プロローグ

 目尻から滴がこぼれて、目が覚めた。

 雨が降っていた。

 夜に万雷の滴の音。草地の上、仰向けの視界を覆い尽くす、空からの旅人。


 泣いていたわけじゃない。


 僕は知っていた。この雨は本物ではないと。

 確かにその音は耳を覆っている。だが、光の乏しい夜、それらは目に届かず、肌に触れず、匂いもない。

 本物ではない。

 ただ、音だけがリアルで、恐ろしくうるさいのだ。


 だから。

 幾重にも張られた、濁音の暗幕の隙間から、立ち現れたヴィオラのような声に、逆らうことなどできなかった。


 駆け出した。声のする方へ。真っ暗闇の森の中へと。


 何度も方角を見失った。

 木にぶつかり、根と泥に足を取られ、何度も転んだ。

 痛みも冷たさもなかった。

 ただ地面に這いつくばるたびに、土を叩く水音が大きくなるのが辛かった。

 本当に、心の底から聴こうとしなければ、その歌声は幻のように消えてしまうのだった。


 僕は走ることを止めた。


 そして両目を閉じ、美しい声だけを頼りに歩き始めた。すると不思議と、その声の主が、近くなってきたように感じられた。


 目を開いた。

 東屋の中に、女性がひとりいた。


 明かりもつけずに、どこかで聴いたことのあるテーマを繰り返し歌っていた。


 だが、僕の存在を見るや、彼女は歌うことを止め、燭台に蝋燭を灯した。


 そして、ひとつ、長く息を吸って。


 歌い始めた。

 その瞬間。

 僕の耳から、濁音が、雨が、風が、その奥に隠れる夜が、奪い尽くされた。



 はっきりと聴こえた。


 ぴゅうぴゅう吹く風が、穏やかな木管の音色に変わるのが。

 くぐもり、駆け下りる雷鳴が、ドラムスの音に変わるのが。

 暗渠が水をごぼごぼ呑む音が、金管の重低音に化けるのが。

 水滴は細長い草葉を鍵盤に変え、大きな木の葉をパーカッションに変え、そして互いにぶつかり合う音をさらに重ねて、ホーンセクションを生み出そうとした。

 そして、重厚な弦楽はすべて、冷たい空気の中で、彼女の歌が生まれ変わったものだ。


 大いなる交響としての世界が、チューニングを始めていた。


 彼女の右手が掲げられた。


 ゆったりした腕の動きに従って、管弦による前奏が奏でられる。三拍子の優雅な旋律に重なる和声は、どこかしら憂鬱さを含んでいる。やがて腕が止まるのに合わせて、メロディもドミナントとともに終わり、再び静寂が――


 訪れるはずもなかった。

 ドラムスが押し寄せてくる。

 彼女が四回スナップを打つ。

 十六ビートの動機を、声とも擦弦音ともつかぬバスが刻む。

 きらめく倍音とともにコーラスが叫ぶ。


 音楽が生まれていく。


 僕はこのとき、この曲の名前すら知らずにいた。だが心はすでに捉えられていた。この”My Favoriteましきも Thingsのたち”へ。


 前奏が終わると、彼女はテーマを歌い始めた。

 リズムの強点が聴く者の心臓を跳ね上げ、グル—ヴの波が爪先から頭までを痺れさせる。元のバージョンとは大きく異なる複雑なアレンジを、雨粒の楽団は寸分の狂いもなく、完璧に演奏していく。

 テーマは細かく分割された三拍子と二拍子と四拍子を行き来し、難解な和声も過たれることがない。各パート、リズムも、ピッチも、全くズレがなかった。


 押し、引き、折り重なるいくつものサウンドが、濡れそぼる僕の鼓膜と感情を揺さぶる。黙って聴き入るほかなかった。

 フルートのソロのあと、転調があり、明るさを帯び始めた和音とワルツ調へ移行したリズムが、曲を終盤へと導く。


 終わらないでほしい。心の底から思った。


 だから、アウトロが始まったとき、思わず手を伸ばした。震える脚で、彼女のいる方へ歩き出した。

 そして躓いて、転んでしまった。


 再び這いつくばった地面で聴いたのは、暖かみが消え、緊張感に満ちた終局の音――コーラスとホーンセクションのハーモニー。そしてそれらがすべて、風と共にばらばらになり、雨粒に還っていく様子だった。


 彼女は雨と戦い、雨と共に創り上げた。この一回限りの交響を。そして再び主役を雨に譲って、自ら舞台の幕を引こうとしていた。


「またね」


 それだけ言い残して、彼女の声は消えた。交響も消えた。

 静寂の代わりに、また、万雷の滴の音が、僕の耳を叩いた。




 今度こそ、本当に目が覚めた。目尻から滴が零れたが、もう雨は降っていない。ここは屋内――築五十年はする、古いマンションの部屋の中だ。

 雨音も聞こえない。

 父さんの高いびきが、キッチンを併設した廊下の奥の、ワンルームから聞こえる。


 手を廊下の床につくと、べたりとした感触があった。こんなところで寝そべるもんじゃない。至極今更な反省をしながら僕は、拡張視界用のコンタクトレンズと、拡張聴覚デバイス兼通信装置であるジャック付きイヤホンを、そっと取り外した。


 震える指が、イヤホンを取り落とした。

 雨粒の残響が、まだ耳の中にこだましている気がした。そしてそのことが不思議と、僕の胸の内を暖めていることに気がついた。

 涙はもう、乾いていた。


 これが、音楽。

 そして。


 あれが、共創家きょうそうか

 あれが、吹華ふきばな銀凛ぎんりん

 その日知ったばかりの言葉と名前を、心の中で反芻した。


 最新鋭の音楽制作ツールと、拡張現実アプリケーションを駆使する、サウンドの魔術師。そしてその筆頭の名前を。


 そのときだ、彼女のようになりたいと思ったのは。

 彼女のことをもっと知りたい。もっと彼女の音楽を聴きたい。

 でもそれ以上に、彼女のように美しい音を奏でられる人間になりたい。


 そうだ、なろう。


 彼女が通っていた音楽学校に行って、彼女と同じくらい、いやそれ以上に勉強しよう。

鼻血が出涸らしになるくらいにだ。

 彼女は作編曲家で、セッションミュージシャンで、音響エンジニアで、視覚効果アーティストで、生成音楽AIやアプリケーションにも通じた技術者で、要するに、世界一美しくてかっこいいパフォーマーだ。

 惚れるなというほうが、無理がある。


 絶対に、なってみせる。 

 こんな、行き詰まった現実の中にも、温もりを残せるような音楽を創れる音楽家に――



 *


――それが、中学二年生の夏休み、生まれて初めて芽生えた、僕の夢だ。命よりも大切な気がしていた。


 そんな夢が、叶いそうにないことに気づいてしまったのは、それから一年近くたった後。つまりは、昨日のこと。


 でも、その絶望からすべてが始まるだなんて、思ってもいなかった。

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