第17話 ……それは、俺が取り戻さねばならないものだ
♢♦♢ ――デイミオン――
月のない暗い夜だった。完全な闇ではなく、室内には蛍のように淡く光る明かりがあり、妻のふわふわした金髪にレモン色の縁どりをつけていた。
デイミオンは肘枕の姿勢でその髪をもてあそびながら、もの思わしい顔つきだった。……神事は真夜中から始まるため、もう部屋を出なければならない。この夜に続いて明日も、彼女とほぼ一日離れることになる。
昼はナハーラたちがよけいな口出しに押しかけたらしい。当の本人は「嫁いびりくらいであなたに泣きつくのも
白く柔らかな頬を親指でこすると、リアナはなにか不明瞭なことをつぶやいて、もぞもぞと身体を動かした。こんなふうに妻を愛おしく感じた何千回もの夜が、失われていいはずがない。明日彼女の顔を見るときには、記憶をともなった完全な自分でありたい、とデイミオンは強く思った。
小さな明かりで足もとを確認しながら、妻を起こさないように気をつけて寝台を出た。外で小姓が待っていて、灯りとともに先導した。二人が過ごす部屋は神殿の外縁部にあるので、そこから長い回廊をわたっていくことになる。新月の夜に行われる神事のため、神殿そのものの明かりも制限されて、いっそう暗い。ただ星の輝きははっきりして、乳を流したような天の帯(銀河)もよく見えた。
デイミオンは男たちが集まる大広間に入った。神事が執り行われる
なじみの顔たちが、それぞれの持ち場所で準備に余念がない。
叔父のヒュダリオンは、神事の進行も務めるため、白い神官服を着ていた。
長命な竜族は十二年をひとつの節と数えるが、この節ごとにエクハリトス家がおこなう神事は
前回は、ちょうどリアナの退位やアエディクラとの軍事衝突が重なり、この神事は中止されていた。だから、今回は二十四年ぶりの催事ということになる。
小姓がやってきて、湯あみの準備ができているという。デイミオンはうながされるまま狭い浴室に入った。
一人きりになったところで、念話の気配があった。
〔湯あみ中のところ、失礼します、陛下〕
「ああ……ドリューか」
デイミオンも〈呼ばい〉を使って応答した。女人禁制の神事のため、彼女はこの部屋に立ち入ることができないのだ。
「頼んでいたことは大丈夫か?」身体に湯をかけながら、さっそく用件を確認する。
〔はい。神事のあいだ、リアナさまに〈呼ばい〉の負担がないようにという件ですね〕
ドリューも端的に報告した。〔これからお起こしして、竜の心臓の機能を一時的に弱める処置を受けていただきます〕
「身体に影響はないんだろうな?」
〔竜の心臓には生体に干渉する力がありますが、基本的には、停止しても差しさわりのないものです。ハートレスがいるくらいですから〕
「そうだったな」
そのあたりは十分に打ち合わせていたのだが、心配になって、つい尋ねたのだった。
神事では、黒竜アーダルと精神を同期させることになる。同時に強い〈呼ばい〉も使うので、妻の身体が心配だった。記憶には残っていないが、かつて彼女は何度かこの〈呼ばい〉で危険な状態になったらしい。つがいを傷つけることを恐れるあまり、デイミオン自身もアーダルの機能を制限している、というのが医師や神官たちの見立てだった。
〔今日は私もリアナさまに付添いますので、
「そうだな」
デイミオンはうなずきかけたが、考えを変えた。「いや……もし神事をのぞきに来ようとしていたら、それでもいい。適度に止めるフリはして、危なくない場所に誘導してくれ」
〔ふむ。……それが良策かもしれませんね〕
ドリューが笑う気配がした。〔リアナさまは好奇心旺盛でいらっしゃるから〕
「このひと月でさえ、身に染みたよ。俺の記憶にない時代には、どんな無茶をしていたのやら」
〔それは、奥方自身からお聞きになることもできるでしょう。そうやって、記憶の欠落を埋める方法もある〕
