1.SIDE-A_12 八弦と牢獄

 そのとき、僕らを包む音があった。

 一団の管弦が、僕とエリーゼが共創したテーマを洗練させ、切り取り、クリアにしていく。研磨される原石のような気分で、気づけば僕は、自分の語るべき音を思い出していた。


 誰だ?エリーゼか?

 考えている間にも、曲は進み、それに背中を押されるように、一人の男が闇の向こうへ消えていく。


 追え、行かせちゃいけない。

 歌え、彼はそれを願った。

 どうしたらいい。


 追え、

 歌え、

 追え、

 歌え、

 追え、

 歌え――


――その手を取れ!

 雷撃の如く鳴り響くタータ。


 僕は駆けだそうとした。

 だが、そのとき、影が一つ、僕とエリーゼの間をすり抜けた。

 そして、僕らを包み込んだサウンドの主を、ようやく知った。


 脱兎のごとく走り抜ける、赤いドレスの女。吹き流れる銀髪の波。褐色の美しい肌。

 僕がこの人のことを、見間違えるということがあろうか。


 僕の憧れ。僕の永遠。僕にとって、音楽そのもの。


 吹華銀凛が、腕を振り、駆け、自らの師匠の手を掴もうと、手を伸ばした――


 そして、後ろに飛びのいた。

 二人の間を、忽然と現れた鉄格子が阻んでいた。扉部分は見当たらない。

 だが、手前側に、その場に似つかわしくないものが一つ――マンドリンだ。弦が欠けている。八弦あるべきうち、一番細い弦が一本あるだけだ。その一弦は、サファイアいろに輝いている。


 そこまで来てやっと、桐澤さん――代理人氏はこちら振り返った。会場は、すでに静まり返っていた。


 やあ。

 彼は声を出さずにそう言った。間違いなく、師匠に向けて言っていた。


 僕はわけのわからない感情が、そのまま歌になってしまうのを必死にこらえた。はっきり言って嘔吐しそうだった。

 師匠は鉄格子に縋りつき、へたりこんだ。彼女の背中は震えていた。


 彼女のサウンドは、一層悲愴を増した。ゆったりとしていたはずの八分の六拍子は、今や漁船を揺らす荒波のごとく、寄せ返し、叫び狂っていた。


 あああ、あああ。

 彼女は呻くように歌っていた。僕にはわかってしまった。彼女は、本当は、呼びかけたかったのだ――「先生」と。


 僕とエリーゼは、彼女のもとへ歩み寄った。僕らが彼女の側に立ったとき、鉄格子の奥には、もう誰もいなかった。



 吹華銀凛が、呻く。呻きのリフレインが、彼女自身の生み出す、美しい交響に呑まれていく。僕は、そのリフレインを、少しずつ歌に変えようとした。エリーゼもそれに加わった。音程の定まらない声の流れに、近いメロディを必死に考え、彼女に歌いかけ、共に歌わせた。それを何度も繰り返す。僕が重なり、エリーゼが掛け合う。すると、息が整い、そろい、ハーモニーの準備ができあがった。


 エリーゼの瞳が、深碧になった。


 美しい、しかしまるで鎧のように分厚いサウンドたちが、少しずつほどけていく。楽器たちが消えていく。三拍子に合わせて、エリーゼが楽しそうに踊るのを、僕は師匠を抱き起し、立ち上がらせてから、一緒に観ていた。


 すべての楽器たちの音が消えたとき、残っていたのは、僕たち三人の声だけ。その長い長いハーモニーで、曲は、一旦の大団円となった。


 僕は、鉄格子の方を振り返った。やっぱり、誰もいなかった。


 ただ、変わったことが一つ。

 糸巻き部分から、まるでみるみるつるを伸ばす植木のように、マンドリンの弦が伸びていたのだ。一番細い弦の二本目。一本目と同様、青く輝いていた。


 拍手――また押し寄せてくる拍手。だがそれが僕たちに衝撃を与える前に――


 ガラスの割れる音が聞こえた。

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