第41話 今度こそ、イエスというわ
「身体がこわばってる」
リアナの迷いを見ぬいたのか、フィルの声がなだめるような甘さを増した。「まだ俺が怖い? 冷たくしてごめん……あのときは、あなたがデイを選んだと思ったから」
すでにあたりは暗く、ロウソクの灯りがわびしい室内を照らしていた。フィルは彼女を抱いたまま、上腕を優しくさすった。
怖いと聞かれれば、そうだと答えそうになる部分がいくらかはある。デイミオンの恐ろしさが、古竜のような力ある存在への
「慰霊祭で会ったとき、具合が悪そうだった。……あのとき、もう妊娠してたんだね。俺の子どもを」
「そうだと思うわ」
「もっと優しくすればよかった。子どもっぽい態度だったね」
「……」
フィルの優しさは打算的だったが、それがかえって、かれを恋しく思った気持ちを思いださせた。傷つけられてもフィルを求める気持ちが、リアナのどこかにはずっとある。
「それで……どうなの?」
父親が誰であろうが、法律上はデイミオンの子どもだ。そのことを気まずく思いながら、リアナは確認した。
「どうって?」
「子どもは欲しくないと言っていたでしょ」
「その……」
フィルは急に歯切れが悪くなった。「まだよくわからない。ごめん」
腕のなかから見あげると、とまどうようなハシバミの目とぶつかった。
「あの家で、二人で過ごしていたあいだは、そうなればいいと思ってた……。子どもができたら、二人の生活が続けられるから……」
フィルは考えつつ言った。「いまも……正直、まだデイとの交渉に使うことしか考えてなかった。デイはずっと子どもを欲しがってるし」
リアナはなにも返さず、ただ嘆息した。
「でも、ちゃんと考えるから」
フィルはとりつくろうように言った。「いい父親になれるようにする。ほんとだよ」
その言葉はどうにも場当たり的で、彼女を手に入れたいためにそう言っているのだとわかった。でも、たとえそうだとしても、リアナは彼のそばにいようと決心しつつあった。今のフィルはあまりにも危なっかしい。いずれ生まれる子どもは、きっとこの孤独な男の大切な存在になるはずだ。同時に、重しにもなるだろう。
「あなたは、きっと変われるわ」
リアナは自分に言い聞かせるように言った。「そう信じてるから、あなたを訪ねていったのよ」
そして、ちゃっかりと新しい恋人を作っていた男と対面したわけだ。だが、フィルが悪いわけではなく、二人の男のあいだで煮えきらない自分が悪いのだろう。
リアナは手をのばし、男の頬をつつんだ。フィルは顔をかたむけ、手のひらに口づけた。
「……ずっと、あなたが恋しかった」
この男がいなければ、自分はここまで生き延びてこれなかっただろう。フィルがこれまで失ってきたもののことを思うと、言葉もない。
そんな男を愛さずにいるのは難しかった。ましてかれが、自暴自棄になるほど自分を求めていると知った今では。
「俺は……あなたがいないとだめなんだ。もう、どうやって生きていたかわからない」
「……フィル……」
「だから、子どもの父親としてでもいいから、あなたの夫にしてくれますか? 期間限定の第二夫じゃなく」
その申し出をリアナはどこかで予想していたが、やはり息をのんだ。
♢♦♢
返答の前に、やらなければいけないことがあった。リアナは伝令竜をとばし、城のあるじ、女王マドリガルに至急を伝えた。自分を必死に探しているはずのデイミオンにも同様の文を送った。
竜の
「なんて
「そう思うなら、俺に心臓をわたすべきじゃなかったね」
「ロカナンは無事なんでしょうね?」
リアナの確認に、フィルは笑って肩をすくめた。
それから二人で厨房を探しに行った。火をおこしていると、どこからともなく幽霊のような女官たちがあらわれて、食事のしたくを手伝った。
食料の備蓄はあまり豊富とは言えなかった。かびたパンと、石のように固いチーズ、それに祝祭の残りものらしい干し肉がすこし。フィルが残りものらしいシチューを温めなおし、
女官たちはなぜか籠いっぱいの摘みたてのベリーを分けてくれたが、どうやらエリサのお気に召すものはなかったようだ。ビルベリーを摘まんで、鼻に皺をよせている。
「コケモモを食べるのが嫌だから、ノーザンを出てきたのに。最悪」
「はいはい」
リアナは適当になだめた。「イチゴをためしてみたら? 甘いかもよ」
「ヨモギ酒を持ってきておくれ。頭が痛い」
ソファの上から、妖精王が情けない声を出した。「竜殺しはひどい男だ。私の竜を殺し、つぎは私を殺すつもりなんだ」
フィルは泣き言を無視し、エリサの碗にスープをよそった。リアナは養父がすこしばかりかわいそうになり、カップボードから酒を探して持っていってやった。
イニは酒を飲み、スープもたっぷりと食べた。
「すくなくとも、寂しくはなくなったでしょ」
リアナはそう
♢♦♢
食事をすませるほどの時間があれば、伝令竜が返信をたずさえて戻ってきてもおかしくはなかった。それに、白竜の気配をアーダルが読み取ることはたやすいはずだ。しかし、食べ終わるころになっても城の周囲に動きはなかった。
