは思いだしたように言った。「明日の夕飯を招待された」
「
フェリシーはパセリを刻みながら返した。「ねえ……スープが温まったわよ」
「腹も減ったけど、こっちも欲しくなった。きみがあんまりいい匂いだから」
フィルはボディスを締める革ひもに指をかけながら、そうささやいた。
♢♦♢ ――フェリシー――
朝目ざめると、寝台の上にフィルの姿はなかった。いつものことだ。
かれと床をともにするようになって、ひと月くらいは経つけれど――眠った姿を、まだ見たことがない。噂では、戦時中は『
最初のうちは、かれが夜中に出て行ってしまったのではととても不安になったものだ。フィルバート・スターバウはそういう男に見えた。柔和で、周囲に敵を作らず、それでいて誰も寄せつけないというような。
でも、今は違う。
伝説の『竜殺し』は彼女の部屋にすっかり居ついていた。いなくなるのは、昨夜のように町の男衆に頼まれて力を貸すときと、この朝の一時だけ。朝の鍛錬から帰ると、フィルは彼女ひとりの男になる。
フィルが稽古から戻ってくると、彼女の朝もはじまる。
フェリシーのあごを持ちあげて、フィルはキスをしてくれた。最初は優しく、すぐにため息が漏れるようなとっておきのキスを。頬に触れた左手には、ついこのあいだまで指輪が嵌まっていた。
竜の国に結婚指輪の概念はないが、装身具は夫婦で贈りあうことが多い。それで気になって尋ねると、「前の結婚のものだけど、きみが気になるならはずそうか」と言ってくれた。以降、かれの手に指輪はない。
(本当なら、混血の私が気軽に話しかけられるような相手じゃないわ。ハートレスだといっても、黒竜王の弟君なんだもの)
キスを受けながら、うっとりとそう考える。(でも、フィルはすごく気さくな人。こんなに優しいのに、『鬼神』と呼ばれていたなんてギャップがあるわ。鉱山の男たちとはぜんぜん違う)
フィルの口からはさわやかなミントの匂いがした。とくに朝の鍛錬のあと、この匂いをよく嗅いでいる気がする。汗を気にしてのことなら、かまわないのに、とフェリシーは思った。
「汗をかいてるわ」
思いついて、そう言った。「お湯をわかす? 拭いたらさっぱりするわよ」
「いや、いいよ。先に銭湯に行ってくる。今日は、きみの家族に会うんだし」
鉱山町の銭湯は、早朝から開いている。フィルは自分の荷袋をあさって、浴布やせっけんを手に持つと出ていった。
フェリシー自身も選別作業などで日銭を稼いでいたが、今日は休みの予定だった。それで簡単に掃除をし、兄夫婦のところに持っていくクッキーなどを用意することにした。生地をととのえてオーブンに入れたところで、手が空いた彼女はふとフィルの荷物が気になった。
出入り口をうかがいながら、そっと
……あの指輪は見当たらなかった。もしかして、自分の発言のせいで、捨てさせてしまったのだろうか。
竜族の青年期は長いし、フィルの立場と年齢なら結婚経験があるほうが普通だ。そんな思い出の品をわざわざ捨ててほしいとは思わないのだけど……。
もうやめようと思ったところで、意外なものが手にふれた。
「……髪留め?」
手にとったものを、まじまじと眺める。
木と金属のバネを組み合わせた、素朴な髪留めだった。使いこんでいるらしく、木の部分は飴色のツヤがあった。貴族男性は長髪が多いが、これはあきらかに女性もののようだ。
「やっぱり、思い出の品のひとつくらいはあるわよね」
フェリシーは苦笑いした。「水くさいわ、気にしないのに」
この髪留めの持ち主はどんな女性だったのかしら、とフェリシーは想像した。いかにも竜族らしい銀髪、それとも女性らしい金髪? 情熱的な黒髪? きっとたっぷりと豊かな髪の美女だったに違いない。自分の髪にあてて鏡をのぞいてみる。……悪くはないけど、自分は癖のない栗色の髪を背中にとき流すのが気に入っている。
「なにをしてるの?」
背後から声をかけられて、フェリシーは髪留めを取り落としそうになった。驚いてふり返ると、浴布を首にかけたフィルが立っている。湯上りの髪はまだ水気をふくんで、しっとりと濡れていた。かれが兵士であることは知っているのに、つい気がゆるんでしまったらしい。
「男の持ち物をあさるなんて、いけない子だ」
フィルは彼女の手から髪留めを取りあげると、冗談めかして言った。「俺の無敵の秘密でも探してたの?」
「ごめんなさい、つい……」
あわてて言いつくろおうとしたが、フィルは怒るでもなく、髪留めをもとの
「不安になった? 俺の前の結婚のこと」
そう尋ねられて、フェリシーはしゅんとする。「……そうかも」
「心配することないのに」
フィルは正面にまわって、彼女を抱きしめた。風呂上がりの清潔な匂いと、固い筋肉の感触に包まれる。
「今はきみの腕の中が、俺の帰る場所だよ」
「本当に?」
きまり悪い場面を見られた恥ずかしさと、優しい反応への安堵で、フェリシーは赤くなった。
「もちろん」
彼女の頭上に顎をのせて、フィルが笑った。「でも、悪いことをしたおしおきをしなくちゃね」
その後に続くものは、もうわかっている。フェリシーは期待と興奮で身体が熱くなった。
♢♦♢
夕方になると、二人は連れだってロイの家に向かった。鉱山町のなかでもやや中心を外れたところにある、家族用の立派な戸建てである。鉱山労働者の士気を高めるため、キーザインではこういった賃貸住宅が多く用意されていた。
ロイと子どもたちが二人をむかえた。ちょうど、妻のアネットが食卓をととのえ終わったところ。フェリシーがクッキーを、フィルが花をそれぞれ渡し、家族の夕食がはじまった。
タラと芋のパイ包みに、南部風のスパイシーな卵料理、そして柔らかいパン。夕食は終始なごやかにすすんだ。フィルは、子どもたちに食事をさせるのを手伝った。
「いい男をつかまえたじゃないの」
アネットが耳打ちしてくる。「あんたも、ずいぶん色っぽくなって。こりゃ、夜のほうもうまくいってるんだろうね」
「やめてよ、
フェリシーは恥ずかしさで耳が熱くなった。隣で涼しい顔をして兄としゃべっている男が、「おしおき」と称して彼女を甘く責めたてたことを思いだしてしまう。あんなふうにされるのが気持ちいいだなんて、自分の身体なのに知らなかった。それに……「おしおきなのに、嬉しいの?」と
フェリシーの
「そういうふうにしてると、戦時の英雄だなんて信じられないな」
ロイは感心したように言った。「俺たちが西部にうつってきたのは戦後だけど、それでもずいぶんあんたの話を聞いたよ。〈ヴァデックの悪魔〉だとか〈
フィルは肯定も謙遜もせず、ただ笑った。威圧するようなところはまったくないのに、見る者をおし黙らせることのできる笑顔だった。
ロイはなにか気まずくなったかのように話題を変えた。
「フェリシーも知ってるだろうけど、ここのところ、選鉱場やほかの施設内に兵士が侵入しようとする事件があいついだ」
「聞いてるわ」
「今は、山の青年部で対策を立てているところなんだ。フィルには、それを手伝ってもらってる」
「頼もしいわね」
フィルには断片的に聞いているが、もう少し詳しく知っておきたかった。フェリシーは兄に尋ねた。「いつ頃からはじまったんだったかしら? そもそも、侵入者たちって誰?」
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