第9話 フィルの薬

 ♢♦♢ ――レヘリーン――


 来客たちが帰ると、レヘリーンはハズリーを連れて滞在する部屋に戻った。

「夜会のひとつでもあれば、もっと楽しいのだけれど」

 彼女の言葉に、ハズリーが返す。「あなたが来てくだされば、この辺境の地も王都みやこの輝きに満ちるでしょう」

 美しく整えた顎髭あごひげに触れながら続けた。

「……ともあれ、あなたが退屈なさるのは本意ではない。明日は仕立て屋を呼びますよ。来週にでも夜会を催しましょう。花火を見るほうがいいかな?」


「まあ、素敵。花火のもよおしなら、ボートも必要だわ」

「もちろん、上等の小舟を用意しますよ。大きい舟には楽隊ものせたら、面白いでしょう」

「ええ、それは絶対に必要ね!」

 レヘリーンは声を弾ませた。昼はつまらない打ち合わせに同席して退屈していたので、娯楽の計画に期待が高まった。屋外の催しなら、ドレスは明るい色のものにしなくちゃ。なにかひとつくらいは、新しい小物も必要だし……。



 と、小姓が来客を告げた。御用聞きの靴職人という名目でやってきたのは、黒髪の地味な男。〈ハートレス〉の兵士にして間諜スパイ、スタニーだった。

「閣下におかれては、ご機嫌うるわしく」男はうやうやしく頭を下げた。


 レヘリーンは鷹揚おうようにうなずいた。「ありがとう。うまく運んでいるみたいね」

 この男がふらりと館を訪れて十日ほどつ。王都やデイミオンたちの情報などを伝えてくれるので、重宝していた。前回の報告は、養子に出した次子フィルバートについて。その内容はまさに彼女が懸念していたものだったので、レヘリーンはかなりの大枚をはたいてこの間諜を買収したのだった。


「ご依頼のとおり、フィルバート卿は両陛下のおしに応じないようですよ。ご夫婦仲睦まじいと喧伝しておきました」

 スタニーが報告した。「こちらに恋人もいますしね」


「あの子も分かってくれたみたいで、嬉しいわ」レヘリーンは言った。

「リアナ陛下さまは妊娠しているみたいだし、そうなったらデイミオンとは、しっかり夫婦の絆を作ってもらわないといけないでしょう。第二の夫は、いまは不要だわ」

 あいまに、可憐なため息をつく。「ましてあの子が、おなかの子どもの父親だなんて……ハートレスの子が生まれたりしないかしら。心配だわ」


「さようですな」スタニーは感情の読めない笑顔でうなずいた。その表情にフィルバートを思いだし、レヘリーンはかすかに不快をおぼえる。


「フィルはいい子だけれど、分はわきまえてもらわなくちゃね。それがあの子のためでもあるんだもの」



 ♢♦♢ ――フェリシー――


 その夜のフィルはいつになくイライラしていて、ロイたちと見まわりに行くといいだしたり、やはりやめると言いだしたり落ちつかなかった。


(お母さまとは不仲だとあとで言っていたから、そのせいかしら)


 不機嫌といっても、山の男衆のように大きな声を出して女子どもを怖がらせることはない。あいかわらずフェリシーには優しかったし、声を荒げるようなこともなかった。かれをよく知る者以外には気づかれないだろうというくらいの、ささやかな変化だった。


 いつものように抱きあって眠ってから、一刻ほどは過ぎていただろうか。ふと目をさますと、寝具のなかにフィルがいなかった。

(まだ、朝稽古の時間には早すぎるわ……)


 ざざっ、とかすかな水音がして、台所で水でも飲んでいるような雰囲気だった。好奇心に駆られてそちらに向かう。よく鍛えられた裸の上半身と、背中の傷が目を引いた。フィルはなにか……粉薬のようなものを口に入れて水で流しこんでいた。


「フィル?」

 近づくと、いつものミントの香りがした。

(この薬の匂いだったんだわ)と、フェリシーは直感的に思った。身だしなみのためではなく、おそらく、この薬につけられた匂いなのだろう。


「起こした? ごめん」

 ふり向いたフィルの目の下には、うっすらと隈が見えた。もしかして、自分が眠ったあとも彼がまったく眠っていないのではと、フェリシーははじめて不安をおぼえた。いくら超人的な体力があるといっても、数日も眠らずにいられる人はいないはずだ。


「その薬……なに?」フェリシーはおそるおそる尋ねた。


「兵士たちが使う強壮剤だよ」

 フィルは説明してくれた。「何日も、寝ずの行軍で作戦を遂行しなきゃならないときもある。そういうときに使うんだ」

「でも今は……必要ないわよね? 戦争は終わったんだもの」

 フィルは彼女の言葉に答えずに、疲れたように笑った。「そうだね」


 しばらくすると薬が効いたのか、フィルは平素の落ち着きを取り戻していた。むしろ、普段以上の上機嫌といってもいいくらいだった。


 そのあとは、ベッドの上で何度も求められて……その激しさに、フェリシーは気を失うかと思った。ようやく解放されたのは明け方だった。


 最中には「もうやめて」と懇願こんがんしたのに、終わってしまうと名残惜なごりおしい。

……女性も使える?」

 寝具のうえに身を起こして、フェリシーは尋ねてみた。兵士たちが使うものと聞いたが、あんなふうにフィルと同じ快感が追えるのならと、好奇心がいたのだ。


「さあ、わからないけど、あの薬を使っている女性には一人しか会ったことがないな」

 肘まくらの姿勢で口もとをかすかに笑ませて、フィルはさらりと答えた。疲労困憊ひろうこんぱいの彼女とは違い、朝目覚めたばかりのようにはつらつとして見える。

 女性と聞くと、フェリシーはつい嫉妬してしまう。気が狂いそうなあの快楽を、ほかの女性が一緒に味わっていたのかと思うと。


「その女性は……どんな人? いまなにをしてるの?」思わず顔をしかめて尋ねた。



 フィルは優しくほほえみ、彼女の耳もとに唇を寄せてささやいた。「十年前に、俺が殺したよ」



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「リアナシリーズ」について

※※作者名の付記されていないサイトは無断転載です。作者名(西フロイデ)の表記がある投稿サイトでお読みください※※

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