食堂の椅子でエリサがうつらうつらしはじめると、イニは嬉々として子どもを抱きかかえ、ソファに運んで世話を焼きはじめた。その姿に、かつてはクローナンとともにマドリガルを育てていただろうということが容易に思いうかび、リアナはせつない気分になった。イニはただただ、恋人の死と子どもの巣立ちが重なってショックだっただけなのだろう。連れ去られたリアナと、デイミオンにとっては迷惑な話だったが。
自分勝手な部分もあるにせよ、イニには養育してもらった恩があるし、なんだかんだ憎めない男でもある。
(なにか、かれの助けになれるといいけど。もちろん、ここに残るという方法以外で……)
「
フィルが彼女の肩に手をまわし、うながした。「さっきの答えを聞かせて」
森のなかに賊がひそんでいるかもしれない状況で、露台なんて……と思ったが、兵士の勘にくわえて竜の網をもつ今のフィルには、気にならないのだろう。それで、従った。
二人がいるのは一階部分の露台だったから、周囲のうっそうとした森にさえぎられて、星の姿は少なかった。月あかりは十分にあったが、まばゆくきらめく
年月のせいで滑らかに削られた石の手すりに、リアナは手を置いた。
デイミオンは、わたしがいないほうが力を発揮できる。
フィルは、わたしがいなければ生きていけないという。
それなら、こうするのが一番いいのではないか?
デイではなく、フィルを選ぶ。
複数婚が奨励される竜族ではあるが、自分には向いていないということがリアナには骨身に染みてわかっていた。もう一人の夫を持つということは、つまり、夫にも二人目の妻を許すということだからだ。それはデイとフィルの二人もおなじだろう。わたしたちは誰も、愛する者の二番目でいいとは思えない。
「いつかは、どちらかを選ばなくてはと思っていた」
気持ちのうえであきらめがついたわけではないが、すくなくとも頭では、そう結論が出ていた。リアナは意を決して、返事を――いや、その前に、確認を。
「わたしの言うとおり、ちゃんと治療を受けるわね? 時間がかかっても?」
「誓うよ」と、フィルは片手をあげた。
「浮気しない?」
「もちろん」
「あやしいものね。あのフェリシーっていう彼女はどうするの?」
「えっと……」
フィルはハシバミの目をおよがせた。「嫌われるようにしてきたから、大丈夫だよ」
「なんなの、それ?」
「お金を渡したりして」
「あきれた……そうやって、女の子を手玉にとって、あとくされなく遊んでるわけね」
「あなたが手に入るなら、もうしない」フィルは
「あなたに
リアナは童女のように、スカートのすそを握りしめた。西部の混乱と、ニザランに足音をしのばせつつある危機。フィルの破ったであろうあらゆる法律と、デイミオンの怒り。それらのすべてを、今わかる範囲で天秤にのせた。
今度ばかりはフィルの処遇をデイにとりなしてもらう手も使えない。だが、この危機にフィルがライダーとして力を発揮してくれれば、その功績とひきかえに放免してもらえるかも。そして、リアナがおとなしくデイのもとに戻れば、事を荒立てたくない夫はフィルを許すかもしれない。
でも……そうすれば、フィルをまた一人、孤独のなかに置き去りにすることになる。生まれてくる子どもの家族から、かれを疎外することになる。それが嫌なら、自分も犠牲を払わなくては。
「今度こそ、イエスと言うわ、フィル」
リアナはついにかれを見あげ、答えた。「デイミオンと別れて、あなたの妻になる」
「ほんとうに?」
フィルは顔をかがやかせたが、リアナは念を押すのを忘れなかった。
「エンガス卿が引退したら、西部の守りが弱くなる。エサル公におさえられるよりも先にこちらが動かなくては。わたしの夫になるなら、あなたにも、それなりの責務は果たしてもらうわよ」
「うん」フィルは急いでうなずいた。
「これからデイがやってきたら、
「うーん」返事がいささかあいまいになった。
「前みたいに投げやりになったり、わたしのためでも、無茶なことはしないでね」
「うん」
いいお返事すぎるのも心配にはなるが、今はこの男を信じるしかない。
「でも、もしデイミオンが泣いて復縁を頼んだら、ふり払える?」
喜びの抱擁の合間に、フィルは意外なことを聞いた。
「えっ?」
リアナは思わず目をまばたいた。「デイは……泣いて頼んだりしないわよ。知ってるでしょ?」
黒竜の
「デイミオンは生まれながらの王で、つがいにも王配の資質を求めるタイプよ」
「だといいけど」
フィルは彼女を抱きよせたまま、冷たい口調になった。「俺はあの人の、あなたを一番におかないところが気に入らない」
「フィル、わたしだって、デイやあなたを一番においたりしないわ。それができるから、王なのよ。強さだけでなく、王国への献身がなくては……」
「本当にそうなのかな」フィルは疑わしそうだった。
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