第40話 ふつうの男になるよ
リアナの視界からは、イニが背後から殴りたおされる一瞬しか見えなかった。大柄な養父は、まるで横倒しになった牛のように、大きな音をたてて城の床にたおれふした。
イニよりは小柄な黒い影が、その手前にあった。陽が落ちた広間はうす暗く、すぐには男がだれと判別できない。
不安と恐怖で、ひとつしかない心臓がせわしく打つ。そのとき、男がさっと腕をふって、竜術の火を出現させた。ボールを放りなげるように光球を打ちあげると、広間の天井にあった古いシャンデリアにぶつけ、数十本のロウソクを一気に灯した。
それで、ようやく広間の全体像が見えた――
巨大な扉を背に、入口近くで竜の背にのせられている自分。そこから少し前に倒れているイニ、奥の大階段と、その前に立っている少女エリサ。
そして、自分のすぐ前に立っているフィル。自分の、竜の心臓をもつ男。
「フィル」
リアナは膝の力が抜けそうになりながら、男の名を呼んだ。「よかった、あなたで」
フィルは無言で彼女の背後に手をまわすと、イニにかけられていた縄を切った。そのまま、自然なしぐさで抱き寄せられる。よく知った体温と匂いに安心感がわき、思わずため息をもらした。一番最初から、どんな危機でも彼女を助けてくれる、リアナだけの男。
フィルの肩ごしに、エリサがイニに近づいていくのが見えた。子猫のように興味しんしんにしのび歩いてきて、倒れた男をつついている。
「頭を動かしてはだめよ。打っているかもしれないから……」フィルに抱きしめられたまま、リアナは少女に声をかけた。
「エリサ、あなたどうしてここにいるの? 北部にいるんじゃなかったの?」
「その質問、もう飽きた」少女はつまらなさそうに答えた。
フィルはいったん彼女からはなれ、妖精王の脇をかかえて
「手伝うわ。……たしか、あの奥に応接間があったはず。そこにソファが……」
妖精王の城には、十年前に滞在したことがある。そのときの記憶を、リアナはたぐり寄せた。フィルに連れられて、かれの決死の雪山越えでたどりついたのだ。あのときは森の北端から入り、川を下ってここに来たのだと聞いたが……今回は、真逆の場所から入ったことになる。妖精王の居城については知られていなかったが、これでおおよその位置がわかったわけだ。
「なんで縛られてたの?」
エリサの問いに、リアナは簡単に事情を説明した。「イニ――妖精王は、家族が死んで自分がさみしいからって、わたしを連れていこうとしたのよ。デイを待つために、わたしはロールの実家に寄らせてもらっていて……、そうだわ、デイに無事を知らせないと」
記憶にあった場所に応接間は存在していたが、部屋の中はうっすらと
「あなたが来てくれて助かったわ。イニはほんとに自分勝手で……あんなことせずに、ふつうに頼めばいいのに」
二人がかりで養父をソファに横たえ、リアナはそう声をかけた。「だけど、わたしがここにいるとよくわかったわね」
この城にも伝令竜はいるだろうが、オンブリアの王と直接やりとりできる連絡路はないはずだ。時間は惜しいが、一度マドリガルに知らせたほうが混乱が少ないかもしれない。そうしないと、デイに森を攻撃する口実を与えてしまう……そんなことも、同時に考える。
「イノセンティウスはあなたの養父だし、ニザランの森は竜騎手たちを混乱させて近づけにくい。だから、あなたはきっとここに来ると思ったんだ」
フィルは淡々と答えた。
ほんの今朝まで、
(もしかして、〈竜の心臓〉にはそれほどの回復力があるのかしら?)
(わたしも、即死してもおかしくない矢傷からすぐに回復した。あのとき……もしそうなら、わたしの見立ては正しいことになる。フィルの治療に、きっと役立つわ)
リアナがかれの治療に思いをめぐらせている間に、フィルは彼女の質素な服をはたいて埃を落とした。それから、顔にかかった髪をはらい、頬に手をそえてじっと目をあわせてくる。
「デイより先にたどり着いて、よかった」
優しいしぐさに似合わない不穏なセリフに、リアナはふと不安をおぼえた。
「どうしてエリサがいるの?」
あらためて、そう尋ねる。「それに……わたしが自発的にここに来ると思ったなら、どうしてイニを攻撃したの?」
「……もう黙って」フィルはそう言ってゆっくりと顔をよせ、深く口づけた。「俺を助けに来てくれて、嬉しかった。……会いたかった……」
真剣な声に、疑問も忘れ、思わずほだされてしまう。「わたしも会いたかったわ」
すがりつくようにぎゅっと抱きしめられる。あるいは、捕縛されるように。
「その男、あなたの愛人?」
かん高い少女の声が割って入った。「あたし、そいつに誘拐されてきたんだけど。これって、あなたの計画?」
「まさか!」
リアナはぎょっとして問い返した。「ほんとうなの、フィル?」
「言わないでって頼んだのに。意地が悪い子だな、エリサは」
「どうしてあたしが、人さらいの言うことを聞くと思うの? それで、やっぱり愛人なの?」
フィルは嘆息して、なかば肯定するようなことを言った。「いまは愛人だよ。でも、すぐに夫になるんだ。子どもができたから」
「馬鹿みたい」エリサは言葉そのままの口調で言った。
「デイミオンはどうするの?」
「デイミオンはだれでも選べる」フィルはひややかに答えた。
「ふーん」
「……」
リアナは、愛人だとうそぶく男の腕のなかで、ようやく事情が読めてきた。フィルは自分を助けに来たわけではなく、デイのもとに返すつもりはないのだと。おそらく二人のあいだでなにかの駆け引きがあり、エリサを交渉の材料に使うつもりで
デイミオンに剣を向けて自分を王城から連れ去り、デイに要求を飲ませようとしていた一年前の事件を思いだす。あのとき
「こうやって、短絡的な方法で解決しようとするのはやめて、フィル。子どもの父親を、犯罪者にはしたくないわ」
「そのおかげで助かったこともあるくせに」
フィルは彼女を抱いたまま、甘くあざけるような声で言った。「俺が、燃えおちる里からあなたを連れだした。デーグルモールになりかかったあなたを背負って冬山を越えた。あらゆる
「あなたにはその
リアナは認めた。「わたしのことも、それに戦時の武勲も、エリサ王の命を救ったことも。……だから、これまでは王に剣をむけても見逃されてきただけなのよ」
「べつに、そうしてくれと頼んだわけじゃない」
「……そうね。あなたがそれを
恋人の体温に包まれる心地よさと罪悪感で、リアナは目を閉じた。すくなくとも自分は、フィルを
「謝らないで」
背と腰にまわされた腕が強まった。「謝ってほしいわけじゃないんだ。あなたがそれを知っていてくれればいい。俺にとっては、ずっと、それだけだ」
フィルの声は、自分の首もとにそそぎこまれていた。息が吹きかけられる刺激で、背筋がぞくりとする。たった一年しかともに暮らしていないのに、フィルは夫以上に、彼女の快感を呼びさます術を知っている。
「だけど、矛盾してる」
リアナは目をつぶり、自問自答する口調になった。
「デイミオンには雄竜のままでいてほしいと思いながら、そのために彼のもとを飛びだしてきたのに……、あなたには剣でなく、ふつうの男になってほしいとは頼めない」
フィルは顔をあげ、ふたたび彼女に向きあった。
「俺に変わってほしい?」
リアナの頬を手ではさみ、そうささやく。
「……ふつうの男になるよ。竜殺しでも英雄でもなく、ただの、あなたを愛する男になる。あなたが俺のものになるなら」
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