2.SIDE-Dream

 桐澤君。


 僕らが初めて出会った、その年の夏から、君は僕の家で暮らすようになったね。そして正式に僕らが兄弟になったのは、それから一年後。僕にとっては喜ばしい思い出だ。

 だから、そのころにあったもろもろのいざこざについては、もうあまり思い出したくなかったりする。何もかも勝手に進める父さんに、母さんが激怒して実家に帰ったこととか。


 あの三条での出会いのあと、僕と父さんは、君が暮らす児童養護施設に足繁く通って、一緒に遊んだ。君はほとんど言葉を話さなかったから、僕がずっと喋り倒していたね。でも施設のピアノを弾くとき、セラピー用のスリットドラムを叩くとき、何も語らなくても、君は本当に雄弁だった。顔だって喜色満面だった。子供心にもよくわかったよ。君は本当に、音楽が好きなんだって。

 ただそれだけの、幼い少年だった。


 火事で家族を失って、ショックで言葉を話せない時期が長かったんです。碓井先生が、父さんにそう話していた。先生はそのころ、ちょうど大学院にあがるくらいで、ボランティアの一環として、養護施設に古い楽器を寄贈する活動に携わっていた。そして、持ってくる楽器という楽器全てに興味を示す君にせがまれて、週一で音楽の指導をするようになった。そして僕はそこに割り込むようになった。習ったのはピアノだった。と言っても僕も楽器は未経験だったから、碓井先生は指導時間の大半を僕に費やすことになった。君は――大した不満もなさそうに、他の楽器を好き放題いじっていたね。

 恐ろしい子ですよ。そんなふうに語る碓井先生の低い声を、僕は今でも覚えている。少し弾き方を習って、触ってみただけで、その楽器がどういう仕組みで動いていて、どう操作すればどんな音を奏でるのか、そしてそれが自分の心にどんなふうに響くのか、この子は直感的に洞察してしまう。その言葉に、父さんは何故か厳しい顔をしてうなずいていた。その態度の意味を知るのは、ずっとあとになってのことだった。


 僕らが家族になる手続きは、比較的順調に進んだ。唯一の反対者だった母さんも、最終的には折れてくれた。

 ただ、条件があった。普通養子として縁組し、養育里親として君を引き取ること。母さんが突きつけたこの条件のせいで、君の戸籍には「養子」との記載がはっきりと残った。でも、当時の僕らはそんなの知ったこっちゃない。僕は君といられることを喜び倒し、君は戸惑いながら笑ってくれていた。


 今から思うと、僕ら二人の感情は、この頃からすでにアンバランスだった。

 でも僕らはいつだって仲良しで、本当に、心の底から、兄弟同然だったはずだ。


 突然家族が増えたこともあり、我が家は引っ越しを決めた。それまで住んでいた町家を人に貸して、御池通沿いのマンションに引っ越した。父さんは君のために、防音室まで準備したけど、結局君はほとんど使わなかったね。僕が君を連れ出して、もといた町家――碓井先生やその研究仲間が借り上げて、下宿にしてしまったかつての住まいに、しょっちゅう遊びに行っていたから。楽器だって機材だって、そっちのほうが充実していたから。閑静な町家の、古びた土蔵から漏れ出すノイズの群れは、いつだって僕らをわくわくさせた。碓井先生からの指導はそこで続いた。


 家族になった途端、君にも世話焼きになった母さんは、君の人見知りや言葉の貧相さを正そうと奮戦していたから、その目を盗んで家を抜け出すのは、本当に大変だった。君は幼稚園にも全然行きたがらなかったし、僕も便乗してサボろうとするし、母さんは本当に大変だったと思う。

 君が幼稚園や小学校でいじめられないか、母さんは心配そうだった。急に兄としての自覚が芽生えた僕は、僕が守るから心配するなと、根拠もなく自信たっぷりに言った気がする。


「俺のこと、兄ちゃんって呼べや?なんかあったら、大声で叫べな?」


 そんなことを、君にも言ったな。基本、君は僕のことを名前呼びだったから。恥ずかしい話だ。


 そしてあいにく、小学校一年生の終わりごろ、母さんの懸念は的中することになった。

 担任教師のやらかしで、君が養子であることが、クラスメイトの保護者にばれた。そして同級生たちは、親たちからそのネタを聞きつけた。

 誕生日のずれた、同学年の兄弟。双子と言い張るには、僕らは見た目も似ていなかった。


 みなし子、捨て子、人殺しの子――根拠のない尾ひれのついた言葉が浴びせられても、君は相変わらずおとなしくしていた。むしろ荒れ狂ったのは僕の方で、狂犬みたいにいじめっ子に噛み付くので、生傷が絶えなかった。多少の配慮もあったのだろう。二学年目、僕らは同じクラスになった。しかしいじめはなくならなかった。あろうことかいじめっ子らは、僕のことは何かとちやほやした。地元の公立小学校に通う子女としては、少しばかり僕らは富貴な家の出――有り体にいうと金持ちだったし、そのことが僕への卑屈な態度と、君への冷酷な振る舞いにも影響していたのだろう。僕は休み時間も、君のそばを離れないようにした。帰り道は君の手を引いた。そして荷物をおいて、さっさと碓井先生のもとへ遊びに行った。過剰な心配ばかりする母、相談になんて乗ってくれない、というかそもそもあまり家にいない父。