ドリューがやんわりと進言した。〔お二人のあいだに今、たしかな愛情がおありなら、それで良しとすべきでは?〕
「もう決めたことだ」デイミオンはぴしゃりと言った。
♢♦♢
湯あみを済ませると、小姓たちがわらわらと群がってきた。着付けだの、清めの酒だのと言われるがままにこなしていると、広間のほうからざわめく声が聞こえてきた。同時に、身体の内部を揺さぶられるような感覚があり、アーダルがそばに来ているとわかった。
月のない夜のはずなのに、満月が見える。
一瞬そう錯覚したのは、アーダルの眼の片方だった。それが、柱間いっぱいに広がっている。月そっくりの巨大な眼球は、針のようなこまかな模様が走り、中央は黒い裂け目のような瞳孔がある。
王都に出入りする成人の男たちはアーダルをよく知っているが、成人前の従士や小姓たちは王都に行かないから、見るのもはじめてという者もいるだろう。単純なサイズだけでもふつうの黒竜とは比較にならないほど大きい。生まれながらのアルファメイルで、傷のない美しい体表はかれが勝負を仕掛けられることさえめったにない存在だと示している。
そのアーダルに無遠慮に近づいていけるのは、この場に一人だけだった。デイミオンの動きを男たちの目が追う。普段の王の正装とはちがう、前あわせのゆったりした
デイミオンは
「アーダル」
デイミオンは黒竜に呼びかけた。
「今夜は、またおまえと精神を同期することになるぞ」
黒竜は、溶けた黄金のような一対の目を
「医師たちは、リアナへの配慮が力の枷になっていると……それで、おまえの力で記憶が消されたのではと言われた。彼女の存在が、ライダーとしての不具合になっていると」
語りかけても、アーダルはまばたきひとつもしない。だが、長いつきあいのデイミオンは愛竜に伝わっていると信じて続けた。
「俺とおまえの力は、そんなに脆いものではないはずだ。傷ついたつがいを翼の下に庇護してなお、俺たちは
知らないうちに、拳を握りこんでいた。
「だからおまえが、リアナとの記憶をどこかに残しているなら、俺に返してくれ。
――それは、俺が取り戻さねばならないものだ」
♢♦♢ ――リアナ――
固いものがはじけるような、パァン、パァンという高い音がする。その音で、リアナは目を覚ました。
室内の音ではなく、もっと遠い場所のものだ。邪気をはらうような、高く乾いた音。リアナは急いで服を着替え、出かける準備をはじめた。
約束していた時刻ちょうどに、医師ドリューと竜騎手ロールがやってきた。
「もう、始まっちゃったのかしら」
そう尋ねると、ロールが答えた。かれは祭の参加経験がある。
「これは演舞の音ですね。年若い者たちから順におこないますが、音からすると、まだはじまったばかりでしょう」
ドリューの処置は、竜の心臓のはたらきを一時的に弱めるものだ。これでライダーとしての力は使えないが、かわりに〈呼ばい〉の影響も感じにくくなる。それから、竜の心臓を使って居場所を知られるということもない。ハートレスのように、
「デイミオンの奉納舞が見たいわ。今から行こうと思うの」
リアナが言うとドリューは苦笑し、ロールは青い目を見開いた。「女人禁制と申し上げたでしょう! 見つかったらどうするんです」
「見つからずに舞が見られる場所のめぼしはつけてあるの」
「そう言うと思いましたよ! まったく、あなたの好奇心ときたら……」
頭を抱えるロールに、ドリューが「まあまあ」と取りなした。
「ご夫君の晴れ舞台を、ひと目見たいという妻心じゃないですか。そんな女性が、リアナさま一人だとも思いませんけれどね」
「まあ……」ロールはしぶしぶと認めた。「たしかに、女祭を抜けてこっそりと見に来る女性たちは、昔から黙認されていますが」
「ほら、みんな考えることは一緒じゃないの」リアナが勝ちほこった。
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