 家は、気が休まらなかった。


 碓井先生だって、どうにかできる立場でもなかった。だからいじめについては話しもしなかった。でも、感じるところがあったのだろう。レッスンはこのころから、だんだん自由なセッションになった。僕らがどんなに無茶苦茶な音を奏でても、歌をうたっても、碓井先生たちはそれを意味のある音のまとまりに還元してみせた。ピアノで、ギターで、ベースで。その音の群れに巻き込まれて、きりきり舞いになる僕を知り目に、君はいつでも、世界の中心であろうとした。主に、歌うことで。そしてその瞬間、君はいくつもの意味で本物だった。君自身であり、サウンドの支配者であり、その音を取り囲む無限大の世界を、君の胸のうちに引きずり込む、重力点だった。

 そして、君に声を重ねることで、僕は君の兄弟であろうとした。


 箱庭地獄のような日々が続いて、二学期。

 僕らはいよいよ復讐を企てた。

 といっても、荒っぽいことは何もしない。君の意向で、随分とエレガントなものになった。


「学習発表会、乗っ取ったろうや。兄ちゃん」

 いつもは大きな目を糸みたいに細くして、そして顔を赤くして、君は言った。いたずらっぽいと言うには、あまりに邪気のない表情だった。


 君の計画はシンプルだった。

 毎年秋に行われる学習発表会。二年生の演目は、学年を二つに分けての演劇だった。そこでは幕間に歌が挟まれ、担当になった生徒が、交代で一人一フレーズずつ歌っていく。長さに差はほぼない。いたって平等に割り振られる。


 その歌の全フレーズ、僕たちだけで歌ってしまおうというのだ。ステージに乱入して。


 馬鹿げた、子供っぽいアイデアだ。でも、僕は乗った。面白そうだったからだ。僕は、先生監視のもとではあったが、伴奏をやることになっていた。トリとなるフレーズを歌うのも、僕だった――クラスのみんなが僕を推薦した。そして君には、小道具係と称してなんの役も与えなかった。君のほうが、圧倒的に歌もピアノもうまかったのに。でも、それが結果的に功を奏した。たとえ歌うのが誰であれ、僕が伴奏を続ける限り、音楽は鳴り止まない。君が歌うのを止められたら、僕が歌ってやればいい。たとえすべてを歌いきれなくても、歌や伴奏が止まってしまった時点で、劇はほぼ台無しになる。いい気味だ。

 歌い手や役者には、いじめっ子たちも大勢含まれていた。みんな、普段の悪行は棚に上げて、驚くほど一生懸命練習していた。それを見ているだけで胃がむかむかしたけど、僕らが密かに進めている計画のことを思うと、自然と笑みが溢れるのだった。いまにみていろ。そう思ってずっとこらえた。


 そして、学習発表会当日。

 劇の幕が上がり、僕の伴奏が始まり、イントロが終わったとき――


 君は、歌わなかった。乱入もしなかった。僕は動揺して、危うく伴奏を止めそうになった。君は舞台袖から劇の様子を見守るという、ただそれだけの役回りをこなしていた。とても、満足そうにほほえみながら。


 動揺、焦り、苛立ち。いろいろな感覚が一斉に僕の胸と背中を駆け巡った。危うく泣きそうになった。

 君の真意に気づいたのは、劇が終わる直前。歌が僕の番になったときだ。僕は伴奏を先生に任せて、ステージに立った。一番最後の、少しだけ長いフレーズを、少しためらいながら歌い始めたとき――


 声が、二つに別れた。

 僕の口から、別の声、別のメロディが歌われているように感じた。それは、僕が一人で歌うはずだったメロディに付け足された、ハーモニーだった。

 僕の左隣が、少し暖かくなった。

 君だった。

 小道具係の黒衣装のまま、何の脈絡もなくステージに立っている、君だった。君の声だけが、君がそこにいる意味を、そして君が誰なのかを、漂う空気に刻みつけていた。


 君は、僕の兄弟だった。

 僕らのハーモニーを聞いたあとに、それを疑うやつは、誰もいなかった。



 その日の帰り道、僕は君の手を離した。

 夕焼けの下、君は僕の少し先を、はしゃぎまわりながら歩いていた。

 まだ劇は終わっちゃいない。お楽しみはこれからだと言わんばかりに。


 少し、悔しかったのを覚えている。

 でも、そんな思いはすぐに消えてなくなった。


 君が前を歩いてくれる嬉しさ。

 ときどき、こちらを振り返ってくれる頼もしさ。

 僕がここにいられる、君がいてくれる、心地よさ。


 君が立ち止まった日には、僕が追いついてそばにいてあげよう。そう最初に思ったのは、きっとこの日、この瞬間だ。


 君のその時の笑顔は、登ってくる時間を間違えた満月みたいで。幼い恋がそこから始まりそうなくらい、美しかった。

 でも、僕らの間にそんなものはなかった。


 僕らには、はじめから、愛しかなかった。



 そこに大きなヒビが入ってしまったのは、それから大体四年半後。僕らが中学に上がるとき。母の口から語られたこと。

 ありきたりで、考えてみれば納得のいく、でも、僕らには、衝撃的な、打ち明け話だった。



 *


「沙原さん、大丈夫ですか?」

 落ち着いた声とともに、肩をゆすられた。

 目を覚ますと、そこは社員用のプライベートラウンジだった。声をかけてくれたのは、楊さんだった。

 私たちの他に、人の姿はない。


「大丈夫だよ」

 声はかすれていた。それが腹立たしかった。


「お具合、悪いんですか?記者会見は――」

「出る。もちろん出る。私の仕事だ。お気遣い、ありがとう」

「あ、いや、恐れながら――」

「何だ」

「泣いて、らっしゃいましたもので」


ああ、そんなことか。いつものことだ。

「寝不足だよ、寝不足」

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